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ホロコースト否定派の代表サイトの一つ、「逆転ニュルンベルク裁判」をやっつけよう!――どこまで出来るかわからんけど。(3)

前回:

では今回も適当にダラダラと読みながら思いついたままに書いていきますね。


4:絶滅計画で死んだユダヤ人は何人か?

ラーソン・デマ

どうも、セオドア・オキーフなる修正主義者の小物が起源であるらしい(そうじゃないかもと思っていたのですが、探してもオキーフ以前が見つかりません)このチャールズ・ラーソンの話は過去に何度も記事にしており、ついには問題のラーソンの伝記である『犯罪医師』それ自体、およびラーソン自身がインタビューに応じた記事であるらしいウィチタイーグルの記事まで探し当てて全文翻訳公開までしています。この件、西岡の嘘まで暴いてやりました✌️

以下、『犯罪医師』の翻訳紹介の記事にそれらの他の内容記事へのリンクもありますのでご参照ください。

西岡とXでやりあって、これとは別のガス殺死体の発見報告はあったと示したら、「正式な検分報告があるはずだが」みたいないちゃもんをつけてきたので、こりゃダメだと思ってそれ以降は議論しておりません。というのは、ガス殺死体など歴史学的な証明には不要であり、歴史学者は別にガス殺死体の存在証明など要求していません。証言や文書資料などから総合的に判断しているだけだからです。

例えば、チンギス・ハーンは何千万人も殺していた、みたいな説の検証に死体を要求することは不可能です。歴史学者は限りある史料から推定を試みるだけなのです。ただし、ナチスドイツが毒ガスによりユダヤ人、あるいはそれ以外を含めた大勢の人を殺していたことは疑いようのない事実です。多くの証拠がそれぞれの証拠を相互に複雑に裏づけあって、強固な証拠構造を構成していて、決して否定できるようなものではないからです。これについてはこのソフィアシリーズでもまたいずれ示すことがあるでしょうが、他で何度も言っているように、否定論者には「裏づけ」という概念がありません。

さて、ラーソン自身はガス室を認めているのに、「そんなのは証拠にならない」と主張するソフィアですが、ソフィアはガス室がなかった証拠としてラーソンの本を用いているのですから、「ムジュン」した態度だなーと思いますね。ラーソンは、ガス殺死体を見つけなかった人ですけど、その人でさえもガス室を認めていたという事実の方が重要だと思うのですが。つまり、ガス殺死体が見つからなかったとしても、ガス室がなかった証拠にはならない、という当たり前の判断をラーソンはしているだけなのです。

ウィチタイーグルの記事からは、ラーソンは600万人説を信じてはいなかったようですが、そうだったとしても、ラーソンがその実態(歴史学的な細かな内容)をあまり知らなかった可能性は高いと思います。彼は犯罪医師としては非常に優秀だったことが『犯罪医師』から分かりますが、特にホロコーストを学んでいた形跡は書かれていませんでした。しかし、600万人説を信じていなかったことを告白したということは、彼は自分自身の考えを自由に発言しており、なんら制約を受けていないことを示していると思います。例えば、連合国の圧力がかかっていてガス室を認めるように脅迫されていた、とするならば、600万人説もそうであるはずだからです。

確かに、ラーソンがガス室を認めていたからと言って、ガス室があったことの証明にはなりませんが、しかし一方で否定する根拠にもならないことは明らかでしょう。

ダッハウのガス室

今現在は、ダッハウ記念館の表示は知りませんが、サイトではガス室での大量殺戮を否定しつつ

According to one contemporary witness account, some prisoners were killed by poison gas in 1944.

