ライニア乱記 魔法使いのはかない弟子 第二章 成長する脅威 七、見えている世界
布団を体全体に掛けていても、この家は寒い。足の冷たさでシュインは目覚め、再び寝入りたくとも悪い想像が頭を巡った。今日も学校で嫌なことを言われる。ハスの花たちのおかげで授業にはついて行けるようになったが、それを怪しむ同級生がいる。離れた場所で陰口を言う彼女たちの様を見るのは嫌いだ、飽きた。目を閉じても考えはやまず、布団に涙が付いた。
兄に何度も起こされたくもないので、シュインは重い体をゆっくりと起こす。ベッドに腰掛け、そこから下りる前に顔を何気なく触ってみる。そこには硬い部分もあれば、指で押すとへこんでしまうほど柔らかい部分もある。左右には大きなびらが伸びており、そこから真ん中へ手を持っていくと出っ張ったものにぶつかる。どうも違和感を覚え、シュインは近くの机に置かれた小さな鏡の中を確かめた。中央からめしべやおしべが伸び、周囲には赤く大きな花びらがある。これこそ、シュインがいつも見ている自分だ。ちょうど冬至の時期に花屋を彩っている、聖なる日を祝う花だ。その形と触れている感覚が、どうも釣り合わない。
鏡から顔を離すと、すぐそばにある口の大きめな花瓶が気を引き付ける。あれにもそろそろ、何か花を入れたい。ひとまず願いは放っておき、廊下に出て斜め向かいの部屋へ入ると、兄が流しで食器を洗っていた。隣の台所にはスープの入った鍋が置かれ、しっかりと蓋がされている。
「一人で起床できたか。この調子で精進しろ。おれは面接に行く。くれぐれも学校を欠席するな、遅刻もするなよ」
椅子に置いてあった鞄を肩に掛け、兄はそそくさと家を出てしまった。台所へ足を進めようとして、シュインはテーブルに今日の新聞があるのを認める。掲載されている写真には、どれも花が写っていた。あれが全て人の顔というものなのだと、シュインは随分前から認識していた。首から下は問題なく判断できる。それぞれ違うものを着ている服は胸や腹を隠し、腕や足の先は出るようになっている。ただ顔だけが、本来どのようなものなのか分からないのだ。
スープを温め、狭い冷蔵庫にあったチーズを取り出し、戸棚にあったパンを一切れ切り取る。自分専用の足が短い椅子で食事をしながら、シュインは兄のことを思っていた。彼はあれほど好きだった学校をやめてしまった。そして自分たちを養うために仕事を探し始めている。
器からスプーンで口に運ぶスープは、少し塩辛かった。口内に涙が流れ込んでいるとやがて気付く。家族は一人、また一人と減り続け、現在はこの居間で一人だ。母は遠く東にある故郷で、大火事に巻き込まれて死んだ。偉い人だった父は放火の疑いを掛けられ、処刑されたと聞いた。その罪が本当かは分からない、父はシュインにとっては優しかったとは覚えている。残った自分たち兄妹も、町を壊したとして住み慣れた土地を追われ、西へ西へと場所を移った。その途中で生き残るため、兄たちと盗みを繰り返してきたのだ。砂漠を越え、海を越え、どこかで炎のようなものも抜けて、やっとライニアに安住を手に入れた。
それでもここでの暮らしも、シュインには楽しいと言えない。何より学校に行かなければならない。どうせ兄は外に出ているのだから、時間を守らなくても気付かれないだろう。毎日、同級生たちがからかってくる。字は書けるか、掛け算は出来るか、どうせまた学校に来なくなるのだろうと言ってくる。自分を取り囲んで、笑って、早くいなくなることを望んでいるのだ。学校などなくなれば良い、何度そう思ってきたか。
一つだけ希望はある。「ハスの花」にはまた会いたい。しかし昨日の件で、自分が殺そうとしているとは分かっているはずだ。もうあの「花」とは、襲う前の仲に戻れない。スプーンを動かす手は止まり、シュインは涙を器に零し続けていた。この先どうすれば良いのか、考えることも難しい。
やっと朝食を終えた頃、壁に掛かっていた時計は登校すべき時刻をとっくに過ぎていると教えていた。余計に家を出る気が失せていく。遅刻でとやかく言われるくらいなら、いっそこのまま休めば良い。自分などいないことになってしまえば良いのだ。学校から消えて、ライニアからもこの世界からも消えて、誰からも忘れられていったのなら気分はせいせいする。
「……みんな忘れてくれればいいんだ。みんな死んじゃえばいいんだ。……わたしも」
自室に戻り、本棚の植物図鑑を読んでいるうちに日が高くなった。床に座って紙面を見つめていたシュインは、がばりと顔を上げる。自分がハスの花を殺さなければ、兄が殺しに行く。彼なら本当にやりかねない。何とかして止めたいが、何をすれば良い?
