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ホロコースト否定派の代表サイトの一つ、「逆転ニュルンベルク裁判」をやっつけよう!――どこまで出来るかわからんけど。(7)

前回:


13-2 アウシュヴィッツ絶滅収容所内の生活写真

ソフィア自身が「証拠として使い物にならない」と言っているので、このページは無視していいと思います。でも、Googleレンズ等を使いつつ、わかるものもあるかと思いますので思いつくままに述べていきますね。

アウシュヴィッツに赤十字が訪問していた、という嘘

ここにある「Lets stop with the Auschwitz lies」のリンク先はwebアーカイブ先にはなっているものの、存在しません。しかし現在(2025.6現在)は以下にあります。ただし、最後の方は写真が表示されません。

Lets stop with the Auschwitz lies

ソフィアがネットサーフィンで見つけたサイトというのはここです。「Let's」を「Lets」と書くアホが作ったページです。元々は、以前にも何度か紹介したことのある、Holocaust Deprogramming Course(ホロコースト脱洗脳講座)っていう、誰が作ったのかもわからないネット否定派の情報源の一つになっていたサイトから作られた簡易版のようです。脱洗脳講座は現在、スウェーデンのネオナチサイトであるRadio Isramで見ることができます。この脱洗脳講座はあちこちにある(あった)ようで、どこが大元なのかもわかりません。

画像検索では上の画像の本来の出典は見つけられませんでした。

で、アウシュヴィッツに赤十字がいたという古典的なデマは今でもネットで見ることは珍しくはないのですが、アウシュヴィッツに本格的に赤十字の援助が入ったのは、ソ連がアウシュヴィッツを開放して以後のことです。

主要収容所の敷地内には、レンガ造りの兵舎と水道設備が整備されていた。ソビエト軍とポーランド赤十字はここに野戦病院を設置し、残っていた4,500人の捕虜の治療と回復に努めた。身体的なケアは困難だったが、多くの捕虜は経験した出来事で精神的にも深く傷ついていた。看護師が入浴を促すと、彼らは「入浴」という言葉がガス室を連想させるため、隠れてしまった。他の囚人たちは、食事のたびに追加の食料が配給されることを信じず、パンをマットレスの下に隠していた。[14] これらの困難にもかかわらず、1945年6月までに大多数の囚人が退所し、残ったのは主にユダヤ人を含む300人の囚人で、彼らはまだ退所するほど回復していなかった。退所した者たちは新たな課題に直面した:故郷を探すことだった。

The Liberation of Auschwitzより
アウシュヴィッツ I 収容所旧ブロック 21 にあった強制収容所元収容者の病院。
オシフィエンチムにあるアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館のアーカイブより

(註:上のサイトから取った写真の下につけられていたコメントですが、これはソ連による解放後の写真であることを忘れないでください。ちなみにこの写真は、Holocaust Deprogramming Courseではナチスドイツ時代のアウシュヴィッツの写真として悪用されています)

アウシュヴィッツに赤十字が入れたとか、いたとかいうデマは、以下で粉砕されています。

しかし否定派はしつこく、最近公開されたらしい文書を使ってさらにデマを飛ばしました。

そもそも(もう言い飽きたセリフw)、もしアウシュヴィッツに赤十字がいたり定期訪問があったりしたら、どうしてソ連の開放時の様子は以下のような様子だったのでしょうね。

https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn1001373より

アウシュヴィッツにいたり訪問していたという赤十字職員は、きっと親衛隊員と一緒に飲んだくれていただけに違いありません、いたとすれば(笑)

カール・クラウベルグ医師が何をやっていたのかも知らないの?

アウシュヴィッツにも病院があり医師もいたって話は、もちろん誰も否定していない話で、知らないってこと自体が単に無知なだけなのですが、その無知な人たちがいきなり否定派になるからこういうデタラメにすぐ騙されてしまうのです。

さて、左端の写真から。これは見つけました。以下にありますね。

というわけで、この写真はこのサイトの説明を信じる限り(普通信じると思いますが)、ヴェステルボルク収容所の写真です。ヴェステルボルク収容所はアンネ・フランクもアウシュヴィッツ収容所に送られる前に一旦経由した通過収容所としてもよく知られています。ヴェステルボルク収容所は比較的、環境の良い収容所だったことも知られています。

真ん中の女性が三人写った写真は見つけられませんでした。どうでも良いですね。

右端は、カール・クラウベルクCarl Clauberg)医師の写真としてよく使われる写真なので検索する必要はありません。クラウベルクは、メンゲレほどではないものの、アウシュヴィッツでも非常に悪名の高い医師の一人です。彼は、アウシュヴィッツでは産科・婦人科病棟のトップでしたが、やっていたのは人体実験のうちの不妊実験でした。ヒムラーからの指令で、ユダヤ人女性に不妊治療を施し、ユダヤ人の子孫を残さないためです。「そんな内容のどこに証拠があるんだ?」と疑問をお持ちなら、もちろん、私はそんな証拠は調べてないと答えます。疑問をお持ちならどうぞご自身でお調べください。私が独自に得た知識として知っているのは、アリーナ・ブリューダの戦後の証言くらいですしね。

追記:カール・クラウベルクについても、メディカル・レビュー・アウシュヴィッツ(https://www.mp.pl/auschwitz/journal/english/309915,records-of-carl-claubergs-criminal-experiments)に詳しく解説されています。また、同サイトにはポーランドのクラクフの医師会支部が実施したアウシュヴィッツ収容所の医療的な側面に関する調査報告書も掲載されています。

https://www.mp.pl/auschwitz/journal/polish/171126,volume-1976 より一部を抜粋
右側にある書簡はヒムラーからクラウベルクの研究に関する書簡で、内容を抜粋すると
「親愛なる同志ポッペンディーク殿!1944年3月8日付の貴殿の書簡において、クラウベルク教授による不妊治療の成功報告について言及されましたことを受け、私は貴殿が知る限り、不妊治療に成功したすべての事例を記録していただくようお願いします。これにより、この問題領域に関する一定の概観を得ることが可能となるためです。ご自身で、この件に該当するすべての関係部署や機関に連絡を取り、必要な情報を収集していただきますようお願い申し上げます。その後、四半期または半期ごとに、当方の状況についてご報告いただきますようお願い申し上げます。」
と記述されています。念のため述べておくと、ここにある「不妊治療」とは不妊を治療することではなく、不妊化するための医療行為のことです。上記文献のクラウベルクに関する記述内容はアリーナ・ブリューダの証言に正確に一致しているようです。