ある当時の目撃者の証言によれば、1944年に毒ガスで殺された囚人もいたという。

https://www.kz-gedenkstaette-dachau.de/en/historical-site/virtual-tour/crematorium-area/

と書かれているようです。ダッハウのガス室については以下の記事などを参考にしてください。

ダッハウのガス室で、「なぜ大量虐殺が行われなかったのか?」など、その実態は未だ未解明のようですが、それでもこのダッハウの議論だけでちょっとはお腹を満たせそうな議論になりそうなくらいの話はあります。例えば、否定派の重鎮の一人だと思われるある人はその著書で、

収容所にはガス室がなければならなかったので、ガス室は存在せず、シャワー室がガス室であったことにすることにした。シュトラウス大尉と囚人たちはその作業に取りかかった。以前は、4フィートほどの高さの旗石があった。隣の乾燥室の同じような旗石が取り出され、シャワー室の旗石の上に置かれ、この2列目の旗石の上部に、鉄のファンネル(ガスの注入口)のある新しい低い天井が作られた。

https://holocausthandbooks.com/book/lectures-on-the-holocaust/

のような引用を行なっていますが、そんな事実は、この引用の元記事以外では確認できません。その記事自体が捏造記事と言っていいと思われます。

なお、ソフィアはダッハウでガス殺死体があったら新説になるとか言ってますが、1944年にガス殺死体があっても、それが焼却処分されてしまっていたら? ラーソンが発見していなくとも、別になんの矛盾もありません。

しかし、ダッハウでのガス処刑は証明とは程遠い証言程度しかないので、未だ未解明という他はないでしょう。ダッハウのガス室に関しては、西岡昌紀などは「戦後はダッハウで毒ガスによる大量処刑があったと言っていたではないか!それがどうして今はなかったことになっているんだ?おかしいではないか!」としつこくしつこく何度も言ってましたが、そうだったのかもしれませんが、大量ガス処刑を示す確たる証拠がないのですから、なかったと言わざるを得ないというだけの話だと思います。

要するにニュルンベルグ裁判での立証は意図的な捏造だったんだ!と言いたいのでしょうけれど、そんな証明は何もありません。大事なことは、単なる間違いか意図的な嘘かをどうやったら区別できるのか?ということだと思うのですけれどね。袴田事件のように、警察が証拠を捏造した可能性が極めて高いとする弁護側の立証みたいなのがあれば違ってきますが、ニュルンベルク裁判での捏造疑惑はそれすらない話なのです。

毒ガス死体、あるいはアンネ・フランク。

こんな感じでダラダラと、毒ガス死体は見つかってないだとか、ガス死の検死報告はないだとか、否定派「だけ」が拘る話が続くのですけれど、出てきたら出てきたで、否定派は否定することしか知らないので(認めることができないので)、例えば上のリンクで示したクラスノダールのガス殺遺体の報告については、正式な法医学報告がないだとか、裁判自体が信用できないだとか、あるいはソ連はカチンの森で嘘をついたからソ連の報告など信用できないだとか、言いたい放題言って結局は単に認めないだけだったりするので、実際のところどうでもいい話なのです。

そもそも、否定派がご存知の通り、ユダヤ人絶滅のほとんど全ては、ソ連が占領した地域で行われたのですから、そのソ連が信用できないのであるならば、たとえガス処刑死体の報告があっても意味はないのです。つまりは、ガス処刑死体の報告を求めること自体が間違っているのです。

それにしてもこれなんなのですかね? 

毒ガスで死んだ死体ならある
例えばアンネ・フランクの関係者だ。
アンネの父であるオットー・フランクの仕事仲間だったヘルマン・ヴァン・ペルスは、1944年9月6日にア ウシュビッツ・ビルケナウに到着した集団ごとガスで殺された。
『オランダ赤十字調書 103586号』がそれを裏付けている。
これは『アンネ・フランクの日記』の付録資料で確認できる有名な話だ

死体があったなんて誰も言っていないのですけど? 「オランダ赤十字調書 103586号」なるものがなんであるのかなんて知りませんが、これが書いてあったのは、そこで何度も登場しているNizkorと呼ばれた反否定派サイトにあった記述です。修正主義者の団体であるIHRが発行していた、66個のホロコースト否定の論拠みたいなのにNizkorがいちいち反論していたというものなのですが、そこでも別にガス処刑死体の話として「オランダ赤十字調書 103586号」を持ち出していたのではありません。

そこ(https://www.jewishvirtuallibrary.org/how-to-refute-holocaust-denialの55番目です)でNizkorが回答しているのは、まずIHRがこう言っていたからです。

55 . 終戦の数週間前にアンネ・フランクが亡くなった原因は何か?
IHRは言う:
アウシュヴィッツでの収容を生き延びた後、終戦の数週間前にベルゲン・ベルゼン収容所でチフスにかかった。彼女はガス処刑されなかった。