顔を袖で拭い、まだ着替えていなかった寝間着をワンピースに変える。腰には銃の入ったホルダーをしっかり巻いて、玄関の戸を開ける。湿った地面の上を歩く足は、前へ進む度に大きく間隔を開いていた。森の中なら近所に住む者もいないので、まだ安心できる。しかしそこを抜けて町に入ると、急に増えてきた「花」がシュインを怖気づかせた。店の並ぶ間を行き交う「花」を見る度に、上下の歯がかたかたと鳴る。図鑑に載っているものは怖くないのに、二本の腕と二本の脚を持つ存在はどうしても好きになれない。
花の一つがこちらを見た気がして、シュインは道の端で肩を震わせた。何も言葉を発さず去っていくあの花は、何を考えていたのか。この時間に学校にいない自分を責めていたか。「花でない花」の群れを早く抜けようと、通学路を急ぐ。そして門の前に立ったが、入ろうとすれば足が竦んだ。喉がひどく乾き、両手のひらを服の腰回りに擦り当てているうちに気付く。勉強に必要な道具を、鞄さえも持ってきていなかった。ただ武器だけは、確実に帯びている。
門の脇に広がる壁の側面に回り込み、葉がない木々の立つ辺りでシュインは時を過ごす。次第に生徒たちの声が大きくなり、彼らが学校を出て行っていると知る。とっくに授業は終わってしまったらしい。
ホルダーから銃を取り出し、シュインは陰で門の方向を窺った。やがてハスの花が一人で、リュックサックを背負って門から姿を現す。その背より上へまっすぐ撃てば良い。シュインは狙いを定めたが、手が震えてならなかった。眼前が潤むのは何度目だろう。やはり自分にあの花は殺せない。でもここでやらなければ、兄がもっとひどいことをする――。
「シュインだっけ? ここでどうしたの?」
後ろから少年の声がし、振り向く際にシュインは勢いで引き金を引いていた。そこに手応えはない。銃倉を確かめると、中には何も入っていなかった。ぼんやりとしたものを覚えながら、話し掛けてきた花を見る。赤いケイトウが咲いた下にはコートがあり、腕輪を付けた黒い手が開かれている。
「レンさんに、何をするつもりだった?」
問われてすぐ、シュインはその場に崩れ折れた。ケイトウに支えられ、落ち着いて話すよう促される。顔を濡らし、気付けば全てを明かしていた。脅されていると伝えた兄に知られたらどうなるか、少しも頭に湧かなかった。
「そのお兄さんが、誰かから唆されたみたいな様子はなかった?」
首を振ったシュインの肩を、ケイトウがそっと叩いた。
「嫌なら、お兄さんに従わなくて良いよ。きみが苦しくなるだけだよ」
「でも、お兄ちゃんが本当にハスの花さんを襲ったら……」
「レンさんに何かあったら、俺が守るよ! お兄さんのことだって返り討ちにしてやるさ!」
自信満々なケイトウの口ぶりに、シュインから恐怖が消えていった。彼の手助けもなく、一人で立つことが出来る。
「きみもただ従うんじゃなくって、たまには仕返しをしても良いんだ。そうだ、思いっきり殴ってやれ!」
拳を軽く宙へ振ったケイトウが笑い声を出し、レンからどのようなことを学んだか尋ねてくる。すっかり相手に気を許し、シュインはこちらも正直に答えていた。勉強を色々教わっただけではなく、アレクについても聞いた。そこで学んだ歌もあったが、どんなものかは忘れてしまった。レンのことが好きか質問されれば、迷いなく認めていた。
「そこまでレンさんを大事に思ってくれているなら、俺がきみを警戒していたのも謝るよ。まずはお兄さんに、ちゃんと嫌だって言って、レンさんのことを取りやめてもらおうな!」
「昨日はだめだったけど……」
「一回で諦めちゃ駄目だ! そのうちお兄さんの気も変わるかもしれないよ」
果たしてケイトウの言う通りになるか。いくらか不安を抱いたまま家へ戻ろうとして、彼に呼び止められる。腰の拳銃を預けるよう求められて、すぐに応じられなかった。
「お兄さんを止められたら、返してあげるよ。約束は守るから、ね?」
差し出された手に、シュインは外したホルダーごと武器を載せた。今度こそ帰宅を目指すが、町を行く足は重くなっていく。どうしても、兄を説得する自信がない。行きにはあれほど気になっていた花の「視線」も忘れ、まっすぐな道を突っ切っていく。地面の影が面積を増し、ここが既に森の中だったと気付いた。花はまばらに歩いているだけで、町ほどの騒がしさはない。
「おい、あんた。青っぽい髪のあんた。異常持ちだろ?」
どこからか女の声がし、シュインは静止して首を巡らす。間もなく、斜め前にある木の枝に腰掛ける「桃の花」がその主だと、続く言葉で知った。
「人の顔が顔に見えないんだろう? 顔ってのがどんなのかも分かんないじゃないの? 顔じゃなくて……花に見えているんだ、あんたには」
シュインは桃の花を凝視する。薄いコートの下にシャツと丈が短いズボンというちぐはぐな印象を持つ装いの「花」は、木から飛び降りるとシュインへまっすぐに近付いていった。
