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闇 687(横浜の霊媒師編)

闇 687(横浜の霊媒師編)

2026/09/14 mon
※挫けてもいい、いじけたっていい、人間不信に陥ろうと、愚痴を吐いたっていい。でも立ち上がらないと何一つ始まらない。
前回の章


二千二十四年七月二十七日、土曜日仏滅。

本来昨日のはずが、シャインさんの愛犬空海が亡くなり、カウンセリングは本日へ移行。
お陰でまたこなもんマスターのところへ行けたから、結果オーライとしよう。

十三年ぶりに小説を書き出して、現在闇九章。
俺からの情報は特に出さない。

今の自分を見て、シャインさんが何を言うか?
正直二万円は痛い出費だが、もうあの地獄のような目に遭うのだけは本当に懲り懲りだった。
何でもいいから縋るものがほしい。

それに久しぶりの横浜でもある。
終わったらどこへ顔を出そうか?

やっぱり福富町のイタリーノ?
グダグダな麺のナポリタンを出すセンターグリル?
それとも定番のミツワグリル?
野毛の餃子の三陽?

フレンチワイズ…、うーん、行きたいけど、今日はさすがにそこまで贅沢できないよね……。

時間になり横浜へ向かう。
駅だと桜木町駅が最寄りだと聞いていたので、早めに到着してからモスバーガーへ寄った。
値段を見て驚く。
ちょっと行かない間に、ファーストフードもこんなに値上がってしまったのかよ……。

それでも久しぶりのモスバーガーがとても美味しかった。
かつて高校生の時、山口油材でアルバイトをしたあと、毎日のように食べに行っていた頃を思い出す。

住所を聞いていたけど、野毛山動物園の方向だよね?
初期横浜時代、あそこへ行ったのは一回だけだったっけ?

また行きたいけど、あの辺って野毛山というぐらいだから、坂道多いんだよな。
伊勢山皇大神宮の近くと言っていたけど、坂道だらけじゃん……。

心筋梗塞の後遺症である右脚の痺れが酷く、登るのがキツい。
カテーテル手術後、未だ治らない忌々しい真地獄変の名残り。
通常の生活だと痺れがある程度だったのが、坂道だとこうも辛くなるものなのかよ。
おそらく階段などの段差があるところが辛いのだろう。

一体右脚の、どこがいかれているんだ?
原因さえ分かればすぐ治りそうなものなのにな。

あれほど長く住んだ横浜なのに、坂が多い事すら忘れていた。
タクシーが通り掛かるのを待ちながらセブンスターに火をつける。

もう昔みたいな瞬発力は失ってしまったんだなと悲しい気分のまま、タクシーを捕まえた。

ワンメーターでシャインさんのいる住所へ到着。

ブログを見ていて魔訶不思議なものを感じたシャインさん。
勝手なイメージで、俺より年配の男性と固定概念があった。

「すみません、今日シャインさんへ予約した者なんですが。岩上と申します」
「あー、はいはい。こちらへどうぞ。少々お待ち下さいね」

ソバージュの女性が対応し、中へ招かれる。
ソファへ腰掛け、ポケットへ手を突っ込むが、いきなりタバコはマズいだろう。
慌てて手を出す。

携帯電話を見ながらシャインさんの到着を待つ。

「お待たせしました。ではお上がり下さい」

先ほどの女性が俺を案内するので、シャインさんは部屋の中で待っているのかなと思っていた。
そのまま別室へ向かい、俺の目の前にそのまま腰掛ける女性。

「あの…、シャインさんは?」

「え? 私ですけど?」

「……」

シャインさんって女性だったの?
すっかり年配男性と思っていた俺は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしていたのだろう。

「あの…、何かありましたか?」
「いえ…、シャインさんって女性だったんですね……。てっきり男性だと決めつけていましたので…、すみません」

「え、私、何か失礼な事をしちゃいましたか?」

シャインさんも俺の表情を見て慌てていたので、つい笑ってしまう。
まあ今の俺の情報与えずに視てもらい、何を感じるか?
何も言わずに聞いてみる。
まずはそれからだ。

「今…、自分を見て、何か見えたりとか分かる事はありますか?」

本当に初対面なので、まず自分を見て何が見えるか尋ねてみる。
ニコやかな表情から一変して、俺の顔をジッと見出すシャインさん。

「先生は……」
「ちょっと待って下さい! 何で俺が先生なんて呼ばれるんですか?」

「だって先生のブログ見て、ああ、小説家の先生だったんだと思いましたので」
「まあ…、否定はしませんけど、書き出したのって本当に最近ですよ? 十三年間まったく書いてなかったんですから」

過去文学賞を取り本にした事、格闘技の事はあえて口にしなかった。

「まあまあ、それでも先生ですって。ちょっと視ますね」

「……」

「うーん…、先生って本当に優しいと言うか、甘いぐらい人がいいんですねえ。何て言うんですかね? 自分の身体の中に、優しい気持ちがあって、そこから多くの変な思念がパンパンに入って、本来の俺の力が出せなくなっている。そんな感じに視えました……」

「……」

見掛けでなく、思ったよりこの人鋭いかもしれないぞ?

