Twitterのホロコースト否定論への反論(7):アウシュビッツのプール、病院など
目次
1.アウシュビッツのプレートの修正
2.切り離されたクレマⅠの煙突?
3.窓付きガス室のドアがペラペラ?
4.ロイヒターレポート
5.イギリス政府による嘘の疑惑
6.最初のホロコーストの流言
7.アウシュビッツのプール、病院など
8.Arbeit macht frei.
9.ワールド・アルマナックのデマ
10.赤十字統計のデマ
11.赤十字が死の収容所を視察?
12.チャーチル、アイゼンハワー、ドゴールの回想録には書かれていないガス室?
13.エリー・ヴィーゼルはガス室について言及しなかったのか?
14.エリー・ヴィーゼルは偽者?
15.より多くのヴィーゼルもの
16.アウシュビッツの暗号解読
17.生存者はガス室を見たり聞いたりしなかったのか?
18.アンネ・フランクの日記
19.ラッシニエはアウシュビッツのガス室を否定した。それともティース・クリストファーセンか?
20.ラーソンのデマ
21.偽物、信用できない、間違った目撃者
22.ガス室の壁に引っ掻き傷?
23.ダッハウのガス室、ブロシャートの手紙
24.生存者のリーバーマンとアウシュビッツのオーブン
25.ラシャウト文書
26.ホロコーストの偽写真?
27.科学がホロコーストを論破?
28.ブリタニカでガス室についての言及はないのか?
29.リストジェフスキー先生?サイモン・ウィーゼンタールのノルマ?
30.アウシュビッツでは小さな子供や人は仕事に不向き?
31.ユダヤ人はホロコーストについて嘘をつくのか?
32.確定した死亡者数?
33.ヒルバーグと有名な証人は、ツィンデル裁判で嘘つき、詐欺師であることを示したのか?
34.シンドラーのリストはフィクションの話?
35.ブルーノ・バウムはアウシュビッツで偽のプロパガンダが作られたことを認めたのか?
36.変わり続ける収容所の死の犠牲者数?
37.ソ連だけが見つけた死の収容所?
38.リックのホロコースト否定
39. 6桁の刺青でも被害者は600万人?
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7.アウシュビッツのプール、病院など
否定派の主張:

ツイート:アウシュビッツ プール、サッカー、郵便局、歯医者、病院、カンティーナ、劇場、売春宿、図書館...死の収容所?

ツイート:ホロコースト生存者が真実を語る:オーケストラ、サッカー、演劇、映画、病院、図書館...アウシュビッツで!

ツイート:アウシュビッツの生存者が語る:オーケストラ、サッカー、演劇、水筒、ハガキ、歯医者、病院、プール...

ツイート:ここには何もない!?
飛び込み台と階段とスタートブロックのあるプールを見たら、あなたはホロコースト否定派です。

ツイート:アウシュビッツのプール 真実は?
-消防団の貯水池?
-ユダヤ人を殺すための「溺れるプール」?
水泳と水球?