アウシュヴィッツ・オーケストラ

私自身は、この印象操作的デマを知る以前に、『ファニア歌いなさい』っていう映画をネットフリックスかどこかの配信で見ていたので、その時にアウシュヴィッツ・オーケストラの存在を初めて知りました。知っていたから騙されなかったというよりは、こんなものまで否定に使うの?と、その無知さのレベルにちょっとだけがっかりしたものです。アウシュヴィッツ・オーケストラについては、本もそこそこありますので詳しくはそちらを参照すると良いと思います。

さて写真一枚目。これはよく使われる写真なので、今回はあえて検索しましたが、知っていました。例えば、以下とか。

もちろん、一枚目はアウシュヴィッツの写真で間違い無いと思います。それだけの話です。

二枚目、と言うか2段目の左は、確かにアウシュヴィッツにあった劇場棟のようですけれど、アウシュヴィッツ第一収容所の敷地外にあり囚人は許可がない限り近づけなかった、など色々と、何回か紹介しているTwitter否定論の反論記事の中に書いてあります。

真ん中はわかりませんでしたが、左端は以下のページが引っかかってきました。

テレージエンシュタットのようですね。「生きる意志:ヴィクトル・ウルマンのテレージン音楽評論」とタイトルがありますから。で、書かれてあるテキストをGoogleレンズに読み取ってもらうと、ちらっとだけ記憶にあった名前が一つだけあったので調べてみました。

ハンス・ホーファー(Hans Hofer、本名ハヌシュ・シュルホフ、1907年4月12日 - 1973年4月26日)は、チェコ・オーストリア出身のキャバレー芸人、コメディアン、俳優。

ハンス・ホーファーは、プラハの有名な俳優の息子である。1924年にウィーンで契約を獲得しましたが、オーストリアが第三帝国に併合された後、プラハに戻りました。1941年まで故郷で「ユダヤ人キャバレー」で働いていた。1942年7月末、夫妻はテレージエンシュタット強制収容所に送られ、そこで自身のキャバレー「ホーファー・カバレット」を設立した。同年秋、収容所で撮影されたイレーナ・ドダロヴァの短編映画『テレージエンシュタット 1942』に出演した。彼は、ナチスの宣伝映画「テレージエンシュタット」でクルト・ゲロンの助監督を務めた。1944年9月末、ハンス・ホーファーは2週間、アウシュヴィッツ強制収容所に移送され、その後ダッハウ強制収容所に移送された[1]。1945年4月の収容所解放後、プラハのさまざまな劇場で働き、1960年にはロストック人民劇場(Volkstheater Rostock)のメンバーとなった。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Hans_Hofer

というわけで、テレージエンシュタットのもので間違いないようです。テレージエンシュタットがどのようなゲットー・収容所だったかはご自身でお調べください。

3段目の写真もGoogleレンズでは出てきませんでした、残念。しかし、写真のキャプションはそこでは、

A camp cinema - where every week different, mainly cultural and non-political films were shown
意訳:キャンプ映画館では毎週違った内容の文化的、非政治的なフィルムが見れた。

とありますが、元ネタとして使われた脱洗脳講座の方では同写真のキャプションは、

The existence of orchestras, not only in Auschwitz but in all other camps, is confirmed by the Enzyklopaedie des Holocaust, p. 979.
オーケストラの存在は、アウシュヴィッツだけでなく、他のすべての収容所でも、『ホロコースト百科事典』979ページで確認されている。

となっており、軽く改竄されています。ただし、脱洗脳講座のその写真ではない、それより少し下にその文章はあります。でも、写真についていた元キャプションを別のものに変えるのは罪は軽いとはいえ改ざんではあります。

なお、収容所のオーケストラについて知りたい方は、以下で簡単に説明されているようです。

アウシュヴィッツ・オーケストラについては、以下の本に詳しいのではないでしょうか?

外国語文献ならもっとあると思います。

図書館と宗教施設

図書館についても、Twitter否定論の反論記事に解説がありますのでそちらを参照してください。それにしても、図書館の写真の方の右側は、元ネタがネット上にあるのにGoogleレンズは見つけてくれませんでした。

しかし、図書館として説明されている左側の建物は、ソフィアが勝手に改竄しています。それはソフィアが使った元ネタではこうなっています。

書かれている説明は以下のとおりです。

Block 24
The camp brothel, just inside the main gate was a building used during the war as a brothel for the inmates. It was not a secret that the camp had a brothel; it was mentioned in books and its existence was confirmed by the Auschwitz Museum officials.
It was established in the summer of 1943 on Himmler's order, was located in block 24 and was used to reward privileged prisoners.

ブロック 24
メインゲートのすぐ内側にある収容所の売春宿は、戦争中に収容者の売春宿として使用されていた建物だった。収容所に売春宿があったことは秘密ではなく、書籍にも記載されており、アウシュヴィッツ博物館の職員によってその存在も確認されている。
1943年の夏にヒムラーの命令により設立され、ブロック 24 に位置し、特権的な囚人への報酬として使用されていた。

元ネタをさらに改竄するソフィアなのでした……。しれっと「図書館の外観(左)」とまで勝手に捏造してあります。しかし、どういうわけだか、アウシュヴィッツの基幹収容所にあった図書館(て言うか図書室)は、同じブロック24にあったそうで。でも、ソフィアの元ネタには「books from Forty -five thousand」つまりは、「4万5千冊」と書いてあるのであって、ソフィアはそれを「4000~5000冊」としています。英語もろくに読めないようです。ただし、実際には「1500点にも満たないもの」だったそうですから、ソフィアも元ネタもどっちも間違いです。