本来の俺の力が出せなくなっている。
確かに思い返すと色々おかしい事だらけだ。

心筋梗塞から始まった真地獄変。
よくもまあ、あんな負の塊のような種類の違うオールスターが、次から次へと来たものである。

黙ったままの俺に対し、構わずシャインさんは続ける。

「中でも強力と言うか、これはむしろ強烈ですね、はい…。二つあるんですよ。一つはですね…、うーん…、あなたより少し年上の女性? 何か思い当たる節はありません? 綺麗な人みたいですけど。黒髪の長い人。お付き合いされていたのかな?」
「えっ!」

すぐにピーンと来た。
何を指しているのかを……。

岩上整体開業したばかりのクリスマスイブ。
病的に嫉妬深くなってしまい、さすがにうんざりし嫌気を差して別れた百合子。

彼女の顔しか思い浮かばなかった。
目の前にある紙へ、百合子の名前を書く。

「これじゃないですか?」
「そうそう、この人! 逆恨みじゃないけど、未だあなたに思念というか強い気持ちを持ってますよ。私がこの人を育てたのに…、そんな感じで自分の事しか考えられない人みたいですね」

私がこの人を育てた……。

あの嫉妬深い執念のような怖さ。
しかし俺は、彼女との間にできた我が子を過去中絶させてしまっている。

先日過去を回想し、色々懐かしい思い出を振り返った。
決まって行き着くのは、新宿の部屋。

あれで俺は、再び百合子と別れた時のうんざりした気持ちがフラッシュバックした。

まさか、百合子の存在自体を知らないシャインさんから、いきなりその存在を言い当てられ、混乱している。

もう関わらなくなって十八年の月日が経つ。
すっかり忘れていた存在を思い出されられ、背筋がゾッとした。

当時のあのあとを振り返る。

別れてから半年ぐらいで俺は文学賞を取った。
その後マスコミに囲まれ、総合格闘技復帰の記者会見。
あれはインターネットで当時調べれば、誰だって分かるものだ。

九州のでったんが、三十八年ぶりに連絡を取ってきたのも、この頃のニュースを見ていたからだと思う。

もし…、別れたばかりの百合子が、陰でこっそり俺の活躍を見ていたとしたら、そのような感情を抱いてもおかしくなかったのではないだろうか?

色々尽くしてくれた。
色々迷惑を掛けた。
散々傷つけた。
それでも当時俺は、誠心誠意応えてきたつもり。

自身の執筆した作品『忌み嫌われし子』を罵倒されるまでは……。

そう…、恨みつらみだけではなく、俺は彼女に対し、未だ感謝も同時に持っているのだ。
ゆっくり口を開く。

「もし俺は、仮に何かのタイミングで成功をしたら、彼女には散々迷惑を掛けたんで、いつか金でもドカッと送ってやりたいものです。そのぐらいの気持ちは持っています」

初対面のシャインさんの前でさえ、取り繕うような格好つけ。
偽善も甚だしい。
そんな気持ちがあったら、何故金を持っていた時百合子へ連絡をしなかった?
自分の言葉に対し、軽い自己嫌悪に陥る。

「駄目よ、先生! いい? もうあまり、その人の事は考えちゃ駄目」
「え?」

予想外の答えに、俺は驚く。

「何故です?」
「うーん…、ちょっと聞きづらいからもしれないけど、さっき先生が優し過ぎて、色々と変なものがって言ったでしょ? あなたの中に生霊って言えばいいのかな? 思念のようなもの…。その内二つ凄いのがあって、その一つがその彼女のなの」

「……」

百合子の思念、または生霊?

「あともう一つは、あなたのお母さんね。ねえ、先生のお母さん、亡くなってない?」

一体何が見えているんだ、この人?

「え? 俺、シャインさんにそんな事言ってないですよね? 何故です? 何で亡くなったなんて……」

そこで初めてシャインさんは、俺の顔から視線を逸らした。

「うーん…、気味悪がらないでね? 生霊っていわば人間の思念…、怨念って言ってもいいのかなあ…。それで亡くなっちゃった人って、生霊とは違うのよ……。だからそれで視れば分かってしまうの」

「……」

この人、本物じゃん……。

今、彼女の目には何が見えているんだ?
お袋は、俺が四十代後半に亡くなったと先輩の櫻井さんから聞いて知ったくらい。

縁を切った状態のまま和解もせず、静かに母子関係は終わった。
お袋がどこの墓に眠っているのかすら知らないまま。

そんな状況なのに、お袋はまだ俺を気に掛けている?
霊という存在になってまで……。

こっちは思い出しさえしていないというのに……。

お袋……。

何故か俺は大粒の涙をこぼし、シャインさんの目の前で泣いていた。
これは何の為の涙?

自分でも分からなかった。

走馬灯のような記憶が、頭の中を駆け巡る

処女作『新宿クレッシェンド』で生きていたお袋の業を書いたものが全国に垂れ流され、五十二歳になった今、また闇として死者へ鞭打つ行為になってしまった。
さぞかし俺を恨んでいるよな?
何て酷い息子なんだと憎むよな?