ツイート:アウシュビッツ生存者:「プールがあった。8月になってしまいました。飛び跳ねて泳いでプールを渡った...」

ツイート:結婚証明書は#アウシュヴィッツから
簡潔な説明:アウシュヴィッツは多数の下部収容所から構成され、そこでは捕虜収容所、労働収容所、拘禁収容所、絶滅収容所など多様な機能を果たしていた。アウシュヴィッツおよびその下部収容所には非ユダヤ人の被収容者も数万人おり、彼らは原則としてユダヤ人とは異なる待遇を受けていた。そしてもちろん、何千人ものSS隊員が余暇に娯楽を必要としていた。したがって、一般人が絶滅収容所とは結びつけにくい施設が収容所内に存在していたこととホロコーストとの間には、何ら矛盾はないのである。
さらに、ナチの絶滅計画は「全てのユダヤ人を即座に殺す」というものでは決してなかった。それは「最終的に全てのユダヤ人を殺す」という計画であった。病気や高齢のために恒常的に労働不能と見なされたユダヤ人(実際には多数を占めた)は、原則としてガス殺された。しかしその多く、すなわち労働可能と判断された者たちは、特に労働力不足の時期には戦時経済にとって価値ある資源と見なされた。人は誰でもいずれ労働不能になるのであり、強制重労働の下ではその時期はさらに早く訪れる。したがって、全てのユダヤ人はいずれ死ぬ運命にあった。しかしそれまでの間、ナチが「労働可能」とみなした大部分のユダヤ人は収容所に留め置かれ、回復が近いと判断されれば病院を利用することすら可能であったのである。
更なるコメント:ここでもまた論理の飛躍が大きく、議論全体が欺瞞的である。アウシュヴィッツは数キロ離れて並ぶ3つの大きな下部収容所(アウシュヴィッツI、アウシュヴィッツII(アウシュヴィッツ=ビルケナウ)、アウシュビッツIII(モノヴィッツ=ブナ))と約50の小規模な下部収容所から成っている。以下は三つの最大の下部収容所の範囲を示す地図である:

アウシュヴィッツのいずれかの下部収容所で出来事が起これば、それは「アウシュヴィッツで」起こったと言えるが、実際の絶滅収容所はビルケナウである。短期間だけ、アウシュヴィッツI(本部収容所)にも小規模で応急的なガス室(現在も観光客に公開されている)があり、そこで殺害されたのはおそらく1万人を超えない。しかし、本来の絶滅収容所はビルケナウである。
ところが否認論者の論理はこうである。「アウシュヴィッツ」のどこか――たとえ多数の下部収容所のどれでもよく、殺害プロセスと無関係で遠く離れた場所でも――で無害な活動が行われていたなら、それが絶滅が主張される場所で起きたという事実を反証する、と。そんな論理は成り立つだろうか。もちろん成立しない。
したがって、まず問うべき第一の問題は、出来事や施設がどこに位置していたのかである。
さらに、アウシュヴィッツは明らかにユダヤ人専用の収容所ではなく、ユダヤ人以外の収容者も多数いた。そしてユダヤ人は他の集団とは異なる扱いを受けていた。さらに、数千人のSS隊員には余暇の施設や催しも必要であった。
したがって、第二に問うべきは、これらの施設や催しが誰のためのものであったのかである。
最後に、ユダヤ人の大量絶滅がビルケナウで始まったのは1942年である。
したがって第三に問うべきは、施設がいつ存在したのか/建設されたのか、あるいは出来事がいつ行われたのかである。
アウシュヴィッツの「プール」について例を挙げよう。まず第一に、それは1944年に本部収容所であるアウシュヴィッツIに建設されたものであり、この時期そこはユダヤ人に対する絶滅の場ではなかった。第二に、それが実際にプールとして使用されたとき、それがユダヤ人のためであり、非ユダヤ人の囚人――例えばポーランド人やドイツ人――のためではなかったと、いったい誰が言ったのか。ユダヤ人の中にも利用できた者がいた可能性は否定しない(それはホロコーストと何ら矛盾しない)が、否認論者は、a)ユダヤ人が利用できた、b)それが絶滅計画と矛盾すると主張する。しかし矛盾を主張するのであれば、まずその前提となる両方を証明すべきではないのか。
(注:この「プール」の実際の主たる機能は消火用水槽であり、飛び込み台は副次的な用途としてプールとして使えるように付けられたものである。建設時期についてはルドルフ・カウアー、第1回フランクフルト・アウシュビッツ裁判、1964年7月6日、S. 11723, 11770 を参照。消火用水槽としての使用については、デジャコ・アートル裁判における1972年2月9日のオイゲニウス・のザルの証言、および1972年2月11日のエルヴィン・オルゾフカの証言を参照。また、否認論者はソ連やポーランドがアウシュヴィッツのあらゆるものを捏造したと主張するが、それならプールが現存しているのはなぜなのか。詳細はここを参照。)
アウシュヴィッツ本部収容所には、非ユダヤ人の囚人専用の娼館があり、もちろん女性も非ユダヤ人のみであった(「人種混淆」禁止)。
また、次の写真が示すように、スポーツ大会もあった。