宗教施設の方は、ちょっと調べた程度ではわかりませんでした。これについては今の所敗北を認めます。わからないし知らないものはどうしようもありません。ただー、ユダヤ教の施設って、シナゴーグしか思いつかないんですけど、シナゴーグは常設でなければ成り立たないと思うんですけどね。まぁよく知らないことなので、とりあえずは保留にしておきます。

アウシュヴィッツ博物館にある犠牲者数が書かれた記念石碑

なぜか、ジョン・ボールのサイトの写真になっていますけど、これについては以下にあります。

しかし、この「400万人→150万人」は否定派はずっと言ってます。「最初は400万人だったのに、今は150万人とは一体どうなってるんだ?」みたいな。どうなってるんだ?って……より詳細な調査の結果、最初の400万人は間違っていて、150万人くらいが適正(元になったピーパー博士の研究では110万人ですが、最大で150万人とも書かれています)じゃないかってことなんですけど、そんな説明は通用しないようです。

否定派は要するに、400万人はソ連がでっち上げた数字であり、つまりアウシュヴィッツでのユダヤ人大量虐殺は最初から嘘だったんでしょ? と言いたいのです。でも、例えばヒルバーグは1961年には100万人だと既に推計値を出していたし、それよりも前に(何年だったか忘れましたが)ジェラルド・ライトリンガーは100万人以下としていました。ヘスだって自身の推計は113万〜150万人でした。だから、現在が150万人って、だいたいそれらと合ってるので概ねそれくらいだと見て問題ないはずなのですが、そんな説明は否定派には無視されます。

ソ連があまりにも適当すぎたのは、その400万人を報告した008-USSRっていう報告書を読めば明らかなのに、「あまりにも適当すぎた」という評価さえ否定派には受け入れてもらえません。何が何でも完全な捏造でないと困るのでしょうね、きっと。

アウシュヴィッツのクーポン券(と収容所内通貨)

これも画像検索ではよくわかりませんでした。色々と出てくるのは出てくるのですが、似てはいるけれど別の紙幣ばかりで。

そこで、生成AIに聞いてみたら、以下のとおりでした。

Gemini
ChatGPT

オラニエンブルクかアウシュヴィッツかどっちやねん!!!っていう(笑)
しかし以下の画像をよく見ると、どうやらオラニエンブルクのようです。Geminiさんの勝ちですね。

というわけで、アウシュヴィッツの話にオラニエンブルクの収容所内通貨を持ってくる時点で捏造(クーポン券ですらない)なのですが、収容所内通貨(ソフィアのページではクーポンの話より後で出てくるのですが、ここでは話を一括します。同じ話ですしね)自体は実際に存在していたようです。これもほとんど知識のない話なので、例えば以下の記事から紹介しましょう(一部抜粋のみ)。

Auschwitz and the Role of Money in Nazi Concentration Camps(アウシュヴィッツとナチス強制収容所におけるお金の役割)

アウシュヴィッツは、ナチス最大の強制収容所兼絶滅収容所として最も悪名高い施設であり、独自の「Lagergeld」と呼ばれる通貨が存在した。この通貨は主にカポや技能労働者などの特定の囚人グループに発行され、収容所の限られた売店システムで使用された。しかし、大多数の囚人、特にユダヤ人囚人にとって、現実の通貨であろうとそうでなかろうと、お金は全く無意味だった。到着時にすべての所持品が没収され、生存は金銭的な資源ではなく、労働、運、そして忍耐力に依存していた
アウシュヴィッツの「カナダ」倉庫は、収容所の非公式経済において重要な役割を果たした。追放された人々の所持品を仕分けるこの倉庫は、そこで働く囚人たちの密輸品の供給源となった。密輸品は食料や必需品と交換され、絶望的で危険な地下ネットワークを形成した。

このような説明は他でもみられる割と一般的なもので、ここでも、修正主義者たちは、ナチスの強制収容所の囚人があたかも全てユダヤ人だけであったかのように前提し、実際はそうではなかったことを無視しているわけです。

アウシュヴィッツでは囚人が苦情を申し立てることができた?

これも「この部屋」とされた写真をGoogleレンズでは見つけることができませんでした。但し、ここじゃないかな?と思われる写真は見つけてきてくれました。

<きちたび>アウシュヴィッツに行って来た③ 地下監獄とクレマトリウムより

写真につけられたキャプションには「第11ブロックは収容所内で隔離されていた。入り口には当直の親衛隊員の勤務室がある。」とあり、これが正しいとすると、これまた捏造ですね。話が本当なのかどうかなのについては、そもそも一切出典のない話なので、実際のところどーでも良いです(笑)

アウシュヴィッツには女性親衛隊員もいた!……からなんだ?

イルマ・グレーゼやらマリア・マンドルなどの話をちゃんと書いたらどうなんでしょうか……。

で、写真の人物は残念ながら、アウシュヴィッツ収容所の親衛隊員、ではありません。この人物はヒルデガルド・ノイマン(Hildegard Neumann)という人物で、ラーフェンスブリュック収容所とテレージエンシュタット収容所 or ゲットーに配属されていたそうです。

ヒルデガルト・ノイマン(1919年5月4日生まれ)は、第二次世界大戦の最終年に、いくつかのナチスの強制収容所、通過収容所、拘置所で最高監督官を務めた。彼女はチェコスロバキアのドイツ・ガベルで生まれた。[1]

収容所での仕事
ノイマンは 1944 年 10 月にラーフェンスブリュック強制収容所に送られ、まもなく Oberaufseherin(最高看守)[2] に就任した。その行いが評価され、1944 年 11 月、ナチスは彼女をチェコスロバキアのテレージエンシュタット強制収容所およびゲットーに、女性看守長として派遣した。ノイマンは残酷な女性看守として知られていた。

彼女は10人から30人の女性警察官と2万人を超える女性ユダヤ人囚人を監督した。ネウマンはまた、収容所からアウシュヴィッツとベルゲン・ベルゼン収容所へ4万人を超える女性と子供を強制移送する作業にも協力し、そのほとんどが殺害されたり、他の原因で死亡した。テレージエンシュタットの女性監視員の任務は、「労働コマンド」で働く女性囚人、他の収容所への移送中、およびゲットー内の女性囚人を監視することだった。その多くは残酷で虐待的であり、特に「囚人の恐怖」の異名を持つカエシリア・ロジコと「獣」の異名を持つヒルデガルト・メンデは悪名高かった。[要出典]