これ、本当に頻繁に何度も何度も修正主義者は言うんです、アンネはアウシュヴィッツ収容所に送られたのに、ガス処刑されていないではないか? と。定説では、ユダヤ人がアウシュヴィッツに送られるということは必ずガス室で殺されることを意味するんじゃないのか? おかしいじゃないか?というのが修正主義者の言いたいことなのです、矛盾している、と。

一応念のため説明しておくと、フランク一行がアウシュヴィッツに送られたのは1944年9月6日でした。そしてビルケナウに着くと、プラットフォームで選別を受けるのですが、アンネは当時15歳でした。労働適格・不適格の年齢の選別基準はちょうどそれくらいだったので、アンネは単に労働適格者の方に選ばれたため、即ガス室送りにはならず、囚人登録を受けて収容所に一旦収容されたのです。

そして、アンネと姉のマルゴーは、10月28日、アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゲンへ移送される囚人として選ばれ、そして4日かかってベルゲン・ベルゼン強制収容所に到着した――。なぜ移送されたのか? ソ連が接近してきていて、ナチスドイツはアウシュヴィッツを近々放棄せざるを得ない状況で、囚人労働力を確保しておきたかったからです。

ほんとに、このような回答を何度ネット上で示したことか。しつこいったらありゃしない。ていうかほんとにネット上の否定派ってきちんと調べたりしないのです。ネットで調べるだけでわかるだろー、こんなの。で、NIzkorは、アンネは確かにガス処刑されていないが、ヘルマン・ヴァン・ペルスはガス処刑されているぞ、と反論しているのです。

ですが、それすらソフィアは無視です。ソフィアはNizkorが言ってもいないガス処刑死体の有無に話を変えてしまっているのです。しかし、オランダ赤十字は死体の確認などできたわけありません。例えば、生存者から聞き取り調査をするなどして、それでヘルマン・ヴァン・ペルスがガス処刑されていたことを突き止めたのでしょう。(こちらのサイトでは「囚人仲間は、看守が1944年10月にヘルマンをガス室に送ったと発表した」とあります)ソフィアは、定説では、ガス処刑死体は焼却処分されていたことを当然知っているはずですから、ここではいい加減な話を適当に作っているだけなのです。

ヘルマン・ファン・ペルスのガス殺は赤十字じゃなくて、オットー・フランクの証言がソースかよ。
赤十字は1944年9月6日まで生存を確認しただけで、ガス殺なんて確認してないじゃねぇか。
ニッコーの言っていることと違うぜ

そもそもNizkorは「ガス殺(死体)を確認した」だなんて言っていません。Nizkorの記述を今一度以下に示します。

55 . 終戦の数週間前にアンネ・フランクが亡くなった原因は何か?
IHRは言う:

アウシュヴィッツでの収容を生き延びた後、終戦の数週間前にベルゲン・ベルゼン収容所でチフスにかかった。彼女はガス処刑されなかった。

Nizkorの回答

アンネは、ナチスに発見され逮捕され、アムステルダムからポーランドの死の収容所に強制送還された時、2年と30日間潜伏していた8人のオランダ人ユダヤ人の一人に過ぎなかった。

アンネの父親の仕事仲間であったヘルマン・ヴァン・ペルスは、1944年9月6日、一行がアウシュヴィッツ・ビルケナウに到着すると、ガス処刑された(オランダ赤十字、資料103586)。彼の妻は「1945年4月9日から5月8日の間に、ドイツかチェコスロバキアで」死亡した(オランダ赤十字、資料103586)。息子のペーターは、アウシュヴィッツからの強制連行の後、1945年5月5日、オーストリアのマウトハウゼン強制収容所で死亡した(オランダ赤十字、資料135177)。

一家の友人であったフリードリッヒ・ペッファー医師は、1944年12月20日、ノイエンガンメ強制収容所で死亡した(オランダ赤十字、資料7500)。

アンネの母は1945年1月6日、アウシュヴィッツ・ビルケナウで死亡した(オランダ赤十字、資料117265)。アンネと姉のマルゴは、1945年3月31日頃、ベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスで死亡した(オランダ赤十字、文書117266と117267)。8人のうち、生き残ったのはアンネの父オットー・フランク1人だけであった。