「……」

許せ、お袋……。

俺は書くのをもう止められない……。

自身の涙の正体を自覚する。
懺悔の心。

だから約束するよ。
いつかきっと俺の作品で、世の中の虐待を少しでも減らしてやるから……。

嫌だろ?
こんな親子関係のままじゃ?

駄目なんだよ、こんな関係のまま終わっちゃ、本来親子ってのは……。

もうこの世にいないかもしれないけど、せめて俺とお袋の無様な生き方を、俺が文章にする。
だから少しは世の中の幼い子供たちの役に立とう……。

駄目な親子の見本を記した一生という形で。

ごめんね、お袋……。

大粒の涙がこぼれる。
馬鹿、初対面のシャインさんの前なんだぞ。
そう自制しても、まるで止まらない。

ここまで号泣したのは、これまでになかったほど。

やっと自覚した。
憎悪だ何だって憎しみをずっと煽っていたけど、本当は温かい料理が食べたかったんだ。

中学三年生で、おばあちゃんは亡くなった。
叔母のピーちゃんとは、十九歳ぐらいからずっと合わずに仲が悪いまま。

だからその隙間を埋めるように、俺は料理をするようになった。
自分で温かいご飯を食べたかったんだ。

お袋との離婚で話に行った時、家族から誤解され、おまえはあんな女が恋しいのかとずっと色眼鏡で見られてきた。
心が鋭利な刃物で、ズタズタに切り裂かれた感覚だった。

ボロボロに傷ついた心を慰めたかったから、三十歳でピアノをいきなり弾き始め、音を奏で癒したかった。

ずっとこの呪われた血を流し、取り換えたいと思っていた。
だから全日本プロレスを選んだ。
だから歌舞伎町の裏稼業を選んだ。

そんな事…、いくら血を吐き出し、流したところで、何にも変わりはしなかったのに……。

本当に俺は馬鹿だ。
せめて生きている内に気付けていたら、もっと違った展開も……。

自分を産んだ母親はもういない。
この世から亡くなった。
それでも俺は涙さえ流さなかった。
自分の人生には関係ない。
そう捉えていた。

でも、全然違う。
今自覚した。

悲しみを、ずっと心の中で蓋をして、閉じ込めて感情を出さなかっただけだって事を……。

俺たちさ、結局最後まで分かり合えなかったね。

だから地獄を彷徨った。
でも、まだこうして生きているんだ。

あのさ……。

償いじゃないけど、せめてね…、俺、書くよ。
書いて、また世に出すよ。
嘘偽りもなく史実通り、すべて赤裸々に……。

「ねえ、先生。少しは落ち着いた?」

顔を覗き込むシャインさん。
優しく声を掛けてくる。

本当に、こんな俺の、どこら辺が先生と呼ばれる部分があるのか。

「すみません…、見苦しいところをお見せしてしまい……」

「ほんとね、先生と会う前に、うちの空海君が亡くなっちゃってさ。あ、空海君って、私がブログにも載せていた愛犬なんだけどね。先生には申し訳なかったけど、昨日はさすがに、もう悲しくて悲しくて、ちょっと無理だなと思ったの。だから延期してもらったんだけど」

「ええ…、シャインさんのブログはちゃんと目を通しているので知っていますよ。俺も以前鳥を飼っていたので、ペットが亡くなった気持ちは分かりますよ。深い喪失感…、まるでポッカリ心に大きな穴が空いたような感覚。治す薬なんて、どこにもないんですよね」

その延期により翌日となった訳だが、俺も区切りとして闇シリーズを九章まで精魂込めて代わりに書く時間を持てた。

初めて新宿歌舞伎町へ行った時のゲーム屋『ベガ』での頃の区切りでもあるこれら章。

突如襲った空海の訃報。
その偶然のニアミスが結果、筆が止まらなくなったのである。

不思議な力を持った彼女の力が遺伝し、空海はひょっとして、自分の命の散り際まで気遣ってくれたのか?
俺は写真でしか見た事がないシャインさんのペットの空海に、心の中で黙とうを捧げた。

「先生ねー…、あなたはちょっと優し過ぎ…。だからホイホイ変なものが寄ってきちゃうのよー」
「え、俺って、そんなヤバいんですか?」

「他にもたくさんうようよいるけど、特に凄いのがさっきの二人ね」
「以前付き合った彼女と、死んだお袋って事ですよね」

「そうそう、まずこれをどうにかしないといけないかな」
「だって俺、霊感も何も特別な力なんて何もないですよ」

シャインさんの見た目には、これらが負の作用で変な事ばかり舞い込んできたと言う。

「先生ね、以前リングの上にいただけあって、上半身の筋肉は文句ないほどいいのに、下半身と腰がボロボロ」
「え、何で俺がリングの上にいたなんて分かるんですか?」

「だって自分のブログで戦っていた頃の若い写真載せているじゃない」
「あ、そうでしたね…。俺の下半身がボロボロ?」

「ええ、下半身と腰が」

突然の指摘に内心かなり驚いた。
心筋梗塞のカテーテル手術以降、未だ俺の右脚は膝から足の指先まで常にビーンと痺れた状況。
しかも六十度近い熱い湯でも、右脚だけは麻痺をしているのか堪えられる状態。