起訴からの逃亡
ノイマンは1945年5月に収容所から脱走し、その後行方不明になった。テレーズィエンシュタットから10万人以上のユダヤ人が強制送還され、殺害されたり収容所で死亡したりしたにもかかわらず、彼女は戦争犯罪で起訴されることはなかった。収容所内で5万5,000人が死亡した。[3]

彼女は2010年11月5日に死亡した可能性があるとされている。[4][5]

https://en.wikipedia.org/wiki/Hildegard_Neumann

出来るだけ優しそうな顔の女性親衛隊員・収容所看守の写真を選んだように思われますが、内容は全然優しそうではありません。

しかし、女性だからって何なんでしょうね? どーも、女性蔑視的な感じがするんですけど。

アウシュヴィッツの新生児

この件は既に解説済みです。但し、キャプションでソフィアは勝手に「結婚」を混ぜており、これでは、アウシュヴィッツで結婚したカップルが3000組以上もいて(実際にはたった1組の結婚しか確認されていない)出産までしていたと誤読してしまい、さらに悪質だと言えるでしょう。また、この写真も出所不明です。

「アウシュヴィッツは世界最高水準の合成ゴムの工場だった」から何?

世界最高水準だったかどうかは知りませんが、アウシュヴィッツ第三収容所だったモノヴィッツ収容所はI.G.ファーベン工場に併設されていました。それが何なのでしょう?

ところで、この写真が元々あった脱洗脳講座のページでは、そのキャプションに興味深いことが書いてあります。

アウシュヴィッツ収容所複合施設は、現在のポーランド中南部にある地域に1940年に設立された。当初は、イギリスやアメリカがドイツ人、イタリア人、日本人市民やパルチザンを収容するための収容所を建設したのと同じように、ポーランドの戦争捕虜や政治犯を収容するために建設されたが、すぐにドイツの戦争遂行を支援するための労働収容所となり、39の施設から構成されていた。イギリス諜報機関の解読文書によると、収容者の平均構成比はユダヤ人が39%、ポーランド人が65%、ロシア人がわずか3%だった。アウシュヴィッツIは最初の収容所であり、全体施設の行政センターとして機能した。アウシュヴィッツII(ビルケナウ)の建設は、主要収容所の過密を緩和するため、1941年10月に開始された。モノヴィッツ(アウシュヴィッツIII)は、石炭からガソリンを生産する大規模な工業施設だった。さらに、戦争経済を支える数十の小さな衛星収容所が設置されていた。

私自身はそこまでは知りませんが、石炭採掘場がアウシュヴィッツに程近いところにあったと言うのはBBCの『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』で知りました。またいずれもっと詳しい話を調べたいとは思いますが、ともあれこれが正しいとするならば、「遺体の焼却にガソリンを使えたわけがない!!!」とする否定派の難癖は、困ったことになりそうですね。ナチスドイツ全体で戦時中、特に中期から終戦までの間は、燃料の確保に苦慮していたのはもちろん史実ですが、アウシュヴィッツがそうだったのなら、局所的にはそんなに困ってはいなかったことにもなりそうです。

アウシュヴィッツ囚人の医療記録があるから何なの?

アウシュヴィッツには囚人用の病棟もあり、そこで「回復可能とみなされたら」そのための治療を受けることも可能でした。回復不能と看做されたらもちろん注射やガス室送りで殺されました。こうした定説の常識話をすると、否定派は「どんな証拠があるんだ!」「嘘つくな!」と猛反発をするのですが、もちろん否定派は、囚人たちが満遍なく満足のいく治療を受けられたことを示す証拠を出すことはありません。こちらは、いくらでも定説の根拠を示すことができます。例えば既に紹介しているメディカル・レビュー・アウシュヴィッツから……。

一見したところ、アウシュビッツという陰鬱な納骨堂で保健サービスが組織され、囚人病院と外来診療所が設立されたという事実は、まったく意外なことのように思われる。 結局のところ、収容所は大量殺戮の道具として設置されたのではなかったのか。

しかし、RSHAが強制収容所で保健サービスを組織する動機の背後に何があったかを理解すれば、この問題は明らかになる。 以下は、彼らの政策の主な目的の一部である:

アウシュヴィッツが設置されるとほとんどすぐに、大量殺人、恐怖、囚人の非人間的な生活環境のニュースが自由世界に漏れ始めた。

このような状況を考慮して、SS当局は、囚人から採用された有名な医療関係者がスタッフにいる2000床の囚人病院と、多数の専門外来診療所を、最高の対宣伝手段として利用した。 後に収容所内に設置された売春宿と同じように、この病院は世論を欺くためのものであった。収容所内でこのような施設が運営されていることを知った者は、囚人が飢餓に苛まれ、恐怖に苛まれ、ましてや絶滅させられているなどとは信じないに違いない。

プロパガンダの動機とは別に、SSには、いわゆる「保健サービス」を組織したもう一つの、さらに重要な理由があった。 しかし、その主な任務は、囚人の大量絶滅を促進することであった。 病気になった囚人や飢餓で衰弱した囚人は、そこでフェノールを注射されるか、ガス室に送られた。 その間、病院の患者たちは、あらゆる種類の疑似医学実験のためのモルモットとして奉仕することになった
最後に、アウシュヴィッツ病院は、伝染病に苦しむ収容者を収容所内の他の場所から隔離し、収容所周辺のブナ・ヴェルケ2や炭鉱などのドイツの工業工場で雇用されているSSスタッフや民間奴隷労働者に伝染病が蔓延するのを防ぐことになっていた。

https://www.mp.pl/auschwitz/journal/english/271698,the-health-service-in-auschwitz-main-camp

ネットだけでも、簡単にこうした情報を得ることができるのです。もちろんこの記事には、修正主義者の論文がそうであるように、脚注でさらなる出典を確かめることもできます。

しかしさらに、私は上のソロモン・ラダスキーの話を、そのサイトにある記事を探し当てて翻訳までしてあります。なるほどしかし、加藤継志はソフィアのサイトからソロモン・ラダスキーの記事を引っ張った可能性が高いですね。『ホロコースト論争』の動画主のことですが、この動画主も出典の扱いが極めて杜撰で反論には苦労したものです。ほんとの出典を突き止めるところから始めなければならないので。

ラダスキーの証言内容には、ガス処刑などの話もちゃんと出てくるのに、一切それを無視するのですから、全くもって悪質です。

看護師みたいな人が移送される人たちにパンを配ってたから何なの?