オットー・フランクの仕事仲間であったヨハネス・クライマンとヴィクト ル・グスタフ・クグラーという二人の非ユダヤ人も、フランク一家を幇助し た罪で逮捕された。二人ともドイツで労働奉仕の刑に処せられ、戦後も生き延びた。

オランダ赤十字への言及はすべて、Frank, Anne, The Diary of Anne Frank: The Critical Edition, 1989, pp.49-58に引用されている。

前述したしたように、「アンネ・フランクはガス処刑されていないではないか?」に対する反論として、同じフランク一行の一人であるペルスはガス処刑されている、と述べただけにとどまります。それをいうなら、アンネ自身だって、チフスで死んだことについてはその死体を検死したという報告はありません。検死記録も何もないのです。死体も公式には確認されておらず、アンネのチフス死はペルス同様に囚人仲間による証言によるものと考えられます。

要するにソフィアが如何にデタラメか、ってだけの話です。

赤十字はホロコーストを知らなかった?

ソフィアはこうしてありもしない、「ニッコーは矛盾だらけだな」と捏造して、ストローマンを使ってNizkorを反論したかに見せかけているだけなのですが、赤十字は本当に戦時中、ホロコーストを知らなかったのでしょうか? これについては、そうとも言えません。

詳細は上の記事を読んでもらうとして、情報は掴んでいた、というレベルで知ってはいたようです。ただ、赤十字代表のモーリス・ロッセルがアウシュヴィッツの敷地内にはほぼ立ち入らせてもらっていないように、直接知ることはできなかったのです。また赤十字の話はいずれ登場するのでその時にもう少し詳しく述べたいと思います。

ソ連占領後10年間はアウシュヴィッツは立ち入り禁止だった?

なるほど、この10年間立ち入り禁止説は木村愛二が書いてたんですね。西岡もそう書いていましたが、立ち入り禁止説のソースは未だどこからも出てきません。ChatGPTに調べさせても、わからないと言っていますし。木村らの情報源が見つかったらお教えください。私にはさっぱりその起源がわかりません。

ちなみに、アウシュヴィッツ収容所は、1947年には博物館化されて公開されています。

博物館の開館

博物館の開館式典は1947年6月14日に行われ
、数万人が出席した。そのほとんどは元囚人、その親族、そしてポーランドとユダヤの多くの共同体や政治団体からの代表団であった。式典は宗教的な礼拝から始まり、第11ブロックの中庭ではカトリック、第4ブロックではユダヤ教、第11ブロック内では東方正教とルター派の礼拝が行われた。礼拝の後、ポーランド首相のユゼフ・ツィランクィェヴィチと、ポーランド・ユダヤ人中央委員会の代表として議会代表のユゼフ・サクが演説を行った。その後、参加者は第11ブロックの中庭にある「死の壁」に献花を行い、ツィランクィェヴィチが博物館の開館を宣言した。

セイム(ポーランド議会)が博物館の設立を定める法律を可決したのは、7月2日になってからであった。この法律は、「オシフィエンチムにある旧ナチス強制収容所の敷地は、そこにあるすべての建物と設備とともに、ポーランド民族および他の民族の殉教の記念碑として、永久に保存されるものとする。…オシフィエンチム=ブジェジンカ国立博物館は、ナチスの犯罪に関連する証拠と資料を収集し、一般に公開し、科学的に研究する任務を負う」と明記している。このように、運営を定める法律が可決される前に機関が開館するというやや異例の状況は、ポーランド人政治犯の最初の移送から7周年にあたる6月14日に開館式典を行いたいという希望と、議会の最も早い会期が7月上旬に予定されていたという事情から生じたものであった。開館を延期したくなかった当局は、必要な法律が可決される前に博物館が運営を開始することを決定した。

https://www.auschwitz.org/en/museum/history-of-the-memorial/from-liberation-to-the-opening-of-the-memorial/the-opening-of-the-museum/?utm_source=chatgpt.com

