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【長編小説】病院の向かいの喫茶店|第四章 蒸らし

「あんた、蒸らしが短いて。いかんわ」

『病院の向かいの喫茶店』第四章「蒸らし」です。
十時すぎに来る、水色の上着の人の話です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。

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六月の終わりは、雨がよく降った。

けやきの葉は、雨が上がってからのほうがうるさい。たまった水が、上の葉から下の葉へ、少しずつ落ちていく。朝、店の前を掃いていると、日が差しているのに背中だけぬれることがある。

その日も、掃き終わるころに一度だけ、首すじに落ちてきた。

道路の向こうの白い建物は、雨のあとだけ少し灰色に見える。乾くまでの二時間くらい、あの建物はいつもより古く見えた。

店に入ると、篠田さんがカウンターに紙を一枚置いていた。

「これ」

それだけ言って、奥へ行った。

労働条件通知書、と印刷してある。時給と、働く時間と、休みの日。仕事の中身のところには「喫茶店の接客と調理の補助」とだけ、手書きで足してあった。

字は大きくて、少し右に上がっている。両替の紙と同じ字だ。

いちばん下に日付があった。

わたしが面接に行った日の、前の日になっていた。

名前のところだけ、あとから足したみたいに、字が細い。

紙をかばんに入れて、エプロンをつけた。奥から、豆をひく音がしていた。

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十時をすぎて、その人が入ってきた。

七十くらいか、もっと上に見えた。うすい水色の上着を、パジャマの上から羽織っている。手首に、白い細いバンドをつけていた。

つえはついていない。歩き方はゆっくりだけれど、しっかりしている。戸を開けるとき、体をぶつけるみたいに肩から入ってきた。

カウンターの真ん中に座った。奥でも端でもない、いちばん真ん中。

「コーヒー」

それだけ言って、こちらを見もしない。

わたしは、いつもどおりに落とした。豆をひいて、湯を注いで、少し待って、それから残りを注ぐ。篠田さんがやるのを、三か月ちかくそばで見てきたとおりに。

出すと、その人は一口飲んで、カップを置いた。

音がした。置いた音というより、下ろす音に近い。

「あんた、蒸らしが短いて。いかんわ」

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「すみません」

「謝れとは言っとらん」

その人は、カップの中をのぞいたまま言った。

「短いて言っただけだがや。謝られても、コーヒーは直らんて」

奥のほうに助けを求めようとして、やめた。篠田さんはいる。呼べば来る。呼ばないほうがいい気がした。

口の中で、言葉を三つくらい作って、全部消した。

それから、聞いた。

「あの。どのくらい、待てばいいんですか」

その人が、初めてこちらを見た。目のまわりの皮膚が薄い。まばたきをすると、まぶたが下からもう一枚めくれるみたいに動いた。

「知らんわ。おれは飲むほうだで」

そう言って、残りを飲んだ。空になるまで、四分かからなかった。

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その日の昼、公園のベンチでスマホを開いた。

「コーヒーの蒸らしは何秒が正解ですか」

『粉全体を湿らせたあと、三十秒ほど蒸らすのが一般的です。豆のいり方や鮮度によって最適な時間は変わりますので、味を見ながら調整してください。』

三十秒。

長いのか短いのか、分からなかった。わたしがやっているのは、たぶん十秒もない。

戻ってから、時計を見ながらやってみた。

三十秒は、思っていたよりずっと長い。湯を注いでから、なにもせずに数える。粉がふくらんで、少しずつしぼんでいく。

十五を数えたところで、指がかってに次の動作をしそうになった。止めた。

二十を過ぎたころ、手を下ろした。数え終わるまで、することが何もない。

その日は、誰にも出さなかった。自分のぶんだけ落として、飲んだ。

味が変わったのかどうかは、分からない。

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その人は、三日おきくらいに来た。

いつも十時すぎ。いつもカウンターの真ん中。いつもコーヒーだけ。

雨の日は少し遅くて、晴れの日は少し早い。違いはそれだけ。

手首の白いバンドを見て、入院しているのだと分かった。出てくるたびに、どこかで許しをもらっているのだろう。毎日は来ない、ということだ。それなら気が楽だと、一度思った。

三度目に来た日、レジで名前を聞いた。伝票に書くためだ、と自分に言い訳をしてから聞いた。

「お名前、うかがってもいいですか」

岩本さんは、財布を開けたまま、こちらを見た。

「なんで」

「……伝票に、書くので」

嘘ではない。書かなくてもいい伝票だった。

「岩本」

それだけ言って、小銭を出した。五百円玉ではなく、百円玉が四枚と、五十円玉が一枚。指でつまんで、一枚ずつカウンターに置いていく。

四百五十円。一円も多くない。

「おつり、いらないんですか」

「出んように持ってきとるがや」

この店で、ちょうどの小銭で払う人を見たのは初めてだ。

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岩本さんが四度目に来た日、わたしはカウンターの内側でスマホを見ていた。

