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【人生について語る②】/心の病に至るまで

こんにちは。
「急激に変化する現実と自己の折り合いをつける」―――Mystic Pioneer(ミスティック・パイオニア)―――DEUKUです。

前回は、でうくの幼少期の概略について語りました。


でうくが自分史を作る目的は、これまでの生育を振り返り、培われた思考・行動パターンを整理することで、今後の人との関わり方の参考にするためです。

今回は、三歳児神話を超えた後の経過と、心身にあらわれた変調をメインに語りたいと思います。



このテーマで語りたいこと

  • “育ち”によって生じる心の病、人に対する思いなど

  • 恋愛・結婚・家庭に対する考え方

  • 大人になって解決したこと、なおも影響するもの



2. 「三歳児神話」を超えて

「三歳児神話」のもとに、家族の愛や庇護を一身に受けたでうく。
その年齢を過ぎた後、父は家からいなくなり、母は態度が豹変し、「子どもは動物と一緒で言葉で伝えてもわからない。だから、叩いてしつける」が教育方針となる。

泣けば更に叩く、わめけばますます叩く、と、感情や言葉といった人間らしい表現を排する方向へと進んでゆく。


○ 「お客様」から近づけない

7歳頃のでうくの夢は「早く大人になること」でした。

大人になれば自分だけで生きていけるから。

この夢は、成人して家を出ていくまで一貫して抱いていました。
現在も「実家にいるのは一週間以内」となんとなく決めています。

「お客様」扱いではなくなってしまうから。

でうくは一切家事をしません。
台所にも立ちません。「さす九」地域では『台所は女の城』はかなり身近な言葉ではありましたが、言い換えると『母の城』という言い方もできるわけで、むやみやたらに立ち入ったり触ったりすると面倒なことになる、と体が覚えているからです。

一方、成人して実家を離れ、一時的に帰省をすると、実家に一週間もいると母がイライラし始めることに気づきました。「いつまでお客様気分でいるんだ。長くいるのなら、家族なのだから家事くらいしなさい」という意味だったのですが、その言い分は頭では理解できても体が警戒を解かないので、ならば早めに実家から引き揚げようという思考になります。

「お客様」くらいの距離感がちょうどよい。

「家族」というものがなんとなく他人事のように感じたり、よくわからなかったりするのは、こういったところから来ているのかもしれません。



○ 「賽の河原」のような家事手伝い

畳んだ洗濯物が目の前で広げられ、畳み直される。
何が良くなかったのかわからない。ただ、何かが良くなかったのだろう。

いずれ、畳んでいる途中で「もういい」と洗濯物を取り上げられる。
何が「もういい」のだろう。いや、きっと良くはないのだと思う。

料理もそう。

片づけもそう。

掃除もそう。

むしろ掃除機は、わたしが吸われる側だった。
掃除機から逃げ回っていて、今も掃除機が苦手だ。

お遣いについてもそう。

指定された物がお店になく、代わりの物を買ってきたとき、烈火の如く怒られ、自分で消化するよう言われた。わたしは泣きながらなんとか消化して、酸っぱいものを唾と一緒に飲んだ。あの酸っぱいものは胃酸だったのだなと思う。
コンビニのあんまんを見ると今でも込み上げる酸っぱさがある。

「この子は家の手伝いもできない」

「家事をする」という行為が、とんでもなくハードルの高いハイレベルな活動に感じた。



○ 「お金を稼ぐ」力のない人

お手伝いをするとお小遣いをもらえる家庭がある。
我が家はそのような家庭ではなかったが、それ以前に「家の手伝いもできない」人間はお小遣いをもらう土俵にも立てない。

「家庭の構成員が家の手伝いをするのは当たり前」

「それさえもできていないくせに金をくれと言うなんて」

わたしは金を稼ぐ力がない。

価値を生み出す力がない。

「金を出してもいい」と思えるような高いレベルの家事をできるようになる日は永遠に来ない気がする。

こんなことで、わたしは大人になれるのだろうか。

わたしは生きていけるのだろうか。

家を出ていけるのだろうか。

急速に冷えていく感覚が今でもひりつくときがある。



○ 調子に乗るな!