んとに、否定派はどいつもこいつも嘘ばっかりで困りますね。

なお、ソ連の1945年1月27日の開放時、アウシュヴィッツ収容所には数百体の死体は残っていたようですが、ガス処刑とは無関係のものしか残っていなかったでしょう。ガス処刑は1944年11月には中止されていましたから。

マイダネクのガス処刑死体があったという報告

私も、対抗言論の高橋氏(対抗言論の主催者)だったと思いますが、そこでマイダネクの報告書があると紹介していたので、そのリンクから報告書を見つけて翻訳してあります。しかし……。

マイダネク収容所については、未だに私はよくわかっていません。別に特に調べているわけでもないからですけど、マイダネクの情報にはあまり触れることがないので、ほぼほぼ無知ではあります。

ただ、対抗言論では「ガス処刑の死体を見つけたという報告はあるぞ」的に紹介はされていましたが、クラスノダールの方は写真付きで、死体の数が報告書に記載されているなど、それなりに信頼性は高いと思いますが、マイダネクの報告書には「収容所の敷地内で一酸化炭素中毒の特徴的な症状を示す多数の死体が発見された」と書いてあるのと、一酸化炭素の入った容器があった、程度の記載しかなく、ガス処刑死体があったとの記載は信用しにくいのです。特に、死体の数が書いてないことが不信感を抱かせます。数えりゃいいだけなのに、ちょっと変です。

それに、マイダネクのガス処刑は解放前年には中止されていたという情報も得ているので、そこから考えても変です。

ルブリン強制収容所でのガスによる殺人は、おそらく1943年9月の最初の日まで続いていたと思われる。

https://note.com/ms2400/n/ne4d5c996893c

対抗言論の高橋氏は、ガス車が使われたと言っていたように記憶しますが、上記引用元であるマイダネク博物館サイトの記述によると、マイダネク収容所でガス車が使われたかどうかは解明されていない、ともあります。

いずれにしても、述べた通り、マイダネクのことは私自身は未だよくわかってないので、はっきりしたことは言えません。私の知らない学術的研究もされていると思うので、それらを少しは知ってから判断したいと考えています。マイダネク収容所が如何に日本人にとってわかりにくいかは、ウィキペディアの記述を見ると少しはわかるかと思います。

さらに一酸化炭素中毒によるガス殺といっているが、現場には一酸化炭素のガスボンベは存在しない
現存しているのは二酸化炭素と書かれたボンベと記載が読めない正体不明のボンベだけだ。

修正主義者が言っているのは現在置いてあるこれのことらしいのですが、これが当時も置いてあったものなのかどうかもわかりません。

当時の写真らしいものはネットに転がってました。でもこれでさえ、書いてある文字は読めません。

https://5rim.ru/text-news/maydanek-dopolnitelnye-materialy-k-knige-chast-2/

ともかく、よくわからない、今のところ確かめようもない情報についてはなんとも言えません。しかし、ボンベのどこかに二酸化炭素と読める文字が書かれていたからと言って、入っていたのが二酸化炭素とは限りません。また、なぜその箇所(バラック41)にそのようなボンベがあったのかについて、それを説明している当時の記録などはないようです。

ヒルバーグがディーゼル排ガスによる処刑を否定していた?

あまりに胡散臭い代物だからホロコースト肯定派の重鎮ラウル・ヒルバーグもディーゼル排気ガス殺人を人間石鹸と同レベルの嘘だということで否定しているくらいだぞ

この件も、ちらっと聞いた程度でヒルバーグの主著である『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』をまだはっきりとは確認していない(買うつもりがないので図書館でしか読まない(笑))のですが、ヒルバーグがガス車やラインハルト作戦収容所でのディーゼルエンジン(現在はガソリンエンジン説に変わってますが)排ガスによる処刑を否定しているなどとは聞いたこともありません。

そこで、ソースを辿ってみました。ソフィアがそこでソースとしている記事は、現在の歴史修正主義研究会では、

になりますが、そこにはこうあります。

結局、ホロコースト正史派の歴史家たちも、ディーゼル排気ガスを使った大量殺戮が「まったく不可能」6であることを認めようとしているのかもしれない。亡命ロシア系ユダヤ人によって編集され、彼らを対象としているニューヨークの日刊紙『新しいロシアの言葉』によると[101]、世界でもっとも著名なホロコースト史家ヒルバーグは次のように述べたという。