フェンシング競技については、旗の鉤十字と右側の剣士がつけているバッジ、観客の中にSSとSAの幹部、制服を着た党員、警官がいることから、これが「帝国軍人」のための集まりであり、「健全な」要素だけのもので、他のものはないことがわかる。
実際、IGアウシュビッツ/IGファルベンが、絶滅現場からかなり離れたモノヴィッツ(アウシュビッツⅢ)で運営していたスポーツ大会である。例えば、1944年7月23日には、「建設現場のドイツ人スタッフ全員」を招待して陸上競技会を開催した。もちろん、嘘つきの否定派は、スポーツ大会が囚人のためのものだったと信じさせたいのだろう。(モノヴィッツで作られた映像を、あたかもアウシュヴィッツ全体を代表しているかのように見せようとする否定派の試みは、これだけではない。プレサックは、この写真がモノヴィッツから、特にIGファルベン裁判でのデュルフェルドの弁護側提示物133から来たものだとは知らなかったが、そのような試みについてコメントしている(日本語訳)。IGファルベン裁判記録、p.11619-11634の1948年4月16日の個々の写真に対するデュルフェルドのコメントを参照。)
あるミームの図書館の写真は全くのデマで、実際は1918年に作られたドイツのプフォルツハイム捕虜収容所の図書館の写真である。

しかし、アウシュビッツの複合施設内には、確かにいくつかの図書館があった。一つは、アウシュビッツI収容所本館で、SS部隊のケア、訓練、福祉を担当するAbteilung VIが運営していた。公式の収容所命令では「SS-Bücherei」(SS図書館)と呼ばれていたので、収容所職員だけが利用できたことは明らかだ。
もう一つは、基幹収容所の囚人図書館で、(売春宿と並んで)24番ブロックに収容されていた。その内容は、ナチスのドイツ語の宣伝用文献や新聞、一部の小説を中心に1500点にも満たないものだった。図書館は、収容者の中でも特権的な収容所の機能者、つまり、ドイツ語を読むことができる者、つまり、ほとんどがドイツ人か一部のポーランド人によって主に利用されていた(T・シーラ、『国家社会主義者の強制収容所における書籍と図書館:囚人たちの反ファシスト的抵抗における印刷物』、1992、pp. 86-7)。基幹収容所のほとんどの囚人は、そのような図書館の存在を知らず、言葉も知らず、読書する時間もなかっただけである(T. イワシュコ、「アウシュヴィッツにおける「外部との接触」、1940-1945」、『収容所の歴史に残る節操のない問題』, vol. II, 1995, p. 320)。
絶滅収容所-アウシュヴィッツⅡ・ビルケナウ-では、本を読むことは単純に禁止されていたが(シーラ、前掲書、p. 87)、一つの例外として、テレージエンシュタット家族収容所の小さな図書館は許容されていた。なお、このファミリーキャンプは、プロパガンダのために特権的に作られた「ポチョムキン村」のようなもので、おそらく赤十字の訪問に備えて準備されたのだろう(実際には行われなかった(日本語訳))。そのユダヤ人収容者は定期的な選別を受けず、子供たちと一緒にいることが許され、彼らはガス処刑されることはなかった。
アウシュビッツⅢ・モノヴィッツには図書館はなかった(シーラ、前掲書)
フォーリソンは、生存者マルク・クライン(ストラスブールの医学部教授)がアウシュヴィッツで「多数の参考文献、古典的教科書、定期刊行物が見られる図書館」を記述したと主張している。フォーリソンが省略したのは、クラインが、自分が拘留中にしばらく研究者として働いていたライスコ(特権的なアウシュヴィッツ副収容所)の研究室に属する図書館について述べていたことである。
研究室には広大な庭園、実験用動物飼育場、実験用具があった。また、図書館には多くの参考書、古典教科書、定期刊行物があり、自由に利用することができた。
ナチスは自分たちに役立つ研究には資源を惜しまなかったので、やはり、この研究所の研究図書館は何も不思議ではない。フォーリソンは、それを一般的な収容所図書館として紹介することで、単に嘘をついたのである。温室の写真もライスコにあるもので、戦時中の重要なプロジェクトであるコクサギからゴムを生産する最適な方法を研究するために、植物育種の研究が行われた。
バビッツ副収容所には農場があり、そこでは、馬の手入れなどをしていたし、ハルマンゼー副収容所には、アヒル、鶏、七面鳥、アンゴラウサギがいる農場があった。ちょっと考えてみてほしい、何か矛盾しているのだろうか?
ミームの一つにあるいわゆる「旧劇場」建物は、収容所以前に、ポーランド軍の兵舎庭の一部として建てられた(S・スタインバッハ、『「サンプル都市」アウシュヴィッツ:東上シレジアのドイツ化政策とユダヤ人虐殺』、 2000年、p.179n124)、ドイツ軍に占領されると、SS部隊の娯楽の場(同著、p. 188)、倉庫として使われた(ここには、とりわけチクロンB缶が保管されていた、たとえば、ヨーゼフ・クレール、1962年7月6日、第一回フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判、1962、S. 4166の陳述などを参照)。この建物は収容所のフェンスのすぐ外側にあるため、収容者が容易に立ち入ることはできなかった。