わたしは20代の半ばまで、痛みにとても鈍感だった。おかげで若くして歯を永久に失ったことがある。

痛いけど、痛くないんだ。

頬が痛いのなんて、いつものことだったんだ。

だいたいいつも、手の平が飛んでくるのは頬にだった。
最も痛みを感じやすく、それでいて回復が速い部位。それが頬なのだと思う。

前の記事でも述べたとおり、子どものでうくは優等生の皮を被ったお調子者

「調子に乗るな!」

家にわたしと母だけになると、タイミングを見誤った、と思う。

まずい、これは。

案の定、平手打ちを喰らう。耳を引っ張られて「聞いてるの!?」と怒鳴られる。泣いてわめくと「泣いてごまかそうとするんじゃない!」とますます叩かれ、いつしか涙は止まらないのに心は平常でいることに慣れた。

なぜ、心はこんなに冷めきっているのに涙は止まってくれないのかが疑問だった。

涙が出るからつらいのか、つらいから涙が止まらないのか、わからなかった。


痛いけど、痛くないんだ。


自分が打たれているのを冷静に見つめる別の自分がいることに気づいたのは、この頃だった。
後になってホゴシャと名づける人格だ。

怖いくらいに冷めた目でわたしが叩かれるのをぼんやりと眺めていたけれど


「わたしだって手が痛い。それでもあんたは理解しない。だから道具を使って叩かざるを得ないんだ」


孫の手を使ってなぐられたとき


『一線を越えたな』


その人格は囁いた。


『次に家を締め出されたときは、もう帰らずにいよう。どちらに転んだっていいじゃないか。道具で殴られたら・・・殴る方は痛みを感じないから際限もなくなるぞ。どうせ詰んでいるのなら、独りで生きる覚悟を固めてみないか』


結局、家出を試みて、最終的には捕まったが、これ以降痛みがフィルターを通すような感覚になった。


わたしの何を見て「調子に乗っている」と判断されたのか、当時のわたしにはわからなかった。でも、今はわかる気がする。そのことについては、また後に触れると思う。



○ 母の「引きこもり」

わたしたちが学校に行っている時間、母は自室に引きこもって過ごした。
何故わたしがそれを知っているかというと、下校し、帰宅しても、母は部屋から出てこなかったからだ。

7~9歳のいずれかの頃だったか。この頃は、最低限の家事と子どもへの食事の用意、そしてすぐに調子に乗る動物のしつけ以外の活動を母はやめていた。

なんでも「絶食ダイエット」に挑戦していたらしい。

母は確かにややふくよかな体型ではあったが、それが生きることの根源である“食”を絶たねばならぬほどのレベルであったのか、子どもながら本能的に疑問を感じていたのだと思う。

加えて、母にどういった意図があったのか、カレン・カーペンターのエピソードをわたしは事前に聞かされていた。世界的に有名な兄妹デュオ『カーペンターズ』のヴォーカルで、拒食症により死去した人だ。

わたしは、母もこのままでは“キョショクショウ”になって死んでしまうのではないかと怖くなり、担任の先生に訴えたことがある。


学校から母に連絡してくれたらしい。


そのことに対する母のアンサーは、わたしに対する平手打ちだった。


「あんたの勝手な心配であたしの計画を邪魔するんじゃない」


・・・・・・ああ、わたしのこの「心配」は、わたし自身の問題だったんだ。
気持ちを自分で消化できない心の弱さが、こんな展開を生んでいるんだ。

『でも、それは母にも言えることではないか』

いつからかあらわれた“ホゴシャ”が、このときもわたしに囁く。

『母の腹から産まれたんだから、生命としての条件は同じハズ。母が人間ならきみも人間。母が動物ならきみも動物なだけ。同じように、母が良くてきみがダメなんて、道理としてあり得ない』

『きみの心配がきみの勝手なら、母が心配することも母の勝手だ。
・・・・・・もう、いいんじゃないか』


わたしはそろそろ、消えたくなっていた。


絶食はさすがにこたえた。
“生きる”ということがどういうことなのかがわからなくなる。

母の気まぐれと暴言と暴力に付き合うことが生きるということなのか。
母は自ら命のコントロールをしているというのに?