「ナチスは人間の脂肪から石鹸を製造しなかったし、ディーゼル排気ガスで犠牲者を殺さなかった。これらの噂は1942年に流布していたが、われわれは、これらの噂や偽造を事実と真実から切り離さなくてはならない。ちょっとした嘘が、否定派に馬草を提供し、われわれに敵対する行為になる。」

で、脚注101にはこうあります。

[101] Y. Manin, Novoje Russkoje Slowo, February 26-29, 1995; この記事の詳細については、M. Dragan, "Revisionisten haben Luftüberlegenheit", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 1(3) (1997), p.138 (online: vho.org/VffG/1997/3/Dragan3.html)を参照。

で、さらに、その最後にある「online: vho.org/VffG/1997/3/Dragan3.html)」は、vho.orgが現在停止中ですので、アーカイブでは例えば

で読めます。その著者名は

ミロスラフ・ドラガン博士(Von Dr. Myroslaw Dragan)

とあります。この人物のことはさておくとして、この記事を最初の方だけ翻訳すると、以下の通りです。

Novoje Russkoje Slowo(新ロシア語)は、ニューヨークで発行されている最も古く唯一の日刊紙で、米国および世界各地に100万人いるロシア語を話すユダヤ人コミュニティにニュースを提供している。近年では、週刊紙『Jewish World』に次いで、ユダヤ人ディアスポラで2番目に重要な報道機関となっている。このロシア系ユダヤ人新聞がホロコースト修正主義の主張を集中的に分析して以来、約2年半が経過した。1995年2月26日から29日にかけて、Das Neue Russische Wortは、9000字の小論を3回に分けて掲載し、その3回とも、この新聞の大きな紙面のほぼ全体を埋め尽くしている。この冷静で事実にもとづいた小論は、D. Lipstadt教授(Betrifft: Leugnen des Holocaust, Rio Verlag, Zurich 1994)のような主要な反修正主義者の記述でおなじみの罵詈雑言や誤った表現なしに書かれており、アブラハム・フォックスマンのような反修正主義者の議論と同様に、さまざまな修正主義者の議論を正確かつ詳細に説明している。

中でも匿名の著者(ペンネームY.マニン)は、ラウル・ヒルバーグ教授の言葉を次のように引用している:

「ナチスは人間の脂肪から石鹸を作っていないし、ディーゼルガスで犠牲者を殺していない。これらの噂はすべて1942年に流布されたものだが、われわれには、これらの噂や捏造を事実や真実から徹底的に切り離す義務がある。小さな嘘は、否定派に私たちに不利な材料を提供するのだ」。

つまりですね、いったいどこでいつこの匿名の著者は、このヒルバーグの言葉を入手してきたのか、さっぱりわからないんですよ。なお、元記事であるらしい「Novoje Russkoje Slowo」までは、今回は調べようとは思っておりません。必要ないと思いますし、サクッと検索した程度ではどこにあるのかわからんし。

で、この記事の著者であるミロスラフ・ドラガンとやらは、Holocaust Controversiesの以下の記事

ここに、こう書かれています。

とにかく興味深いのは、他の否定派が彼の主張をすぐに受け入れたことだ。しかし、CODOHの集団は常に、騙されやすい愚か者と、まったくの嘘つきで構成されている。そして、私たちが知っているように、「修正主義者 」の捏造は今に始まったことではない-ミロスラフ・ドラガン、エミール・ラホウト、「グレゴリー・ダグラス 」等々。

ドラガンが一体どんな捏造をしたのか、また機会があれば調べておきますが、その次に書いてあるエミール・ラホウトのことなら知ってます。興味があれば以下をお読みください。

ともあれ、修正主義者というのは、こんな感じで怪しげで不確かな情報ですらも、サクッとなんの検証もなく採用しちゃうんですわ(笑)

ところでこの章のタイトルは「絶滅計画で死んだユダヤ人は何人か?」じゃなかったのでしょうか? どこにそんな話題があったのでしょう?


5:ナチスが絶滅計画を実行していた現場を直接見た証人はいるのか?(クルト・ゲルシュタインの証言)

二万件の証言のうち一万件は信用できない、は本当か?