正直に現状を伝えてみるか。

「確かに心筋梗塞やってから右脚はずっと痺れが残り、医者に聞いても解決できない状態なんです。神経を弄る手術をしたんだから、命が助かった代わりにその辺はしょうがないと。まあ最近ダンベル購入して、またちょっとずつトレーニングを始めたんですけどね」

彼女はそんな俺の頭上をしばらく見つめながら、腕を組んだまましばらく唸っている。

「うーん…、先生ね。上半身は人並み以上に凄いのよ。それ以上鍛える必要がないぐらい。ただね…、ちょっとトレーニング方法変えてみて。簡単なやつしか言わないから」

霊媒師がトレーニング方法?
眉唾ものだが、これまで過去ストイックに鍛錬を続け、鋼の身体を作り上げた自負は未だにあった。

それでも百合子と亡くなったお袋を何も言わずに見抜いた俯瞰的な目線。
そんな彼女が何を言うのか興味を覚える。

「俺は何をすればいいんですか?」
「ちょっと面倒だけど、紙に書いてもらえる?」
「ええ」

「まずはウォーキング」
「え、ランニングでなくてですか?」

「うん、十五分から三十分程度でいいから。但し少し大股で早歩き気味にやってね。次はストレッチ。タオルなんかを使って全身軽くね」
「はい」

「それから下半身のスクワット」
「あ、それなら俺、部屋だとベランダでしかタバコ吸わないんですけど、一本吸う毎にスクワット百回しているんですよ。だから一日二千回以上タバコ吸いながらしていますよ?」

「もー、先生はちょっと極端なのよ。そうじゃなくて、手に負荷を掛けて…、そうね、中身が入った状態のペットボトルを両手に持って、前に突き出したまま、三十回を三セット。あ、お尻の筋肉をグッて締めるようにね」
「え、百回もしていないじゃないですか?」

「だからまだ続きあるのよ。先生にとっては物足りないかもしれないけど。その状態でカーフレイズと言って、手に負荷を掛けたまま今度は踵上げ。それも三十回を三セット」
「はあ……。ちょっと待って下さい。帰ってちゃんと俺が清書で作りますから」

2024/07/27 シャインさんのトレーニング提案

「先生、こういうストレッチポールは家にある?」
「もちろんありますよ。三本ぐらいあるんじゃないですか」

ストレッチポール

「そんないらないから。それを使って全身をよく伸ばしながら、特に脹脛…、膝から足首の後ろ側にある筋肉を念入りに五分から十分」
「ふくらはぎって漢字どう書くんでしたっけ? まああとでいいか。はい、次は?」

「ラジオ体操」
「は? ラジオ体操ですか?」

「うん、その代わりちゃんと毎日やるのよ?」
「まああんなものでいいなら……」

「そのあとまた同じようにタオル使ってストレッチを五分から十分」
「はい、またストレッチと……」

「そこでようやく先生の好きな上半身のウエイトトレーニング」
「別に好きではないですよ」

「ふふふ、最後に上半身のストレッチを十分。これを毎日やってほしいの」
「え、こんなもんでいいんですか?」

「身体を動かすのはね。次が、先生も気になっている生霊対策」

「……」

群馬の先生のところで、除霊で転げ回って苦しんだ百合子を思い出す。

「もう昔となってしまった彼女は今でもあなたを思う思念は、生霊。お母さんはすでに亡くなっているので、死霊。習字に使う半紙をまず三等分して、人型を作ります」
「え、俺習字なんてやらないですよ! それに人型なんて作り方も知らないし」

「百円ショップでもどこでも半紙なんて、すぐ買えるでしょ? 人型の作り方は簡単だから、先生覚えていってね。まず半分に半紙をこうやって折って……」

思ったよりも人型は簡単な作り方だった。
一枚の紙を三等分にして、それから切り込みを入れ人型にしていく。

「簡単じゃないですか」
「そう簡単なのよ。ただ一人につき、人型三十三枚作るようだから大変なの」

「え! じゃあ六十六枚も、こんな事しなきゃいけないんですか?」
「そう。だから大変だって言ったでしょ?」

こんな単純作業を六十六枚も……。

眩暈がしてきた。
そして今、身体中の細胞がヤニをと悲鳴を上げている。

「シャインさん、すみません。ちょっとだけ外でタバコ吸ってきてもいいですか?」
「あ、どうぞどうぞ。そこのドア出て左に灰皿あるから、それ使ってね」

完全なニコチン中毒な俺。
赤心堂病院の塚越先生からも、入院時禁煙外来を受けろと言われたけど断ったもんな。
あの先生、退職しちゃったけど。

セブンスターに火をつけながら、俺はタバコと酒はどちらが好きなんだろうと考える。

タバコは毎日定期的に吸うもの。
身体に悪いと知ってはいるが、仮にそれが原因で命を落とす事になっても本望だ。
そもそも心筋梗塞を二回食らっても死なない俺が、タバコなどで死ぬのか?