母が“キョショクショウ”で死んだら、わたしは何のために痛みに耐えて生きているというのか?


この時期、日本の自殺者が年間2万人を超えたというニュースが大きく取り上げられていた。

「ねぇ、死んだらどうなるの?“死にたい”って言われたら、どうする?」

できる限り自然な流れを意識して母に訊いてみたが、

「死んだらわかるんじゃない。死にたかったら、さっさと死ねば?」

・・・・・・母の反応が平常心を欠いたことは子どものわたしでも感じ取ることができたけれど。
・・・・・・こんなときでも、こんな悲しい言葉しか使うことができないんだ。


『これは努力の問題じゃない。年齢の話だから、時がくるのを待つしかないんだ。心だけは大人になって、母を大目に見てやることにしよう』

“ホゴシャ”は言った。


・・・やはり、少し解離が入っている気がしますね。健忘まではないけれど、このときは透明な膜一枚を隔てたようなぼんやりとした感覚の中で生きていたように思います。ちなみに、成人するまでの時期、意識や記憶はあるけれども体がふらっとどこかに行ってしまうことがあり、特に高校時代はそれが顕著でした。

高校時代は義務教育を終えたことで親の干渉も緩み、ようやく一人の“人間”として認めてもらえつつあった時期でもあります。意識もふと緩んだのでしょうか。ある日突然、気まぐれに授業を抜け出して海を眺めに行くものですから、地味に問題児でした。



○ 父への「ラブレター」

小学生の頃のわたしは、父に「ラブレター」をしたため、父が家に帰るたびに渡していました。
「だいすきだよ」と書いたものが、当初は一言だけだったのが、一面びっしりとなり、2枚、3枚と、父が帰るたびに枚数が増えていくのです。

気まぐれにしか帰ってこない父ですから、いつ会えるのかがわからない不安は常にありました。実際は恐らく月に一度は帰っていたのでしょうが、子どもにとっての1ヶ月は非常に長いです。

わたしはこのとき、本当に「父がだいすきだよ。だから次も早く帰ってきてね。できればずっと一緒にいたいよ」と思って書いていたのですが、後年になって考えると、あれは「だいすき」ではなく「たすけて」と言いたかったのだろうなと思います。


父がいなくなったのと母が豹変したのはほぼ同じ時期です。
そして、父が帰ってくると母の精神はいくらか落ち着き、わたしたちはその間だけ叩かれなくなります。


対面による心理カウンセリングを体験するまでは、父に関する記憶が非常に薄く、父に対して思うところは何もないと思っていたのですが、恨み言がないかといえば人並みにはあったのだなということに気づきました。

ただ、「ラブレター」の奇行も長きにわたって続いたものかというと、そうではなかったと思います。

わたしの子ども時代はPCが一般家庭に普及する過渡期で、子どもともなればまだまだ手書きが主流でした。

ある日、わたしは字を書くことができなくなり、父だけでなく誰にも手紙を書くことがなくなります。



○ 字が書けなくなる

「字が下手」

これもわたしが母に言われ続けたことの一つです。むしろ、最も言われた言葉かもしれません。

こう考えると、母はなかなかコンプレックスの強い人だったのかもしれません。

「母もそうだけど、あんたはそれ以上」

その言い方を、よくされました。

職場でマイクロマネジメント的な上司に巡り逢ったのも必然だったのかもしれません。

子どもの頃は、まさに母のマイクロマネジメントでした。

先述のダイエットに関しても、厳密には母だけの問題ではありません。
わたしも、脂肪細胞がどうとやらの関係で、思春期までは食事量について口うるさく言われていました。そのおかげか、確かに肥満知らずの肉体である半面、腸の動きが過敏で食べてもすぐ排出されてしまうので、逆にどんどん痩せていってしまいます。