もうかなりめんどくさくなってきたので、だから何なんだ? で済ませようかと思いましたが、一応、この写真からGoogleレンズでもう少し解像度の高い写真を見つけてそれを経由、つまりそこからさらにGoogleレンズで以下のWikipediaの写真データのページを見つけ、その中からこれが使われているWikipediaの記事をやっと見つけました。めんどくさそーでしょ(笑)

簡単に説明すると、この写真は、ワルシャワ蜂起で自宅から追放されたワルシャワおよび周辺地域の民間人が集められたナチスの中継収容所である、プルシュクフにあるドゥラグ121収容所(Dulag 121 camp in Pruszków)から、その難民たちがどこかへ列車で移送される際の写真です。それ以外はわからず、「アウシュヴィッツに移送される」とは書かれていません。

しかし、ワルシャワ蜂起時のポーランド人難民はこのドゥラグ121収容所を通過収容所として、約65万人(諸説あり)のポーランド人が各所に移送されました。うち1万3000人がアウシュビッツに移送されたそうです。しかし、その写真に写っている人たちがどこに移送された時のものかまでは調べることができませんでした。

より詳細な話は、アウシュヴィッツ博物館の以下のページを参照してください。

Deportations of Poles from the uprising Warsaw to Auschwitz(ワルシャワ蜂起からアウシュヴィッツへのポーランド人の強制送還)

従って、ソフィアのページにある写真の下につけられたキャプションは特に誤りではありません、以下の一行目を除いては。

ワルシャワからアウシュヴィッツに移送される囚人にパンを配る女性看護兵。

アウシュヴィッツへの移送かどうかもわからないし、パンかどうかもわからないし、それに一番気になるのは「女性看護兵」です。看護兵って、今は衛生兵と呼ばれることが一般的です。衛生兵って、一般的なイメージとしては、例えばこんな感じです。

Wikipedia「衛生兵」より

『プライベート・ライアン』だとウェイドを思い出す人もいるんじゃないでしょうか? ウェイドが死ぬシーンはボロ泣きしたなぁ……はどうでも良いとして、白衣を着た女性「衛生兵」が通過収容所にいて、移送されるポーランド人にパンか何かを配ってた、っていうのはあり得なさそうに思えませんか? 私には白衣を着た女性は赤十字の看護師のように思えます。ドゥラグ121収容所ではポーランドの赤十字が協力してたのです。例えば、ドゥラグ121収容所のWikipedia記事には以下のような写真もあります。

制服が異なってはいますが、赤十字の看護師の可能性の方が大きいとは思います。もちろん、断定はできませんが。ただー、なぜかソフィアのページにあるその写真だけ、出典がありません。「女性看護兵」っていうのはソフィアの捏造のような気がするんですけどねぇ、実際に他で捏造してるし。

あと、念のため言っておきますが、ワルシャワ蜂起ワルシャワ・ゲットー蜂起は違います。ワルシャワ蜂起はユダヤ人は含まれません。従って、写真に写っている貨車に乗った人々はユダヤ人ではありません。

というわけで写真のページは終わりです。んとに、だから何なん?っていうしかないですね。ネットに跋扈するホロコースト否定派の大半は、このレベルなのです。

13-3 SS検事モルゲン博士の事件簿 ~カール・コッホ事件~

このページは(1)で既にやったので飛ばします。

14:アウシュヴィッツの死亡者数

アウシュヴィッツには開放時にまだ囚人がいて飢えてなかった?

これもまぁ、前章への指摘同様、写真の方の話にしましょう。留意しておかなければならないのは、これらのアウシュヴィッツの開放時の写真とされるものは、正確にはそうでない場合があります。というのは、うち子供がたくさん写っている写真は、ソ連による開放日である1945年1月27日のその日に撮影されたものではないからです。この件は以下で解説しています。

否定派はとにかく、否定のための議論しかしないので、「アウシュヴィッツでは子供は労働不適格ですぐに殺されたというのが定説のはずだ。なのになぜ開放時の映像に子供が写っているんだ?」と言うのです。最初のころ、私にはそうした主張が、「こいつら何を言ってるんだ?」と理解できませんでした。そうした疑問を呈するような人たちに特徴的なのは、自分自身がおかしなことを言っているとは露程にも考えないのです。

一応説明すると、確かにアウシュヴィッツでは子供は労働不適格として、囚人登録はされず、そのままガス室で殺されました、基本的には。このことは、14歳程度が基準年齢だったはずなのに、入所時点では11歳に過ぎなかった囚人であるルイジ・フェリ自身が述べています。彼ははっきり「少年は全員、ビルケナウに到着するとすぐにガス室に送られるからです。」と証言しています。じゃぁお前は何やねん?と言いたくなる否定派もいるかもしれませんが、理由ははっきりはしませんが、偶然、なぜか彼だけはガス室行きにならず(一緒に列車にいた他の子供はガス室行きになっているらしい)、その後も、なぜか偶然にも生き延びているだけとしか言いようがないことがわかります。囚人医師のオットー・ウォルケンに囲われたことは大きかったでしょう。

ともかく、様々な理由で、殺されなかった子供達もいた、というだけです。こういうのを一般世間では「例外」と呼びます。つまり、否定派の疑問への回答は単に「例外だったから」で済むのです。誰も「例外がなかった」だなんて言ってないのです。ただし、ルイジ・フェリの証言のように、色んな媒体で選別の説明がなされるときに「子供はみんな殺された」のように説明されることもあったかもしれません。しかしそれは、説明の些細な誤りに過ぎないのです。そんなこと、日常でもよくあることじゃないですか。説明書に書いてないだとか、聞いてないだとか、それらの文句と似ていると思います。

