映画感想文『ルックバック』 Gペンとデジタル、四季と羽後亀田

(2026年9月11日公開)
自信家な小学4年生の藤野は、学年新聞に4コマ漫画を連載し、クラスメイトたちから絶賛されていた。
しかしある日、学年新聞に掲載された不登校の同級生・京本の漫画を目にし、その圧倒的な画力に打ちのめされる。それ以来、藤野は絵が上手くなりたい一心で漫画を描き続けるが、その差は埋まらず、一度は漫画を諦めてしまう。ところが卒業式の日、京本の家へ卒業証書を届けに行った藤野は、京本が自分の漫画のファンだったことを知る。
漫画へのひたむきな思いで結ばれたふたりは、一緒に漫画を描き始める。かけがえのない時間を積み重ねていく藤野と京本。しかし、そんなふたりの日常を大きく揺るがす出来事が訪れる。
※ごく個人的な感想です。ネタバレあったらごめんなさい。
いきなりマニアな「聖地」話から
本作の劇中、「羽後亀田駅」が出てくるんです。
あの「カメダは今も相変わらずでしょうね?」でおなじみの“聖地”。
野村芳太郎『砂の器』(1974年)で、丹波哲郎と森田健作が最初に降り立った駅です。
『砂の器』は当時としては珍しい「四季」を撮った映画です。
なにしろ、桜や雪の実景を撮影しようとしたら、その季節を待たなきゃいけませんからね。ほぼ一年がかり(『砂の器』は10ヶ月だったそうです)。
そして、この『ルックバック』も、「四季」を丁寧に描きます。
ただの偶然かもしれませんけど、妙な符号を感じたのです。
いや、むしろ是枝の目配せじゃないか?ま、勝手にそう思っておこう。
いずれにせよ、一年近くかけて、手間のかかった撮影をしている映画だと思います。
あと、藤野と京本が初めて出会うシーンのバックに神社が映っているんです。
これは、二人の出会いは神のお導きという暗喩だと、これまた勝手に思っています。
「羽後亀田駅」と「神社」は原作マンガには無いんですよ。
ということは、そこには監督の意図があると見るべきだと思うんです。
あと、母親の存在感も原作以上。

原作に忠実だが読後感が違う
先に言うべきでしたけど、原作未読で映画を観ました。
さらに言えば、マンガもアニメも藤本タツキ作品に触れたことはありません。アニメ版『ルックバック』(2024年)も観ていません。
この映画を観てすぐに原作マンガを購入。さっき読み終えたところです。
結論を言うと、原作マンガは面白かったです。
そして映画は、原作に忠実でした。
しかし、原作に忠実でも、読後感が違いました。
まず、観てる最中から思ってたんです。正直言って「長い」。
この内容で、1時間39分は、長い。
本来、短編小説か、ちょっとしたエッセイくらいの濃さです。
短い内容で、読後の余韻が長く続くような話。
実際、原作マンガも読み切り短編ですしね(読み切りとしては長いけど)。
アニメは58分だったそうですね。
それくらいが適切に感じます。
例えば、私が「いろいろ分かっている人」と評している中村義洋は、伊坂幸太郎の短編小説を68分で仕上げたことがあります(『ポテチ』(12年))。
マンガや小説と違って、映画等の動画は観る側の時間を拘束します。
(今時は早送りもできますけどね)
この「時間」、言い換えれば観客の「体感する時間」って、作品の一部だと私は思っています。
この話は、良質な小品という意味で「佳作」だと思うんです。
映画として面白くなかった、というと少し語弊があるんですが、この上映時間としたら内容的に物足りなかったというのが、正直な感想。
もしかすると、小学生時代の「雨の中を走るシーン」が、(私にとって)映画的高揚感のピークだったせいかもしれません。

たぶん原作はこういうことだったんじゃないかな
映画において、原作との比較は意味がないと私は思っているのですが(上述した「時間」等、媒体が異なればそれぞれの持つ意味が異なる)、話の流れ上、原作マンガに対する感想を書きます。
おそらく原作の執筆動機の一つに、京アニ事件があったと思います。
理不尽に命を奪われた者(クリエイター)の人生に想いをはせる意味で。
もし、あの犠牲者が知り合いだったら。
もし、こんな展開で回避できたら。
そこにタランティーノ的な、『イングロリアス・バスターズ』(2009年)や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)的な歴史改ざんや、『パルプ・フィクション』(1994年)的なパラレルワールドを交えながら、「それでも、失われた命は戻ってこない」という物語。
これが、事件描写に重きを置いて「怒り」を前面に出していたら、社会派な作品になっていたでしょう。その方が国際的な映画賞に向いていたかもしれません。
しかし原作は、事件よりも、犠牲者の「人生」に光を当てた。
「怒り」よりも「鎮魂」を描いた。
だから、余韻の残る「佳作」になった、と私は感じるのです。
でも、映画のテーマは違うように読める
是枝は、新聞の片隅に載った事件等から、その背景を膨らませて話を考えるのが得意な作家だと思います。
『誰も知らない』(2004年)など典型例。
そういった意味では、本来は向いてる話なんですよ。
でもこの映画からは、「鎮魂」よりも「クリエイターに対する冒涜」を訴えているように感じたのです。
「俺のアイディアを盗んだ!」みたいなことを簡単に言う者(あるいは実際に盗む者)に対し、「創作ってすげー大変なんだぜ」と言ってる映画に見えたのです。
この映画は、「描く」という「作業」を丁寧に描写します。
Gペンだよ。スクリーントーン貼ってるよ。原稿を干して乾かしてるよ。
ものすごく「アナログ」な作業を丁寧に描写しています。
(もちろんプロになってからはデジタルになりますが、その作業も丁寧に描いている)
実はこれ、原作マンガでは、あまり取り上げていません。

「ハッピーエンドなんだから、海の色はもっと明るくしようか」という台詞があります(これも原作にはありません)。
作品の作り手は、画面の色調(雰囲気)に至るまで気を配って創作しているという描写です。
そして実際、この映画は、終盤に画面の色調が暗くなるのです。
この(原作以上に描かれる)「創作の手間」「作品に真摯に向き合う姿勢」こそ、クリエイター是枝裕和の意図ではないかと感じています。
それは、この映画が、手間をかけて一年間丁寧に撮影したこととも重なります。
AIで何でも簡単に作れてしまう今こそ、是枝が訴えたかったことではないでしょうか。
それが、映画として面白く消化(昇華)できていたかどうかは、別の話ですけど。
もしかすると、『箱の中の羊』(26年)と表裏の関係かもしれません。
こうやって努力して創作した作品を、簡単に「ツマラナイ」とか言って切り捨てんじゃねーよ、ということです(<お前が言うな)。
余談
本当はね、最近の私のお気に入り出口夏希ちゃんとか、
私が蒔田彩珠を見初めたきっかけとか、
について語るつもりだったんですけどね、延々と。
予定外のことを真面目に語っちまったな。
二人とも、是枝がNetflixで撮ったドラマ『舞妓さんちのまかないさん』(23年)に出てたのね。
わっ!蒔田彩珠は是枝初の連ドラ『ゴーイング マイ ホーム』(2012年)の娘役だったんだ!
(2026.09.13 吉祥寺オデヲンにて鑑賞 ★★★☆☆)

