【心について語る】/好きなものを“好き”と認めること
こんにちは。
「急激に変化する現実と自己の折り合いをつける」―――Mystic Pioneer(ミスティック・パイオニア)―――DEUKUです。
🔹 今回の話題
別に素直でないわけではない。周囲からも、むしろ素直でとてもわかりやすい人間だと思われている。
ただ、未だに言語化が難しいことがあり、それでも最近は変にごまかさず首を傾げてみたり、素直に「わからない」と答えたりしているのですが、訊かれると困ってしまう質問が一つ。
それは、自分の“好み”に関するもの。
特に、“人のタイプ”に関すること。
🔹 “よそゆき”の自分
好きなことは人並みにある。
好きなタイプも実は結構なミーハーながらもっている“よう”だ。
ただ、好きなことに関しては、各種“取り揃えて”いる。
もともと好奇心旺盛なタイプではあるから、何を体験しても面白い。だから、別にどのような展開になってもいいのだが、相手の話題や提案に乗れるよう、好きなものを一つ決めている。
歴史的名所であれば、旅程の途中で寄れそうな神社など。
推し活であれば、よく聞く名前の俳優やキャラクターを。
好きであることは全く嘘ではない。ただ、本音は全く別のところにある。
誰か一人でも他者がいると、“好き”に関する本音や“本命”は出せない仕様になっている。だから、「好きと言う割には冷めてない?」と言われることも多い。
その自覚はある。だって、ブレーキがかかっているのだから。
わたしの計画はだいたい二段構えだ。一つは、他者と足並みを揃えた旅程。もう一つは、その人と別れた後にひっそりとひとり自分のペースで進む旅程。
同じ日に、同じスポットを改めて巡礼することもあれば、別日に計画を立てて同じスポットに一人旅をすることもある。
そんなに簡単に移動が可能な地域ばかりでもないから、もったいない時間とお金の遣い方をしていると思えなくもないけど、そのどちらもわたしにとっては不可欠なものだったりする。
たとえてみるなら、前者は相手との旅を楽しむことに焦点が当たっており、スポットは表面をサラリと撫でる程度、後者は自分の“好き”スポットに100%を注ぎ込んだもの。
最近気づいたことが、他者と巡る前者がかなり “ホゴシャ”優位になっていること。頭がボーッとする感覚がある割に頭の回転は速くなっているので、恐らく“この人と一緒に過ごす自分も好き”というのを意識しながら言動しているのだと思います。言ってしまうと、スポットの方はどうでもよくて、「この人と過ごすことに意義がある」的な。改めて振り返ってみると、意外に相手の言動をよく見ていたりする。
“ホゴシャ”とは、脳内に存在するもう一人の自分のようなもの。恐らく、解離的な状態になっているときに出てくるものですが、興味のあるかたは👇の記事をご覧ください。
一方で、“ホゴシャ”はわたしの好みには興味がないというか、干渉しないし関与もしない、認めもしない距離のある感じだ。とはいえ、わたしが“ホゴシャ”と名づける程度には他人のことをそれなりに警戒もしていて、危ない人に引っかからないようセーブやストップをかけている。つまりは究極的に冷めた人格であるため、“好き”を理解できず『・・・え?そういうの、いらないよね?』と返してくるのがこの人格なのだ。
そう、わたしは、わたし自身であるこの人格にさえ、自分が素直に好きなものを言えないのである。
嫌なものなら言える。嫌なことは何があってもしないというでうく自身の我の強さもあるし、行動を避ける分には金もかからないからだ。リスク回避をとにかく第一とするこの人格が理解できる理屈でもある。
しかし、わたし個人の性格としては、好きだと感じたことを心赴くままに行なう瞬間がないことは、実にロマンのない人生だと思う。
「生物としての人間を生き残っていくことはもちろん重要だけど、人間ならではの生の楽しみ方を知ることに、人間として生まれた意味があるのではないか?」
“ホゴシャ”ではないわたし自身の精神がようやく成熟していくに伴い、口達者にもなってきたため、この言葉を投げかけるようになると、ホゴシャも『まあね・・・・・・』と一歩引くようにはなった。
一つの肉体にある同じ一人の人間の話であることは理解も自覚もしているけれど、この点ばかりは解り合えない他人のような書き方になってしまう。
🔹 “好き”と認めてどうする?