さて話が明々後日の方向に飛んでますので下に戻すと、アウシュヴィッツの開放時の子供の様子として撮影された写真(動画もあります)が、実は開放数日後に撮影されたものだという事実は、マイケル・ボーンスタイン氏が自著で明かしたことですが、それら子供達は一旦保護されて、ある程度十分な栄養を与えられていたために、さらに子供であるが故に割と素早く回復していたので痩せているようには見えなかった、のだと思われます。上のブログ記事で説明した通り、撮影当日はかなり寒かったため、たくさんの衣服を重ね着していたことも影響しています。

しかし、そうとは言い難い映像もあるのです。例えば以下などは真ん中の子供が痩せている、どころか周辺には餓死しているとしか思えない子供まで2〜3人写っています。

https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn1001373

あるいは以下の診察時のように。

https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn1001373

動画自体を見ていると、逆にぶくぶく太っている大人の囚人までいて、食えた人はたらふく食ってたこともわかります。つまり、収容所内では立場が違うと状況も全然違ったことがはっきりわかるのです。アウシュヴィッツではその大半の囚人が開放前までに移送されてしまったので、残されていた囚人は7000名強程度しかおらず、それ故、疫病・餓死による死体も数百体程度しかなかったとはいえ、その数を無視すれば状況はダッハウ等の開放時とそれほどは変わらなかったこともわかります。

https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn1001373

ソフィアは、写真は証拠にならないとか言いつつも、たった三枚程度の写真で「囚人は飢えていない」だとか「アウシュビッツではダハウのようなユダヤ人の大量死はなかった」などと言うのですから、呆れると言うか何と言うか……。

アウシュヴィッツの死亡者は登録囚人だけ?

これはまぁ、もう知ってる人はいらっしゃると思うのですが、元はアウシュヴィッツに残されていた内の記録史料の一つで、いわゆる「Auschwitz Death Book(アウシュヴィッツ 死の本)」と呼ばれる史料から得られたデータです。ソ連が大量に鹵獲して持ち帰り、アウシュヴィッツ・アーカイブとして保管していたもので、ソ連書記長だったゴルバチョフのグラスノスチ政策の一環の中で公開された資料になります。発見後はアウシュビッツ博物館に譲渡されました。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館サイトより
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館サイトより

このデータベースは、アウシュヴィッツ強制収容所の囚人の一部が保存された死亡記録簿(Sterbebücher)を使用しています。政治部門(収容所ゲシュタポ)の46巻の記録には、1941年7月29日から1943年12月31日までの期間に収容所に登録され、死亡した約69,000人の囚人の死亡が記録されています。彼らの名前はデータベースに入力されています。

記録の制限

データベースをご利用の際には、死亡証明書は前段落で述べた期間中に死亡した登録収容者のみを対象としている点にご注意ください。被害者の圧倒的多数は、主にユダヤ人で、収容所到着直後にガス室で殺害され、収容所記録に記録されず、ドイツの文書にも死亡が記載されていない者たちです。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館サイトより

というわけなのですが、否定派は当然、強調表示した部分を無視します。フランチシェク・ピーパーなどの研究者が、アウシュヴィッツへの移送者数まで調査推計して出しているのに、その数字と否定派の主張する犠牲者数は全く合わないことも無視です。

赤十字がアウシュヴィッツの死亡者数を公表していた?

非公開だという根拠はないようです。反修正主義者のジョン・ジマーマンによると、

発見されたものの中には、「アウシュビッツの死の本」があった。登録された囚人の死亡証明書だけが載っている本である。到着時に殺害された非登録の囚人は、死亡証明書が発行されなかった。それゆえ、死の本は不完全なものである。死の本には1941年8月から1943年12月までに死亡した68,864人の登録捕虜の証明書が含まれている。1944年や1941年8月以前の期間の本はない。それらは行方不明か、破棄されたものである。また、1941年8月から1943年12月までの本も多数紛失している。

https://note.com/ms2400/n/nf9c27b1a837a

とあります。

さらに、赤十字はアウシュヴィッツの死亡者数など知りません。赤十字がこうした否定派のデマに対してはっきり「強制収容所の犠牲者数統計など出していない」と声明を出していることは以下にあります。

「死の本」ではガス室で殺された人はいない?

ソフィアが言っている一次資料とは上で紹介した「死の本」のことですが、この記録は死亡原因が改竄されていることがわかっています。

例えば以下のように改竄されています。

従って、死亡記録からは囚人の本当の死因は不明としか言いようがなく、これを一次資料としても、そこにガス室で殺されたことが書いてないからと言って、ガス室で殺された人がいないことの証明にはなりません。


ビルケナウは働けない囚人のための収容所だった――という嘘

こういう、プロ修正主義者の嘘はそれを暴くのはなかなか大変です。根拠となっている文書史料をただ字面通りに読めば良いのではなく、他の関係文書まで探し当てて、ちゃんと読み解く必要があるからです。

この件についての詳細な反論は以下にあります。

ここにあるように、しっかり文脈を読み取らないと、なかなかわかりにくい話でもあります。しかし、ここには説明されていませんが、これらの否定派の議論の前提になっている話として、否定派は到着時にすぐに殺された労働不適格者の虐殺、すなわちアウシュヴィッツ(ビルケナウ)の絶滅機能を完全に無視しています。実際には、非登録のユダヤ人の方が犠牲者数が圧倒的に多いにも関わらず。

そして、プラットホームでの選別を潜り抜けて収容所内の囚人として登録された人たちがいたのは、それらの人たちを労働力として使いたいからです。つまり、労働力の問題として、必要な労働力に満たないのでは親衛隊は困るから、ビルケナウには病棟バラックがあったのです。回復できる人は回復させることにした、ということです。

もし、マーク・ウェーバーの主張のように、ビルケナウは働けないユダヤ人の保護施設だったとするのであれば、なぜわざわざユダヤ人たちをアウシュヴィッツまで強制移送したのでしょうか? そんなことする必要がどこにあるのでしょうか? 衛生状況の良くないアウシュヴィッツに連れてきて、絶滅させる気もないのに、チフスに感染させて治療するだけ? それではわけがわかりません