7~9歳の頃というと溜め込みも出ていたので、散らかっているのが嫌いな母に、愛着のあるもの、ないもの全てを捨てられ、もはや捨てられすぎて大切なものが残っていない極致となり、逆に“ホゴシャ”のようなふてぶてしい態度で母が処分していく様を見物するなどの攻防を繰り広げたこともありました。

また、前記事自己紹介をしたとおり、でうくはやりたいことがはっきりしており、やりたいことは何が何でもやります。その道を塞がれる一方、母がさせようとしていたことは頑としてせず、どうせ母に捨てられる“溜め込みゴミ”の中に母がわたしにやらせようと用意した道具をそれとなく忍ばせて、間違って処分されるよう仕向けるなんてこともしていました。


こう振り返ると、まさに母娘の密着関係ですね・・・
これで【自他の境界を引く】なんてことは、もしかすると難しかったのかもしれない。


10歳を超えたあたり、ですので、家庭環境が急変して4~5年が経った頃。
大人になってからの4~5年はあっという間ですが、子どもの、しかも油断のならない4~5年は地獄のような長さです。

思春期にも突入するし、恐らく、そろそろ疲弊したのだと思います。


今振り返ると、間違いなく“認知がゆがんだ瞬間”に立ち会ったことが思い出せます。


字がバラバラに分解した感覚。まさにゲシュタルト崩壊の現象のよう。
そして、そのバラバラに分解した字の一つ一つがゆがんで見え、組み合わせが不格好になる。たとえてみるなら、へんつくりがそれぞれうねって見え、それらを組み合わせても一つの漢字としての体を成さない感じ。他人が書いた字であればまだ字としての認識ができるが、自分が書いたものはただのゆがんだ記号の列に見える。

書き直しても書き直しても、わたしの脳はわたしの書いたものを意味のある正確な字として認識してくれない。

母はますます「こんな字は読めない」と言ってくる。

わたしだって読めない。どう書けば「これは文字だ」と認識してくれるのか。

わたしの脳みそは、いったいどうしてしまったのか。

最終的には全く書けなくなってしまい、テストのときにまともな字体で書いたものを提出することができず、先生から呼び出され「ふざけてんのか!」と怒鳴られるのでした。


以後、書字に関しては10年程度苦しむことになります。
即ち、小・中・高の学業成績は諦めるということです。


テストのときだけ死ぬ気で書いて、その日はもう疲労と強迫観念で使い物になりません。板書のノートへの書き写しや問題集の解答もできないので、暗記が勝負です。
幸い、数学と物理・化学以外の教科はなんとかなりました。しかし、数式や物理方程式、化学式のようなものは頭の中だけでは整理ができないため、捨て科目です。そもそも、学校で良い成績を取りたいという気持ちはもうありませんでした。


これらの現象について、現在のこの落ち着いた状態で分析すればそれらしき名前はいくつか出てくるでしょう。


途中からは、引き出しの中の教科書の配置が少しでもずれると休み時間中はずっと揃え直していたり、何度も髪を洗い直し風呂からなかなか出ることができないなど、行動が般化していきます。それらも5年は続いたでしょうか。余韻的なものは現在もあります。「几帳面」の範疇で治まってはおりますが。



まとめに

ここまで精神的にいろんなものを引き込むかどうかは別として、30代も中盤を超えた地方出身者にとっては恐らく上に述べた体験は誰でもしていることだと思います。

当時は、幼稚園の先生も学校の先生も子どもに手を上げていたし、前の記事で述べたように放置子や明らかな被虐待児もちらほらいた。
溜め込み癖を学校で披露する児童もおり、先生と一緒にその子の荷物の整理をしたこともある。

誰かに気づいてほしかったけれど、気づいてもらえなくても仕方がない。

しかし、どうしてこうなってしまったのだろうと感じるときはありますし、そうはいってもなってしまったものは仕方がないから、割り切っていろんな方法を模索した自分は賢明であったと感じます。



次回について

次回の記事では、ようやく心理学に出逢います。
実際に体を張って試してみたことや、より具体的な心理状態自身を取り巻いていた人間関係などについて語れたらと思います。

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