酒といえばグレンリベット。
これが置いてある店なら、必ずこれを飲む。
だけど居酒屋などにある訳がないから、サワーだって飲むし、他のウイスキーも飲む。

つまりセブンスターは古くから続く女房であり、グレンリベットは地方巡業へ行った時に抱く長年続いた身体の相性がいい愛人みたいなものか。

外にある缶コーヒーを二本買って、中へ戻る。

「じゃあ続きね? 人型を作ったら、中に相手の名前と生年月日を書いていくの。生霊は赤、死霊は黒」

「……。つまり百合子は生きているから赤色で、お袋は亡くなっているから黒で書くという事ですね?」
「そうそう。ただね? お母さんのほうはいいのよ。もう亡くなっているから。名前を書く時、昔の思い出…、できれば楽しかった事や、何でもいいからお母さんをよく思い出しながら書いてあげて」

「……」

幼い頃、ニチイへ連れて行ってくれた記憶。
映画『鬼畜』のロケーションを一緒に見た記憶。
ジミードーナツでスパゲッティーやハンバーガーを食べた記憶。

「死霊はそれでいいの。どんどん思い出してあげて。面倒なのが生霊のほうなのよ……。厄介と言った方がいいのかな」
「え、生きているほうが面倒なんですか?」

「そりゃそうよ。だって今も生きているんだもん。死んだ人は思う気持ちがあるかもしれないけど、何もできないでしょ? 身体が無いんだから」

「……。なるほど……。でも生霊のほうが面倒って?」
「まずね? 人型に名前と生年月日を書くまでは一緒。でも絶対にその人の事は考えちゃ駄目。鼻歌唄ってもいいし、音楽掛けてもいい。とにかくその人とはまるで無関係の事で、楽しい気持ちのまま名前を書いてね。結構これが難しいんだけど」

「はあ……」

音楽を掛ける…、帰ったら久しぶりにジョーンコルトレインのマイフェイバリットシングスでも聴こうかな。

「全部できたら、ロウソクで人型を火に焚べます。この時も同じように生霊はその人の事を考えずに燃やしてね?」

「分かりました……。帰ったら早速やってみますね」

オカルトかもしれないが、これで詐欺や不当光熱費、自称俳優若菜龍平を始めたとした変なタカり連中が近付いてこないのなら、神にも縋ってみよう。
さすがにこれまでの自身の想定外の出来事が襲い掛かってくるのは、本当にうんざりしていた。

「あとね、先生。黒とか好きでしょ?」
「まあ俺は服装センスゼロですからね。黒系のスーツ着て、寒くなればコートを着てってシンプルなんですよ。試合用のコスチュームも黒系でシンプルでしたし」

「うーん…、もう少し違う色を入れてみて下さい」
「違う色? まさかピンクを入れるとかですか? 絶対に無理ですよ」

シャインさんは、ジッと俺の後ろのほうを凝視している。
また何か視えているのか?

「ちょっと視るので待って下さい。ん? 緑…、あなたの後ろに緑を履いたレスラーみたいな人がいますよ」

俺はすぐ誰か理解できた。
尊敬はずっと今でもしている。
あの時の恩義は未だ忘れていない。

プロレスファンに緑って誰と聞けば、ほとんどのファンが満場一致でこう答えるだろう。
三沢光晴と……。

プロレスにまるで詳しくないシャインさんは、三沢さんの事を知らないようだ。
俺は携帯電話で三沢さんの画像を出して「ひょっとして緑って、この人ですか?」と見せてみる。

「あ、そうそう! この人よ、今横にいるのは。服じゃなくてもいい。この人の緑みたいな色の何かを身につけてみて下さい」

目頭が不意に熱くなった。

ジャンボ鶴田師匠だったら、まだ分かる。
でもあの三沢さんが、本当に俺などの傍に立ってくれている?

再び号泣してしまった。
深い感謝と温かい何かに包まれた感覚。

まるで子供のように声を出して泣いた。

こんな俺を見守ってくれていたなんて……。

落ち着いてから心筋梗塞の時、病院へ深夜行くまで短い距離を三回苦しくて倒れたエピソードをした。
それで一年ちょっと前に山梨県塩山にある鶴田師匠の墓参りへ行った事も報告。

だから鶴田師匠ではなく、三沢光晴さんがと言ったシャインさんの言葉に驚いたと正直に伝える。

するとシャインさんは不思議そうな表情で口を開く。

「え、先生何を言ってるの? あなたをその時助けてくれたのは、あなたのおじいさんよ?」
「え……」

まさかここで、一度も出していないおじいちゃんの名前が出てくるとは思いもよらなかった。

そうだったのか。
あの時の不思議な感覚は、おじいちゃんだったのか……。

だから無意識に三度目倒れ、死ぬのかと諦めたのに俺は何故か立ち上がっていた。

「本当に大変な孫だなって顔してるわよ」

三度また崩れ落ちて号泣する俺。
こんなに自分が泣き虫だとは思わなかったというぐらい、涙を流した。

「シャインさん…、俺はインカジって裏稼業で働いて生計を立てているような人間です。こんな俺はどうしたらいいんでしょう?」

正直に現状を話す。
この人の前で隠し事は良くないと本能が告げる。

「また小説を書いて下さい。あ、すでにもう始めているんですよね? 本当にそれがベストというくらい天職です。あと作品を作る事」

「……。はい……」

また一つ気付く。
ジャンボ鶴田師匠の墓参りに行ったのは、二千二十三年七月八日。
闇一章を書いたのは、二千二十四年七月八日。
墓参りから、意識をしていないのに、ちょうど一年後、俺は十三年ぶりに小説をまた書き始めた。