否定派の嘘つきたち(justicial-inc.bizなど)は、一部の演劇やその他の文化活動の映像を、あたかもアウシュビッツから送られてきたかのように欺瞞的に紹介することがある。プロパガンダ映像がテレージエンシュタット(公式に指定された「プロパガンダ収容所」であり、強制収容所システムの代表では全くなく、その収容者のほとんどは最終的にやはり殺された)で作られたにもかかわらず、である。そして、通過収容所ヴェスターポークのプロパガンダ映像が挿入されていた(そこでは、「常任」特権囚の一部-たとえば「ユダヤ人評議会」メンバー-が「文化活動」を組織するよう奨励され、収容所SSの娯楽にもなっていたが、収容所が労働収容所に変更されてそうした活動がすべて停止された)。

もちろん、アウシュビッツで文化的な活動が行われなかったというわけではない。すでに説明したように、アウシュビッツは、身分や特権の異なる多数のグループから構成されていたので、一部の囚人が参加した活動は、囚人集団全体について何も教えてくれない(アウシュヴィッツでの文化活動については、Z. ジャゴダ、S. コジンスキー、J・マスロフスキー、「アウシュビッツ強制収容所での文化生活」、メディカルレビュー、1974年、39(1, pp. 19ff).)。
写真に写っているいわゆるアウシュビッツのサッカーチームは、実はそのようなものではなかった。そのメンバーは、アウシュビッツの収容者ではない。彼らは、KLアウシュビッツではなく、ラムスドルフの捕虜収容所VIII-Bが管理していたキャンプE715のイギリス人捕虜であった。繰り返すが、アウシュビッツの収容者ではないこれらの捕虜には、まったく異なるルールが適用された。
ビルケナウでサッカーの試合が行われたとき、栄養状態の良い(つまり、実際にはほとんどが何らかの特権を与えられている)囚人たちは、実際に参加することができた。やはり、親衛隊にとってはいい娯楽だったのだろう。基幹収容所やモノヴィッツのような非絶滅地区でサッカーの試合が容認されていたことは、さほど驚くことではない(アウシュビッツでのサッカーやその他のスポーツ活動については、H・ラングバイン、『アウシュビッツの人々』、2004、pp.130ff、Z・リン、S. クロジンスキー、『アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所におけるスポーツの病理』、メディカルレビュー、1974年、39(1)、p.46ffを参照)。
外れ値や例外があるにせよ、平均的な収容者の状況は、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判で、オットー・ウォルケン博士(収容所医師)が述べている(第一回フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判、1964年2月27日、S. 5111)。
裁判長:では、ちょっと質問させてください。このような食生活や健康状態の受刑者の中に、スポーツをする意欲がある人が一人でもいたと思いますか?
証人オットー・ウォルケン:はい、ブロック長であるカポスという囚人たちがいて、彼らは十分な栄養をもらっていました。
裁判長[中断]:いえ、今はそういう意味ではないんです。
証人オットー・ウォルケン:私たちにはサッカー場もありましたが。
裁判長:いや,あの,私は今,そうした意味で聞いているのではありません。
証人オットー・ウォルケン[中断]:ああ,囚人たちのことですか。いいえ,彼らは自分の足で立てればそれで喜んでいました。