イスラエル政府のホロコースト・センター、ヤド・ヴァシェム の公文書館長、サミュエル・クラコウスキは一九八六年に、保管している二万件のユダヤ人“生存者”の“証言”のうち、一万件以上は“信用できない”ことを 確言した。

この件は、Nizkorに詳しく書いてあります。その前半だけ翻訳引用します。

シュムエル・クラコフスキーの誤引用問題:ホロコースト否定論者たちの虚偽と歪曲

著者:ジェイミー・マッカーシー、ケン・マクヴェイ

以下の文章は、ポートランドのダン・ガンノンによるもので、クラコフスキー氏の発言の典型的な誤引用の例である。

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「ホロコースト」が本当に「人類史上最も文書化された犯罪」であるならば、「ホロコースト否定論者」が「ガス室の存在の証拠」を求めることは、ベーレンバウム氏にとって何の問題も引き起こさないはずだと主張している。なぜ彼は要求された証拠を提出できないのか?彼が語る「すべてのこの『文書化』」はどこにあるのか?もし彼が「目撃者の証言」を指すのであれば、彼は、シュムエル・クラコフスキー(イスラエルのヤド・ヴァシェム・ホロコースト資料センターのアーカイブディレクター)でさえ、ナチスの残虐行為に関する1万件以上の「目撃者の証言」がヤド・ヴァシェムだけで虚偽であると報告していることを知るべきであると述べている[1]。
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ガンノン氏のあからさまな誤引用は、1986年8月21日付のエルサレム・ポスト紙への以下の投書を考慮すると明らかになる[2]。

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エルサレム・ポスト編集長へ

編集長様、

8月17日付のバーバラ・アムイヤル氏のトップ記事を読んで、深く驚きました。この記事は、一部、私へのインタビューに基づいています。

アムイヤル氏が書いたこととは反対に、当アーカイブに保管されている20,000件の証言のうち数百件もの証言が、ナチス戦犯裁判で広範に利用されました。

私はアムイヤル氏に、生存者たちは歴史の記録のために証言を書き残したと伝えました。なぜ彼女が、生存者たちが「歴史の一部になりたかった」と表現したのか理解できません。

私は、不正確であることが判明した証言がいくつか(幸いにもごくわずかですが)あると述べました。なぜアムイヤル氏はそれらを多数であるかのように表現したのでしょうか?

最後の発言に関して、私はデミャニュク事件について議論しないよう「命令」を一切受けていません。単にアムイヤル氏との議論を拒否しただけです。

シュムエル・クラコフスキー
所長
ヤド・ヴァシェム・アーカイブ
エルサレム
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クラコフスキー氏の書簡から、彼がインタビューを受け、その後誤引用され、その誤りを正そうと決意したことがわかる。

しかしながら、この「クラコフスキーの誤引用」は、ホロコースト否定論の文献やワールド・ワイド・ウェブ上で頻繁に登場する。

<後略>

https://www.nizkor.org/the-techniques-of-holocaust-denial-shmuel-krakowski-the-yad-vashem-archives/

「不正確であることが判明した証言」が「いくつか」あったとだけクラコフスキー氏が語ったのに、がエルサレム・ポストの記者によって「多数」と誤報され、それがいつの間にか、修正主義者の伝言ゲームによって「二万件のユダヤ人“生存者”の“証言”のうち、一万件以上は“信用できない”」に化けてしまっていることがお分かりいただけるかと思います。

私は、ホロコースト否定派のような人たちが、特にネット上では頻繁に「マスゴミなんか信用できるわけねーだろwww」と嘲笑的に言っているのを見ていますが、実際にはそれらの人は「マスゴミ」を信用しないどころかその逆に、その「マスゴミ」の報道を大幅に歪曲までして利用するのです。

ホロコーストについては、如何なる細かい箇所についても、まるで虫眼鏡で日光の熱を集めて焼き尽くすくらいにまでひたすら疑って否定しようとするのに、都合のいい情報は、同じ虫眼鏡を使って最大限にその情報を拡大しようとするかの如くです(笑)

139人の拷問?

