「待たせてごめんね。迎えに来たよ。』第5話|大人になったハルの声
ハルの独白
俺はきっと、「目立たないこと」を選んだんだと思う。
まっすぐ勉強して、進学して、就職して、結婚して。
家庭を持って、子どもができて、家を買って、出世もした。
傍から見れば、何不自由ない人生に見えるかもしれない。
でも、それは「ちゃんとした人生」の型に、自分を合わせ続けた結果だった。
たくさん努力してきた。
きっと誰にも分からないくらい、「何も問題ないように見せる努力」をしてきた。
そのために、どれだけ自分の声を押し殺してきたか、もう数えきれない。
本音なんて、気づかないふりをしていた。
ほんとうは、分かっていたのかもしれない。
けれど、それを認めてしまったら、
今まで積み上げてきたものが音を立てて崩れてしまいそうで、
怖かったんだと思う。
信じていた“幸せのかたち”が、
誰かのためのものであって、自分自身はそこに含まれていなかったことに、
気づくのが、怖かった。
だから、自分だけの「ほんとうの幸せ」があるかもしれないなんて、
考えることすらやめた。
家族を守るため、生活を守るため。
そう言い聞かせていたけど、
一番守りたかったのは、
たぶん、これまでの自分自身だった。
——それは、強さじゃなかったかもしれない。
それでも今の俺は思う。
この生き方は、俺なりの「やさしさ」だったと。
⸻
「そう?ありがとう。」
ハルの返事は、それだけだった。
でも私は、彼の少ない言葉の中に“何か”を感じた。
ハルの言葉は、いつも少し遅れて届く。
輪郭はあいまいでも、
その奥にはちゃんと、“何か”があることを、私は知っている。
⸻
ある日、彼は釣りの話をした。
「ヘラブナ」のこと。
ただの魚の名前だけど、
あれは、彼自身のことだったのかもしれない。
深い水の底で、音も立てずに呼吸する魚。
人のすぐそばで暮らしながら、
気づかれないように、そっと、静かに存在している。
もし釣り上げて、無造作に触れられたら、
人の体温で火傷してしまうような、
そんな繊細なサカナ。
触れようとすれば、逃げてしまう。
強い光を当てられれば、姿を隠してしまう。
でも——
水面から、そっと見つめていれば、
ちゃんと、そこにいる。
⸻
ハルは、誰にも気づかれずにいることを望んだわけではなかった。
たぶん——
むしろ、「目立たないこと」を“選ばざるを得なかった”。
周りの幸せのために、人の中で生きるために。
でも、誰かを傷つけないように生きようとした、その姿は、
たしかに、美しかった。
強さじゃなかったかもしれない。
でも、それは、たしかに、やさしさのかたちだった。
壊れそうな心をかかえて、
「普通」であろうとしたハルの心は、
歳を重ねても、変わることなく
まるで、朝焼けの湖の水面みたいに、儚くて、きらきらしていた。
⸻
私は、そっと言葉を渡した。
「ヘラブナが火傷しないように心砕ける人は、
普段から穏やかな気持ちで過ごした方がいいよ。」
あれは返事を求めた言葉じゃなかった。
ハルが返せなかった気持ちの続きを、
私が代わりに言葉にしてあげたかっただけ。
⸻
今もたぶん、ハルは、水の底にいる。
それでも私は、こう言いたい。
「待たせてごめんね。迎えに来たよ。」
あなたの声は、ちゃんと届いてた。
世界が聞こえないふりをしていたあいだも、
私は、ちゃんと聞いてたよ。
⸻
あとがき
本当は、大人になった私にできることなんて、もう、あまりないのかもしれない。
もう誰かの手を引いてあげることも、連れ出すこともできない。
——大人を、迎えに行くことはできない。
でも、それでも私は、ただ、こう思う。
「ここにいるよ。」
あなたが、ひとりきりで沈黙の中にいたわけじゃないって、
ちゃんと伝えたかった。
「ちゃんと知ってるよ。」
ただ、それだけを、伝えたかった。
⸻
おしまい。

**
読んでくれて、ありがとう。
もし、あなたの心がどこかふるえたら、
その「ふるえたこと」を、
スキで伝えてもらえたら嬉しいです。
それが、わたしの次の言葉をつくる手がかりになります。
よければ、ひとことだけでも、残していってね。
あなたが、ここにいてくれてよかった。
still.
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◀︎特別編『私は、世界を迎えに行きたかった。』— still.という語り手の物語
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▶『夫を訳す。──わたしの“怒り方”には、理由があった。』
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