蒸らしのことを、もう一度調べていた。

「なにしとるの、それ」

顔を上げると、カウンターの向こうに岩本さんが立っている。いつのまに入ってきたのか、鈴の音を聞いていない。

「あ、すみません。えっと」

「おれ、まだなんも頼んどらんが」

「すみません」

「だから、謝るなて」

わたしは、スマホをエプロンのポケットに入れた。

「……調べてました。蒸らしのこと」

「機械に聞いたか」

「はい」

「なんて言うとった」

「三十秒だそうです」

岩本さんは、鼻から息を出した。

「三十秒な」

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「あんた、豆をひいてから、どんくらいで湯を入れとる」

聞かれると思っていなくて、答えるのに時間がかかる。

「すぐ、です」

「ふん」

それだけ言って、また黙った。

コーヒーを出すと、一口飲んで、カップを置いた。今度は、下ろす音がしない。

「まだ短いわ」

「……はい」

「けどな」

岩本さんは、カップのふちを指でなぞった。爪が平べったくて、大きい。

「ここのは、それでええんかもしれん」

意味が分からなかったので、黙っていた。

「三十秒きっちり蒸らしたコーヒーはな、うまいけど、濃いんだわ」

言いながら、こっちは見ていない。

「濃いのを一杯出したら、それでおしまいやろ」

窓のほうを見た。道路の向こうに、白い建物が見える。

「ここは、そういう店とちがう」

指の先に、まだ湯の熱が残っていた。

目のやり場がなくて、壁を見た。

棚の横に、画びょうで留めた紙がある。初日に一度、上から拭いた紙だ。

上から三行目。豆の数字のところに、線が引いてあった。その下に、書き直してある。

上の数字のほうが、大きい。

インクの色がちがった。

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戸が開いて、常連さんが二人入ってきた。

「はいよ」

奥から篠田さんが出てくる。トーストを焼きに来ただけらしい。

岩本さんは、途中でやめた。

さっきまで話していたのに、篠田さんがカウンターの向こうに立っているあいだ、一言も言わない。コーヒーを飲んで、窓を見ていた。

わたしは、皿を出す手が遅くなった。

篠田さんが奥に戻ってから、岩本さんはまた口を開いた。

「豆はな、ひいたらすぐ落とすんが一番だがや。それだけは、あの人が三十年変えとらん」

「三十年」

「開いた日から来とるでな」

わたしは、手を止めた。

「開いた日、ですか」

「そうや。まだ病院はできとらんかった」

それ以上は言わなかった。カップを空にして、財布から四百五十円出して、伝票を置いて立ち上がる。

それから、こちらを見ないで言った。

「あんた、いつまでおるの」

答える前に、戸が閉まる。

戸の上で、鈴が鳴った。

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昼の休みに、店の裏でノートを開いた。

岩本さん。カウンターの真ん中。コーヒーだけ。小銭で四百五十円ちょうど。

謝ると、怒る。

その下に、書いた。

蒸らし三十秒。うまいけど、濃い。

書いてから、前にも同じことを聞いた気がした。ページをさかのぼって、四月のところを見た。

四ページ前に、書いてあった。

濃かったら、一杯で終わっちゃうでしょう。

桑島さんの言葉を、そのまま書き写したものだった。

ノートを閉じて、エプロンのポケットに入れた。

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その日、上がる前にもう一度スマホを開いた。

「お客様に、謝るなと言われました。どうすればいいですか」

『不快な思いをさせてしまった可能性があります。まずは誠意をもってお詫びし、相手のお話を最後まで伺いましょう。原因を確認したうえで改善策をお伝えすると、信頼の回復につながります。』

まずは、お詫びし。

謝るな、と言われた。二回。それを書いて聞いたのに、返ってきた一行目が、それだった。

正しいのはたぶんこっちで、でも、あの人には効かない。

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七月に入って、何日かたった日、上がってから、わたしは道路を渡った。

信号を待って、白い建物の側まで歩いた。中に入る用事はない。自動ドアの手前で立ち止まって、振り返った。

向かいから見ると、うちの店は思ったより小さかった。

看板の木は、ここからでも見える。塗りのはげたところが、日に当たって白く光っていた。

窓の中は、ここからだとよく見えなかった。中に誰か座っているかどうかも、分からない。

岩本さんが三十年見てきたのは、こっち側からの景色ではない。

自動ドアが開いて、知らない人が出てきた。

信号が青になる。

わたしは、店のほうへ渡った。

かばんの中で、あの紙が二つに折れていた。日付のところに、折り目がついている。

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(第五章へつづく)

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第一章「薄いコーヒー」から読む


第二章「かたいゆで卵」を読む


第三章「落とした一枚」を読む


作品のもくじ


第五章も、この場所に置きます。
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