アウシュビッツが存在した間、そこで行われた結婚式は一度だけで、否定派が何かの矛盾を指摘しても、その内容を正確に説明しようとはしないのである。それは、オーストリアの(非ユダヤ人の)レジスタンス闘士で共産主義者のルドルフ・フリーメルとマルガリータ・フェレールの結婚式だった(A. レーシック、「アウシュビッツの組織構造」(『アウシュビッツ 1940-1945』所収、 『収容所の歴史に残る節操のない問題』, vol. I, 1995, p. 133)。アウシュビッツの生存者ヘルマン・ラングバインは、『アウシュビッツの人々』2004年、p.289にこう書いている。
ウィーン人のルドルフ・フリーメルは、スペインで国際旅団の隊員として戦い、スペイン人女性と結婚した。共和国の法律に従って、市民結婚式が行われた。[…]ドイツ当局もフリーメルの結婚を無効とみなしていた。そのため、フリーメルの父とその妻は、ルディ・フリーメルがドイツの法律に従って妻と再婚できるよう懸命に努力し、その請願書はヒムラーの机の上に置かれた。ヒムラーの好判断で、父と妻と幼い息子はアウシュビッツへの渡航が許可され、ルディも髪を伸ばすことが許されることになった。1944年3月18日、彼は私服に着替えて、通常は死亡証明書しか発行しないアウシュビッツの登録所に行き、ドイツの法律に従って結婚が成立した。ヒムラーが自ら許可したことで、収容所管理者はフリーメルに異例の権利を与えた。悪党のギャラリーを埋めるような写真しか撮らない身元確認サービスは、本物の結婚写真を作り、収容所の売春宿の一室を一晩だけカップルのために用意した。

フリーメルは1944年12月30日、アウシュビッツで、囚人の脱走を組織したため、絞首刑で殺害された。
否定派は、主流の文献によく書かれているこの例外的な結婚を、欺瞞的に複数の「結婚」に転化し、そして、何か想像を絶する「論理」のねじれによって、それがアウシュビッツに関する何かを否定していることを示そうとするのである。

まだまだ話は続くが、しかし、否定派が喧伝する施設のいくつかが、ユダヤ人労働者の一部によって時々使われていたと仮定してみよう。一体どこに矛盾があるのだろうか?
結局のところ、永久に働けないユダヤ人は、原則として(ごく少数の例外(日本語訳)を除いて)到着と同時に絶滅させられ、残りの人々は働けなくなるまで収容所に住んで働き(その後「選別」されて殺される)、その間にこれらの施設の一部(病院など)を利用できたのである。ナチスは奴隷の労働生産性を高めることに反対ではなかったので、特に戦争が進んで多くの奴隷労働が必要になってくると、このようになった。繰り返しになるが、これらの施設や活動は、ホロコーストと矛盾するものは一つもない。そして、もちろん、これらのすべては、主要な資料によって言及されている。たとえば、ダヌータ・チェヒの『アウシュヴィッツ・クロニクル』(p.175)の中のオーケストラについてのこの言及のように。

実際、アウシュビッツ・オーケストラはあまりにも有名で、メンバーのファニア・フェネロンによるベストセラー回顧録をもとに、ヴァネッサ・レッドグレイブ主演の映画が作られた(ところで、この回顧録の重要な内容は学術的に論破されており、歴史家は生存者の証言を盲信するという否定派のいつものステレオタイプが真実ではないことを示している)。
このオーケストラの写真は、アウシュビッツ本収容所を訪れた人々が「Arbeit macht frei」の門をくぐって最初に目にする、文字通り有名な写真の一つである。