要するに、無理やりにナチス擁護理論を組み立てるために、メチャクチャな理屈になっているのです。なお、アーノ・マイヤーの名前も出てきますが、マイヤーはガス室を否定はしてないし、歴史学者としては著名かもしれないけれど、ホロコーストには詳しくありません。アウシュヴィッツなど言うまでもなく無知なだけです。ナチスドイツの時代について詳しくもないのに、「源泉徴収はヒトラーが考案した」と述べて、田野大輔氏に見つかってその誤りを晒された元東京都知事で政治学者の舛添要一氏みたいなものです。……だいぶ違うか(笑)

舛添も上述の通り2019年の著書とインタビューで源泉徴収をヒトラーの考案によるものと断定し、この制度の利便性と効率性を強調している。

https://gendai.media/articles/-/124074?page=5

ビルケナウの焼却棟はチフスが蔓延したから必要になった?

もちろん、こうした否定派の理屈には、その根拠となる文書など一つもありません。証言すらないのです。しばしば否定派に対して言われることに、肯定派にはめったやたらに証拠の確実性にはうるさいのに、否定派自身はその責任から免除されているのです。出て来るのは屁の突っ張りにもならない屁理屈ばかり。

ビルケナウ収容所は元々は、ソ連の捕虜を収容するために準備された収容所でした。独ソ戦の開始とともに、膨大な赤軍捕虜が生ずることは当然予想されたからです。したがって、当初、ビルケナウに建設が計画された火葬場は、赤軍捕虜のためのものだったのです。しかし、その後、ユダヤ人絶滅が始まると状況が変化し、ビルケナウはユダヤ人が多数を占める収容所になっていくのです。

ともかく、チフスが蔓延したのは1942年の8月頃とされており、火葬場の建設はそれよりも前から計画されていたのですから、チフス患者が増えることを予想してのものではないことは確かです。最初はただ単純に、ビルケナウ収容所は基幹収容所の何倍もの面積がありましたから、その収容力に応じて火葬場を計画していったのだと考えられます。

しかし、火葬場の総合火葬能力を日あたり、4756名と見積もっていたことは、チフス説では説明できません

何故なら、仮にビルケナウのみを考えるとして、第一火葬場を除くと4416人になりますが、ビルケナウの囚人数を最大を取って10万人と推定すると、一ヶ月もかからずにビルケナウの囚人全員が死ぬことを予想していたことになってしまうからです。しかも、火葬場の稼働期間を概ね500日と仮定し、諸々の事情で火葬場の停止期間もあったと考えて日あたり平均3000体程度で計算しても、それでも150万体もの処理量です。チフスのみでそんな膨大な死者数を想定していたのでしょうか? そんなのだったら、収容所としての存在価値が無意味だと思うのですけれど。ただチフスに感染させて死んでもらうだけの収容所? 意味がわかりません。

だから、修正主義者たちはこの親衛隊の想定していた火葬能力を否定して、この文書を捏造にしようとするのですが、それについてはまた後で出て来ると思いますのでその時に。

その写真はアウシュヴィッツのものではありません。

この写真についての解説は以下にありますので、興味のある方はご自身で参照してください。これらの写真は、結構頻繁に誤って使用されているようで特に「バビ・ヤール」のものと誤って使用されることが多いようです。アウシュヴィッツ博物館に展示されているのかどうかも知りませんが、流石に博物館では誤って使用されてはいないと思います。

もちろん、ソフィアが言うような「人道的」なものですらありません。

ユルゲン・グラーフの証言を赤十字が絶滅がなかったとしていた証拠として持ち出すのは「何かのギャグか」?

赤十字代表のモーリス・ロッセルがアウシュヴィッツ収容所を訪問はしたが、司令官室を訪れた程度で、明らかに収容所内には入っておらず、ビルケナウには行ってもいないことは、すでに紹介したリンク中に示してあります。ここで今一度示せば、例えば以下です。

従って、絶滅が行われていなかったアウシュヴィッツ第一収容所の司令官室か事務所を訪れた程度ですし、ビルケナウには行ってもいないのですから、たとえ報告に「私たちの代表は、民間人囚人を絶滅するための施設の痕跡は発見できなかったと語りました」とあったとしても、行ってもいない絶滅の現場であるビルケナウのことを何一つわかるわけがないのです、

すでに示している通り、グラーフは嘘つきの修正主義者(の一人)ですから、グラーフの言うことなど何一つ信用できない、と言っても言い過ぎではないでしょう。

なお、これについてはすでに述べていますが、Nizkorは一言も「赤十字がガス殺の死体の検視結果を持っている」などとは言っていないことは再度、念の為述べておきます。ソフィアの捏造です。

15:大戦末期のユダヤ人の大量死について

この章はただ単に、嘘ばっかり書いてあるハーウッド本にほぼほぼ全面的に依拠した記述が挙げられているだけと言って良い章なので、私は特に何も言いません。……あかん、もう飽きてきてしまった(笑)

16:「シンドラーのリスト」「灰の記憶」「ライフ・イズ・ビューティフル」などのホロコースト映画に原作はあるのか?
ドイツ国防軍に所属した15万人のユダヤ人?