生前三人の偉大な背中を見せてくれたものが、また肩を叩かれた感じがする。
あんまり世話焼かせるなと言われた気がした。

つまり俺は前のようにまたガンガン小説を書き、絵も描き、かつて自分が創作意欲に燃えていたあの頃の気持ちへ戻ればいいだけ。

不思議とシャインさんは、裏稼業を辞めろと否定も肯定もしていない。
ただ小説を書けと言う。
だから俺を、最初から先生と呼んでいるとも答えた。

ここまで成り下がってしまった俺が、また『先生と呼ばれて』かよ……。

小説を書いているから先生。
整体で白衣を着て施術をしているから先生。

様々な視点から人は先生と呼ぶ。
政治家にしても先生と呼んでいる人間は多い。

先生か……。

皮肉なものだ。
漫画家も先生だよな?
俺も漫画には少しだけ挑戦してみたが、あんなもの小説に比べたらより大変だから、できればもう二度とやりたくない。

「あと先生はね、野生の力が本当に凄い! だけど、今まで中にいる変なのがあなたの邪魔をして、悪い方悪い方へって引き摺り込まれていたんですよ」

「そうだったのか……」

五十歳になり心筋梗塞を始め、数々降り掛かった災い。
それが彼女の言葉で浄化されていくのを感じる。
心の中にあったわだかまりが、綺麗に消えていく。

本当に結構ヤバい状態だったんだな、俺って……。

多分シャインさんのペットの空海が亡くなり、ここへ来る日にちがズレたのも何もかも、始めからこのように想定された出来事だったのだろう。

「洗う心と書いて、洗心。あなたは今、この作業をしているんですね」

ふと以前群馬の先生に言われた言葉を思い出す。

洗う心と書いて洗心。
何故この時代に生まれ。
何故この時代に生き。
後悔の連続の日々を繰り返し。
何故三十八年も生きてきたのか?
それは、この作品を書く為である。
それが今現在出した答え。

三十八歳で苦しんでいた時、少しだけ気付けたあの感覚。

そう…、俺は十三年間も本来やらなきゃいけなかった事を自分でずっと放棄していたのだ。
誰の為でもない。
書き続ける事こそが自身の浄化であり、またそれが洗心に繋がる。

心の底からお礼を伝え、シャインさんと別れて外へ出た。
セブンスターに火をつけながら、真っ直ぐ道を歩く。

まだ除霊対策をした訳でもないのに、妙に心がスッキリしていた。

少し歩くと、目の前には伊勢山皇大神宮。
せっかくの縁だ。
お参りでもして行こう。

賽銭を入れながら三箇所をお参り。
特に願う事も望む事もなかった。

素直に今のスッキリした心境になれた事への感謝。
それだけだった。

社務所で売られているお守りでも買って帰ろう。
またそこで俺はギョッとした。

2024/07/27 伊勢山皇大神宮 三沢光晴さんカラーの緑色のお守り

三沢光晴さんが生前使用していた緑色のコスチュームに似た色のお守りが売られていたのだから。

これって絶対買って身につけとけって事だよね、三沢さん……。

五十二歳にもなって、まだ自分にあんなに流せる涙があった事に驚いていた。
人間の身体は水分がほとんどと言われているが、妙に納得してしまう。

さて、せっかくの横浜なんだ。
どの店に行こうかな?

ここだと距離的に近いのは野毛…、つまり餃子の三陽って事か。

そして、野毛から福富町は近い。
つまり都橋商店街を通り、あのヤクザだらけの街へ。

橋を渡る際、足を止めて緑色の大岡川をしばらく眺めた。

「……」

八年前、俺はこの場所で麦草の百合と何度も口づけを交わした。
夜だったけど、今さっき行った三陽から歩き、同じルートで彼女と共に……。

またあの頃に戻りたいなあ。
そしたら今度こそ、百合を離さないのにな。

闇で百合とのシーンを書くのは、一体何章目ぐらいになるんだろう?
しっかりまだ、俺の脳裏にあの時の光景は焼き付いている。

会計を済ませ、野毛を二人で歩く。
自然と百合は俺の腕に腕を絡ませてくる。
いい雰囲気だ。
最高に幸せだった。
都橋商店街へ通り掛かり、橋の上から川を眺める。
「横浜って本当にいいところだよなあ……」
「まあこっちのほうが中心地だから人も多いですしね」
「違うって! 百合さんとこうしてこんなにのんびりしながら美味しいもの食べてさ…、何回もキスして……」
「もう……」
俺の肩を軽く叩いてくる百合。
また彼女を抱き寄せ、橋の上で長いキスをした。