このような主張をする人は、無防備な人々をだまそうとしているのである。
追記:著者はまた、「偽の煙突」論も加えているが、これについてはここ(日本語訳)で論破している。
さらに読む:ホロコースト否定の最も間抜けなアイコン:アウシュビッツのプール。
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修正主義界の重鎮・事実上の指導者だった故・ロベール・フォーリソンの気づきがきっかけらしい「アウシュヴィッツのプール」は、やがて1980年代半ばに行われたツンデル裁判に出廷した被告側証人でもあるスウェーデン人の修正主義者であるディートリーブ・フェルデラーがその主張を拡大させた人物のようです。調べた範囲ではかなり悪質な反ユダヤ主義者のようですが、ともあれ、「アウシュヴィッツのプール」は未だにこれを修正主義者は捨てようとしない、ある種の否定論の象徴のように使っているようです。
例えば、上の記事中にあるように、「防火用の水槽」のように説明したところで、「飛び込み台があるのは変じゃないか! 遊泳プールが消火用にも使えるというだけの話だ! 死の収容所に遊泳プールがあるだなんて明らかにおかしい!」の一点張りの主張を返されるだけです。しかも、アウシュヴィッツ博物館を訪れる観光客にこのプールを案内しないことを痛く気に入らない様子で、「明らかに隠している! 知られるとまずいからだ!」とお怒りになられる人までいます。だったらプール(あるいは飛び込み台程度でも)ぐらいとっくに壊されてると思うのですが……。
極々論理的に考えて、修正主義者のおっしゃる通り、たとえプールでユダヤ人囚人が水泳を楽しんだり、サッカーに興じたり、音楽や劇を楽しんだりしていたとしても、何十万人ものユダヤ人はそれらを楽しむ機会すら与えられず、つまり囚人登録されずにその日のうちにガス室で殺されてしまっていたという史実には何も矛盾しないのです。
日本の歴史に関する修正主義者にも多いのですが、例えば南京事件では日本軍の南京入城後に撮影された平和な写真を見て「ほら!こんなに平和だったのだから南京大虐殺なんてあったわけがない!」と主張するのですね。

でも、仮にそれら写真は日本側のプロパガンダ写真ではなかったとしてさえも、その写真に写ってない場所・期間に「大虐殺」があっても、少なくとも論理的には何も矛盾しません。
ところが、そのような「矛盾」を主張する人たちが、以下のような写真を見せられると、途端に「そんな写真は何の証拠にもならない!」などと言い出すのです。

一方で、「これが虐殺なんかなかった証拠だ!」と主張し、もう一方では「そんなもの虐殺の証拠にならない!」と主張する修正主義者たちって、本当にどうかしてると思うのですけれど、修正主義者に論理を求めるのは無理だと諦めている今日この頃です(笑)
追記;
文中にある「ルドルフ・カウアー、第一回フランクフルト・アウシュビッツ裁判, 1964年7月6日, S. 11723, 11770」のプールに関する該当箇所の証言を以下に訳します。
▼翻訳開始▼
証人ルドルフ・カウアー:それは謎ですね、自分で探ってみたいと思いました。
裁判長:44年9月16日に逃げたのですか?
証人ルドルフ・カウアー:はい。
裁判長:では、政治部に入って半年ほど経っていないのですか?
証人ルドルフ・カウアー:それは44年5月から9月までのことです。
裁判長:その間、何をしていたのですか?
証人ルドルフ・カウアー:その時にプールを作ったんです。
裁判長:どこで?
証人ルドルフ・カウアー:収容所自体にです。
裁判長:なるほど。「44年5月から」44年9月までですね?
証人ルドルフ・カウアー:はい。
裁判長:じゃあ、なんで出て行ったのですか?
証人ルドルフ・カウアー:はい、それは私も知りません。私は、輸送列車が出発する5分前に道路から降ろされ、列に並べられました。
裁判長:ではまず、41年5月から44年5月までの活動を紹介しましょう。
(中略)
▲翻訳終了▲