好きになれることは“豊かさの証”
わたしは、創作界隈の人に出逢ったことが現在にも続く物書きのきっかけであったことから、好きなもの・こと・ひとに対して素直に気持ちを表現し、情熱を注ぐ人を多く見てきました。中にはそれで食べていけるようになった人もいる。
ごくごく最近までは「食べていけるほどに道を極めることができるのがすごい」と思っていたのですが、現在はどちらかというと「自分以外のもの・こと・ひとをここまで推すことができるのがすごい」という気持ちに変わってきています。
また、素直に自分の気持ちを表現することができる人たちを「羨ましい」と感じるときもある。
これは“自分”という存在を蚊帳の外に置いておけるほどの精神的余裕がないと難しいことだ。
他のものへの好意は、ベクトルが自分に向いている状況では通常、芽生えない。
もちろん、自分自身の現状から目を逸らしたくてベクトルを外側に向けている人もいるだろうが、そうでない場合は自分という独立した存在を保ちながら、対象の発展や幸せを惜しみなく応援し、喜ぶ。
自分自身の現実はありながらも他のものも受け入れ、自分のことのように純粋な気持ちで情熱を注げることは、どれだけ豊かなことだろうと思います。
これが、無償の愛って、やつ?
そう考えると、“推し活”って相当高尚な活動では?【他noterさん記事紹介】
わたしがnoteを漁っていて、共感できる他のnoterさんの記事がありましたので、貼らせていただきますね👇👇👇
育児だって、言い換えると「我が子最推し!」の推し活最たる例だよね(爆)
以前も呟いたように、わたしは愛に理屈が必要な面倒な人間なので、他人には言えないまでもホゴシャには「一歩階段を上がってみたいなぁ」という話を徐々にしています。
『好きを認めてどうするんだい?』という自問がよく来ますが、「・・・・・・豊かな心でいいじゃない」と自答します。
ただ、何となく自覚はありますが、好きになると一直線、火の中水の中草の中森の中、それこそスカートの中にも分け入るし、かつ放浪癖もあるので、行ったら「・・・はて?ここはどこでしたっけ?」となることも多く。
そんなときに活きてくるのが、前述した「二段階旅行」だったり。
わたしが本当に好きなものをわたしの一人格に過ぎないホゴシャとも分かち合えないので、一人旅のときは大抵ホゴシャの機能もスリープさせていたりする。ホゴシャはわたしの好みには干渉しないため、好きなことをしているときは浮上する必要もないからだ。
でも、それは脳みその理性的な部分の機能を低下させている状態でもあるので、「・・・どうする?草の中森の中にいるから、後は野にでも山にでもなるか?」という展開になることも多かったのですが、一度行ったことのある場所であれば途中でそんな心境になってもスリープから再起動して連れ帰ってくれる。いや、なんとなくピンチを感じたら初めての場所であっても機能はきっちり再起動はするが、一度行ったことのある場所の方が予防的に働いてくれるので、失敗がない。
それ故か、近年はもっぱら二段階旅行である。
友達と楽しい時間を過ごせるし、ホゴシャ自身が楽しめる時間もあるし、でうく自身が行きたいところも行けるし、帰ってくることへのハードルも下がる。
ホゴシャとしても管理しやすいだろう。
たまに「ホゴシャがいなければわたしはもっと“好き”と素直に向き合えるのか?」と感じることはあるけれど、ドーパミン過多気味の脳みそに理性というストッパーがなくなってしまうとそれこそ挽回不可能なくらい危うくなるのは容易に想像できるので、まぁまぁこれが一番良い落としどころか・・・とは感じています。
それに「“好き”と認めてどうする」か―――・・・その答えは確かに用意できていない。
無償の愛も注げないし、愛を受け取る器もなかったりするからね。
伝えることはできたとしても、誰とも共有する勇気もなく、その先を全く思い描けないのに、認めたところでどうするのか。
心理的には、なおさらつらくなったりするのだろうか。
途中で“ホゴシャ”というMystic Pioneer独特の単語は出てきたが、そこは置いておいて、この気持ちを感じる人ってどのくらいいるのだろう。
そんなことを考えながら過ごす秋分の日、乙女座日食の新月の夕です。
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