時間だけは元に戻らない…、か……。

セブンスターに火をつけてから、福富町へ入る。

川を挟んで逆側には、さっき通った都橋商店街の外観が見える。

この街に、俺は何年いたんだっけ?
最初が丸二年。
次の地獄めぐりが一年ちょっと。

三年から四年の間か。

横浜は雰囲気が本当にいい。
大好きな街だ。
またいつかこの地へ住んでみたい。

全部いい思い出ではないけれど、無一文からいっぱしになれた場所でもある。

川の上をボード板で渡っている集団が遠くに見えた。

2024/07/27 都橋商店街 大岡川

俺はまたそれを眺めながら、のどかな空間を楽しむ。
見ず知らずの集団が、俺を見て大きく手を振ってくる。
同じように手を振りながら、集中しないと川に落ちるぞと思った。

福富町を真っ直ぐ歩き出す。
ちょっと進んで右手にヤンさんの台所。
昔ここで、インゲンかなと二本摘んで食べたら、青唐辛子で地獄を見た思い出。
あれ以来、青唐辛子は絶対に食べなくなった。

誰か知り合いのヤクザと会うと思ったら、俺がいた頃よりひっそりしちゃっているな。
それにしても、相変わらず車だけは路上駐車でたくさん停まってる。

仲通りにあるイタリーノの前を通ると、ランチタイム終了で準備中の札が掛かっていた。
息子息子はまだいるのかな?

もうちょっとで伊勢佐木モール。
ミニ歌舞伎町みたいな廃れた繁華街の福富町。

また金を持ったら遊びに来るからな。

あまり美味しくなかった洋食屋桃山は閉店しているが、店構えはそのまま。
まだ店内にリーアンドペインソース置いたままなのかな?

左手にあるブックオフは未だ健在。
ここから伊勢佐木モール。
左に行けば関内駅。
右に行けば激旨ナポリタンのある喫茶店コーリン。

あー、また横浜住みてえよー!

名残り惜しいけど、ここにいたら絶対に散財してしまうのは自覚していた。
それとあまりの暑さでギブアップ寸前だ。
これで無理して遊んでいると、また財布落とす可能性あるもんね。
さすがに過去三回も、大金を無くした場所でもあるのだ。

そうだ、角にある崎陽軒のシウマイをお土産で持って帰ろう。
大久保で唯一仲良くしている、こなもんマスターと柏原に……。

マスターへ連絡すると、シウマイ弁当が大好きだというので、それも買う事に決めた。
柏原も、夜こなもんへ顔を出してくれるようだ。

あ、連休をくれたインカジ『レディ』の従業員たちにも、持っていってやらないと可哀想だな。
それとマンションの隣りの美人タイ人シングルマザーにも持っていこう。
ひょっとしたら、いい関係になっちゃったりしてね。

関内駅へ到着すると、横浜から湘南新宿ラインへ乗った。

歌舞伎町へ着くと、店にお土産を渡し、そのまま大久保へ向かって歩く。
あまりの暑さに大明飯店寄ってみる。

「お兄さん、先日はあんなにチップをありがとうね」
「いえいえ、あの日はそんな気分だったんですよ」

店内は夕方の部がオープンしたてで、まだ奥のテーブル席しか客の姿が見えない。
腹一杯なので、枝豆とほうれん草おひたしのみ注文。
酒を三杯飲んで、一旦自称俳優マンションへ戻り、空調を全開に掛ける。

涼んでから隣りのタイ人へ、シウマイを届けた。
小学生のメガネを掛けた娘が出てガッカリする。
天は無慈悲ですぞ。

今日はちょっと疲れたから、生霊供養は明日にしよう。
いやいや、早速やらなきゃ駄目でしょ。

六十六枚の人型作り。
やりながら何度も挫けそうになるも、頑張ってやり抜く。
そして風呂へ入って身を清め、ゆっくり睡眠を取った。

目を覚まし、ベランダで俺はシャインさんに言われた事を反芻しながら一枚ずつ人型を燃やしていく。

お袋…、お互い分かり合えずに終わっちゃったけどさ、二度の心筋梗塞でも死なずこうして五体満足で生きているのって、あんたの遺伝子を受け継いだお陰なんだろうな。
ありがとう……。

左瞼横にある二つの傷に、そっと手を触れる。
お陰で必要以上に強くなれました。
もう、これで恨みも何もなくなったからさ、俺も。

だからまだまだこれから書くからね。
それは許してくれよな。

いつになるか分からないけど、憎しみ合ったままの親子関係じゃ駄目だから、こんな形でもハッピーエンドにして、いい物語を心の底から書かせてくれ。

いい思い出って、やっぱりジミードーナツに連れてってくれた事だよな。
幼稚園時だっけ?
一緒にインベーダーもやった。

ごめんな、憎悪だけ向けて暗い嫌な事ばかり書いてしまって。

三十三枚すべて燃やすと一旦部屋に戻り、ジョーンコルトレインのマイフェイバリットシングスを掛ける。
本川越駅前にあったジャズバー、スイートキャデラックを思い出す。

俺もテナーサックス買って、一度挑戦してみれば良かったんだよな。
まあピアノはピアノでやって本当に良かったけどさ。
もう二度と飲めないあの店のアイスコーヒー。
マスターが一粒一粒拘って白い豆を選別して、そこから炒めて煎って……。

何で区画整理なんてしやがったんだよ、川越市の馬鹿野郎!