『シンドラーのリスト』が大嫌いな修正主義者たち

1993年、スティーブン・スピルバーグ監督による映画『シンドラーのリスト』が公開され全世界的に話題となり、その年のアカデミー賞7部門で受賞しました。この映画のあまりの評判に、修正主義者たちはよほど気に食わなかったのでしょう、以前に紹介したエセ航空写真専門家のジョン・ボールによるあまりに馬鹿げた批判、あるいは上のドイツの修正主義者ウド・ヴァレンディのような陰謀論を匂わせるくだらない批判等、修正主義者による多数の批判があったようです。スピルバーグがユダヤ人であることも反ユダヤ主義者である修正主義者達にとっては批判の動機にもなったと思われます。

実は、修正主義者による批判ほどには知られてはいないと思いますが、定説側の歴史家達にも『シンドラーのリスト』はそれほどは評価は高くなかったようです。例えば――

他のやり方が、「シンドラーのリスト」であるが、 この映画はホロコーストに関するこれまでの映画製作の中で、最も権威を持つような作り方になっている。映画はオスカー・シンドラーの善良さに関してはあいまいなままにしてあるが、彼と彼の庇護下にあったユダヤ人たちのことはよく知られている。映画の最後に近い場面で、シンドラーがユダヤ人を助けることがほとんどできなかったことに涙を流すという、センチメンタルに流れた所が失敗であったが、他では彼の動機は問題にしないという意識が貫かれている。シンドラーは、尊大でサディスティクなブワシュフ収容所司令官、アモン・ゲートと同様に、不可解な人物として綿密に観察されている。 彼らは歴史的に忠実に描かれているというよりも、 むしろ映画向けに異色されている複雑な存在に描かれているが、分析可能な心理学的な深さがあるわけではない

「シンドラーのリスト」はハッピーエンドで終わるという、ある意味で完全なる異型の作品である。 ホロコーストにおいては、ハッピーエンドで終わる話はたったひとつしかないだろうし、それがこの話なのである。そういう話を選んだということは、世界にある真実を伝えたいという情熱にもよるが、それと同じく天才的なショーマンシップによるものである。その情熱、その驚異的な教育的機能によって、 これこそスティーヴン・スピルバーグ映画であるといえよう。そして、「ヴァンゼー会議」のように、 ホロコーストを劇化する可能性がここで見いだされたのである。

「シンドラーのリスト」は次のような型にはまったシーンを含んでいる。クラクフ・ゲットーの略奪、プワシュフでの選別と便所への逃げ込み、人間を標的にしたゲートの射撃練習、シンドラーのキス、救出リストのタイプ、本当にシャワーだったことがわかるアウシュヴィッツでの女性シャワー室。最後にイスラエルにあるオスカー・シンドラーの実際の高所で、シンドラーに救われ、今は年老いた指導的立場にあったユダヤ人と、それを演じた俳優たちがカラーで撮影されている。これらは巧妙に構成された、 演劇的効果を持った場面であるが、しかしそれらは、 ふしぎなほど真実でもあった。 

ウォルター・ラカー編、『ホロコースト大辞典』、p.114

ある意味、定説側の歴史家達も、その意味では特に修正主義者と変わらないとも言えると思います。

しかし、ヴァレンディのように、単に映画の中で描かなかっただけのことなのに「プラショフ収容所長がSSから訴追された事実を隠している」などと、しょーもない陰謀論を匂わせたり、ジョン・ボールのように映画の制作事情を無視してあらぬ非難をしたり、あるいはソフィアの「現存する資料はSS将校がユダヤ人を虐待することは犯罪であることを示しており、「シンドラーのリスト」に出てくるSSは間違いなく死刑」などと、現存する資料も明らかに見てない(ソフィアが修正主義者のセオドア・オキーフの出鱈目な引用を信用しただけであることはすでに示しています)のに嘘をつくようなことは、如何なものでしょうか。修正主義者ってば、事実や真実を明らかにするお仕事なのではなかったのでしょうか?

なお、ソフィアは以下のように、それ自体が全くのデタラメな主張までしています。ここまで主張した人は、プロの修正主義者の中にいたんでしょうか?私は知りません。

「シンドラーのリスト」のモデルになった歴史的事実は存在しないことは、あのインチキ臭いプロパガンダ映画を見た時点でうすうす気づいてましたが、調べてみたら案の定でした。

「シンドラーのリスト」のモデルになった歴史的事実は存在し」ます。オスカー・シンドラーの話は何もトマス・キニーリーの本だけではなく、例えば日本語Wikipediaですら参考文献として、キニーリーの原作以外に以下の三つが挙げられています。

  • エリノア・ブレッチャー 著、幾野宏 訳『私はシンドラーのリストに載った』(新潮文庫、1996年) ISBN 4-10-249601-7

  • ミーテク・ペンパー 著、下村由一 訳『救出への道 シンドラーのリスト・真実の歴史』(大月書店、2007年) ISBN 978-4-272-53041-0

  • David Crowe 著、『Oskar Schindler The Untold Account of His Life, Wartime Activites, and the True Story Behind the List』(Basic Books、2007年)ISBN 978-0465002535

英語版になると、どれがなんの文献だかよくわかりませんけど、多数に及ぶことくらいはわかるでしょう。

さらに、最も古いシンドラーのリスト(オスカー・シンドラー)に関する情報は以下の書籍に記載があるそうです。

画像クリックで、Amazon(アメリカ)の商品ページに飛びます。

トーマス・ケネリーが『シンドラーのリスト』を執筆する30年以上前、ジャーナリストのハーバート・シュタインハウスはオスカール・シンドラーをインタビューしました。その1949年のインタビューとシュタインハウスのその後の雑誌記事、およびシュタインハウスとの広範なインタビューが、このエッセイ、記事、インタビューのコレクションの冒頭を飾っています。
<後略>

上記Amazonの紹介内容から

映画のタイトルでもあるシンドラーのリスト、すなわち救出されたユダヤ人の名簿リストも残されています。例えば、こんな記事があります。

これが偽物なら、記事によるとオークション開始価格が300万ドルだそうですので、偽物なら巨額詐欺ですね。一応、同記事では信憑性に疑問があると主張した人もいたようですが、記事には「「そのリストの信憑性は鉄壁だ」とジメッツは述べた。「彼女の主張は裁判所で一笑に付された」」ともあります。同リストは、イスラエルのヤド・ヴァシェムや米国ホロコースト記念博物館などにも保管されているそうです。

19ページ中の1ページ目。オスカー・シンドラーがホロコーストから救うための計画の一環として、彼と他の者たちによって要請され、割り当てられたユダヤ人労働者の名簿。1945年4月18日に作成されたタイプ原稿。(Wikimedia commons

これでも嘘だと言えるのは、ソフィアレベルの修正主義者だけだと思います。

……と、自己制限の一記事二万字を超えてしまっているので、ここで一旦中断しておきます。この章への反論を中止するか続けるかは、続きを読んでから考えます。

次:


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