この139人の拷問についてはまた出てくると思いますが、先にこの否定派が大好きな話については以下にすでに解説があることだけは示しておきます。

一緒ですね、否定派は、次節に都合の良い話は何の検証もなく大々的に使用するってだけなのです。しかし、その記事を書いたとされたエドワード・ヴァン・ローデン判事自身が「私は書いてない」「そんなん知らん」「事実は確認できなかった」つってるんですからね。相方も知らんつってるし(笑)

アウシュヴィッツのガス処刑の目撃者はせいぜい十数人?

「証言は一万件というが、ガス殺そのものを見たって人間は少ない。

例えばアウシュビッツの場合、ホロコースト物語の主役みたいなもんだが、「アウシュビッツのガス殺を見た」という証言はせいぜい十数個に限られている。

アウシュビッツのガス殺に関する本を見ていれば、だいたい同じ名前が載っていることに気づく。

ルドルフ・ホェッス(アウシュビッツ所長)、ペリー・ブロード(SS隊員)、フィリップ・ミューラー(ユダヤ人特務 班)、ヘンリク・タウバー(SS医師)、スラマ・ドラゴン(囚人)、ニーシュリ(SS隊員)、C・S・ベンデル(ユダヤ人医師)、クルト・ゲルシュタイン (SS隊員)、ヴィエルニク、その他と言ったところだな」

ソフィアは文章を確認しないのでしょうか? うち、クルト・ゲルシュタインとヴィェルニクは、アウシュヴィッツなど見ていません(ゲルシュタインについてはこのソフィアのページのラストにそう書いてありますが)。ゲルシュタインもヴィェルニクもラインハルト作戦の方の絶滅収容所の証言者です。雑にも程があります。ヘンリク・タウバーは「囚人」だし、ニーシュリは「ユダヤ人医師」だし。

で、もちろんガス処刑の目撃者自体ももっと多くいます。いちいち探すのは面倒なので以下の証言集でも確認してみたらどうでしょうか? これでも一部に過ぎないので、ここに載ってない人も当然いますよ。

ラインハルト作戦収容所の三つの絶滅収容所についても、確か囚人の生存者が一人しかいないらしいベウジェツを除き、ソビボルとトレブリンカは暴動や脱走の生存者がそこそこいますし、もちろん加害者側の証言も多数あります。中には、トレブリンカに移送されたけれど、運よく別の関連収容所に移送されて生存できた人もいます。否定論者が悪用しなければこんなの知らずにいたでしょうけどね(笑)

クルト・ゲルシュタイン

ゲルシュタイン報告がニュルンベルク裁判で証拠採用されなかった、というのはソフィアの嘘です。例えば、ゲルシュタインの報告は、ニュルンベルク裁判資料のPS-1553として採用されています。

まだ読んでませんけど(近所の大型図書館にありません)、ソウル・フリートレンダーの『抵抗のアウトサイダー : クルト・ゲルシュタイン』って本にも「ゲルシュタインが遺した手記は、ニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判の医者裁判でも証拠として活用された。」とあるそうです。

で、いわゆるゲルシュタイン報告には、いくつか信用できない記述があり、昔からずっと否定派の攻撃を受けています。しかし、ゲルシュタインがベウジェツ収容所を訪問していたことは一緒に訪問したファンネンシュティールという別の人物が裏付けています。当然、ファンネンシュティールの証言もあります。例えば、

女性の髪が刈られた後、輸送隊全体が6つの部屋のある建物に連れて行かれた。私の知る限りでは、その時必要だったのは4つだけだった。人々が部屋に閉じ込められると、エンジンの排気ガスがこれらの部屋に送り込まれた。ゲルシュタインは、部屋の中が静かになるまで18分かかったと断定した。(…)静寂が訪れると、部屋の外側のドアが開けられ、死体が運び出され、金歯が調べられ、その後、穴に積み重ねられた。再び、この作業はユダヤ人によって行われた。医師は立ち会わなかった。死体について何か異常なことは気づかなかった。顔が青みがかった者もいた[78]。

https://note.com/ms2400/n/n8abea69f5967

のような。証言者はゲルシュタインだけではないのです。もちろん、ファンネンシュティールを加えた二人だけ、でもありません。

今回はこの辺で。「期待したい人だけ」次回も乞うご期待。

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