あの店ができる前って、つぼ八だったもんね。
大沢史博が酔って酒乱になり、警察に捕まる起因となった場所。

それより前って、横にビックリラーメンあったよね。
食べた事ないけどさ。
お袋がいたら、一回ぐらい近くだし行っていたかもね。

そうそう、中央通りにもうちょっと家側だけど、どさん子ラーメンあったの、お袋覚えている?
あそこのマスターと俺、本当に仲良かったんだよ。
どれくらいかって?
前に『打突』って俺の現役時代を書いた作品あるんだけど、さざん子ラーメンでマスターごとそのまま色々なエピソードを実話で書いたほど。

いつだったっけな。
川越祭りの前日に、火事で全焼しちゃってね。
今じゃもうすっかり跡形もなく更地のままだよ。
大好きだったんだけどな、あの店もマスターも。

まあ俺はまだこうして元気に生きているからさ、お袋ももう足を引っ張るとかじゃなくて、腹を痛めた息子なんだから少しは力を貸しておくれ。

よし…、これで百合子の分の三十三枚の人型をすべて燃やし終えた。

色々と本当にごめんな、百合子……。

あ、考えちゃ駄目なんだっけ?
シャインさん…、もう燃やしたあとだから、大丈夫ですよね?

多分これで禊は終了。
八時までゆっくり休み、こなもんへ向かった。

早速柏原へシウマイを渡し、マスターにはシウマイ弁当もつけてお土産を。
するとマスターは、奥からグレンリベット十二年のボトルを用意しておいてくれ、プレゼントしてくれた。

2024/07/27 大久保駅北口 こなもん

「いやいや、マスター! これじゃお土産買ってきた意味ないじゃないですか。今、五千円ぐらいしますよ?」
「まあその…、私もシウマイ弁当大好きなんですわ。そのお礼という事で」

柏原は、グレンリベット十二年に関する逸話を聞きたがる。
俺は百四十万の詐欺被害に遭ったその日の夜の話を始めると、すぐに自分が龍平のせいで待ちぼうけを食らった事だと理解する。

若香に騙され、龍平に酒を飲み尽くされた夜、こなもんでもトラブルを起こした自称俳優。
翌日深夜まで二重取りだと騒いだせいで、マスターと飲む約束をしていた柏原は、二時間以上も一人で待たされたのだ。

「まあ岩上さん、大将から聞きましたけど、完全な豚解体詐欺なんですわ」
「何ですか、それ?」

「典型的な詐欺のやり口です。至極真っ当な詐欺で、金出す前なら力になれたんですが、もう百四十万は気の毒だけど、高い授業料だと思うしかないんですよ」

彼の見解では、豚解体詐欺とはピッグブッチャリング詐欺とも呼ばれるものであり、豚を太らせてから解体する…、つまり恋愛で信頼関係をじっくり築くまでが、豚を太らせる。
ある程度金を出させたタイミングで一気に騙し取る部分が、解体する事からそう呼ばれているらしい。

ただ友達まで巻き添えにしなかった部分だけは、本当に良かったと親身になって話を聞いてくれた。

「それと岩上さん、横浜へ行ったぐらいでワシにまでお土産買ってくるなんて、そんな気を使わんでもいいんですよ」
「まあ俺はあまり遠出しないもんでして」

「ほんま岩上さんは詐欺に遭ったばかりなのに、優し過ぎるというか、気を使い過ぎるというか……」
「まあ今日は何となく気分良かったって事ですよ」

マスターが崎陽軒のシウマイを温めて皿に出し、いる客へ配り出す。

「良かったら岩上さんからの貰い物ですが、お食べ下さい」

本当にこの人も人が良過ぎる。

「マスター! 自分のシウマイ無くなっちゃうじゃないですか!」
「私はほら、岩上さんが別にくれたシウマイ弁当あるやないですか」

まったくこの店は本当に……。

山芋焼きと焼きそばを食べ、楽しい時間を過ごす。
小説書いて、横浜へ行っただけの連休だったけど、何だか有意義な二日間を過ごせたな。

会計はお土産のお礼だと、柏原が全部ご馳走してくれた。

大久保エリアに引っ越してきて、心筋梗塞の二千二十一年から数えると約三年。
初めてこの土地の良さが理解できた一日だったのかもしれない。

おそらく俺は、この瞬間を生涯忘れることができないだろう。
手元にあるマスターから頂いたグレンリベットへ、そっと手を掛けた。

マンションへ戻ると、ベランダで燃やした人型の燃えカスをビニール袋へ何重にも入れて密封する。
そのまますぐ外のゴミ捨て場へ持って行き捨てた。

これまでの妙な真地獄変と命名した変な流れも、これで終わりという事だよな……。




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