教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十一章 続・異端審問:第二回公判〜第六回公判
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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【この章のポイント】
- 第二回〜第六回公判の記録
- 「声」と「光」の正体
- 「しるし」と王冠の謎
- 聖職者の一部が裁判の不当性を主張
- 魔術・不道徳の疑い
11.1 第二回公判(1)右からくる声と光
最初の審理の後、議事録を書き起こそうとしていた時、教会の公証人と、被告の答弁を記録していた2〜3人の王室書記官との間に言い争いが生じた。
予想通り、二つの記録はいくつかの点で異なっていた。争点となっている部分について、ジャンヌをさらに尋問することが決まった。[623]
教会の公証人たちはまた、「傍聴人たちの絶え間ない妨害のせいで、ジャンヌの発言を正確に聞き取るのが非常に困難だ」と不満を述べた。
*
異端審問による裁判では、他の裁判手続きと同じく、尋問場所を定めていなかった。裁判長は、礼拝堂、聖堂参事会の会議室、あるいは牢獄や拷問室でさえ、被告人を尋問することができた。
ギヨーム・マンションによれば、初公判の時のような騒ぎを避けるために[624]、また、開廷時のような厳粛な儀式を行う必要がなくなったため、裁判官と評議員たちは城の広間の端にある小部屋、衣裳室に集まった。[625] 入口にはイングランド人の衛兵が2人配置された。
異端審問の手続き規則によれば、陪審員はすべての審議に出席する義務はなかった。[626]
今回(第二回公判)は当初のメンバーのうち26人と、新たに任命された6人の合計42人が出席した。(人数は原文ママ)
これらの高位聖職者の中には、信仰の副審問官であるジャン・ル・メートル修道士がいた。彼は謙虚な説教修道士だった。
聖ドミニコの時代のように、副審問官が「神の猟犬」だった時代は過ぎ去り、今や彼は「司教の飼い犬」に過ぎなかった。何か行動することも、行動を控えることもできない哀れな修道士だった。
これが、教皇至上主義に対抗するガリア主義を主張した結果である。
無口で臆病なジャン・ル・メートル修道士は、その集会における修道士全員の中で最後尾にいる最も取るに足らない小者だったが、彼はいつの日か自分が最高裁判長(大審問官)となり、上訴を受け付けなくなる日を待ち望んでいた。[627]
**
ジャンヌは、執行吏ジャン・マシューによって連れてこられた。
今回もまた、すべてを話すという誓いを立てるのを避けようとしたが、聖書に誓わざるを得なかった。[628]
ジャンヌは、神学博士のジャン・ボーペールの尋問を受けた。
パリ大学では聡明で指導力のある学者とみなされ、学長に二度も任命されていた。
彼は、ジャン・ジェルソン不在の間に学長職を任され、1419年にはピエール・コーション氏とともにトロワの町に派遣されて、国王シャルル六世への補佐と助言を与えた。3年後には、イングランド王妃とグロスター公のもとへ派遣されて、大学の特権について確認を得るための支援を求めた。
国王ヘンリー六世は、彼をルーアンの聖堂参事会員(canon)に任命したばかりだった。[629]
ジャン・ボーペールの最初の尋問は、「ジャンヌが父親の家を出た時の年齢」だった。
前日に現在の年齢を19歳くらいと述べていたにもかかわらず、ジャンヌは答えることができなかった。[630]
子ども時代の仕事について尋ねられると、ジャンヌは「家事で忙しく、牛を連れて畑に行くことはめったになかった」と答えた。さらにこう言った。
「糸紡ぎと裁縫に関しては、ルーアンのどの女性にも負けません」[631]
家庭的な分野でも、ジャンヌは熱意と騎士道精神を発揮した。
糸紡ぎや針仕事で、誰一人として知らない町中の女性全員に対抗心を燃やしたのだ。
告解(懺悔)と聖体拝領について尋ねられると、「教区司祭か、あるいは教区司祭がジャンヌの話を聞けない場合は他の司祭に告解する」と答えた。しかし、復活祭以外の祝日に聖体拝領を受けたかどうかについては答えることを拒否した。[632]
ジャン・ボーペールは、ジャンヌを油断させるために、ある話題から別の話題へと唐突に移行しながら、無作法に話を進めた。
彼は突然、ジャンヌの「声」について語り始めた。彼女はこう答えた。
「私が13歳の時、神から正しい生活を送るようにと告げる声が聞こえました。初めて聞いた時はひどく恐怖を感じました。この声は、夏の真昼に近い時間に、父の庭で聞こえました……」
彼女は、教会がある方、右側から声を聞いた。
光なしに声を聞くことはめったになかった。
光は、声が聞こえてくる方向から生じていた。[633]
ジャンヌが、自分の「声」が右側から聞こえると言った時、ジャン・ボーペールよりも博学で親切な博士なら、この証言を好意的に解釈しただろう。
なぜなら、旧約聖書『エゼキエル書』には天使が住居の右側にいたと記されており、また、新約聖書『マルコによる福音書』の最終章には、女性たちが右側に座っている天使を見たと記されている。同じく『ルカによる福音書』にも、天使が香を焚いている祭壇の右側で司祭ザカリアに現れたと明確に記されているのだ。
さらに、尊者ベーダは「彼は神の慈悲をもたらす者であることの『しるし』として、右側に現れた」と述べている。[634]
しかし、そのようなことは尋問官の脳裏に浮かばなかった。彼はジャンヌを困らせようとして、「もしその光が横に現れたのなら、あなたはどうやってその光を見ることができるのか?」と尋ねた。[635]
ジャンヌは何も答えられず、取り乱したように言った。
「もし私が森の中にいたら、こちらに向かってくる声を簡単に聞き取れるでしょう……。私には、それは本当に価値のある声に思えます。私は、その声が神から送られたものだと信じています。三回聞いた後、それが天使の声だと分かりました」
「その声は、あなたの魂の救済のためにどんな指示を与えたのか?」
「それは私に、善良に生き、教会に行くように教え、そしてフランスへ旅立つように言いました」[636]
それから声の命令でヴォークルールに向かい、ロベール・ド・ボードリクール卿に会いに行ったこと、初対面だったにもかかわらず彼だと分かったこと、ロレーヌ公に呼び出されて病気を治してほしいと言われたこと、そしてジャンヌがどうやってフランスに来たかを語った。[637]
その後、ジャンヌは、神がオルレアン公を愛していることをよく知っており、国王を除いて、生きている誰よりもオルレアン公について多くの啓示を受けてきたこと、女性の服を男性の服に着替えざるを得なかったこと、そしてジャンヌの《《評議会》》が適切な助言を与えてくれたことなどを語るに至った。[638]
⚠️ジャンヌが証言した「右側に見える光」について:下巻の巻末付録に臨床医が神経科・精神科の観点から見た『ジャンヌの診断書』が載ってる。20世紀初頭(100年前)の診断なので、現在の医療とは多少違うかもしれないが、こちらもかなり興味深い。
11.2 第二回公判(2)イングランド宛の手紙/忘れられた思想「王国は神のもの」
ジャンヌの前で、(オルレアンへ発つ前にブロワから送った)イングランド宛の手紙が読み上げられた。
ジャンヌはその通りの内容を口述したことを認めたが、3カ所について異議を唱えた。「体と体」と「戦争の指導者」は言っておらず、「乙女へ降伏せよ」ではなく「国王へ降伏せよ」と言ったのだと指摘した。
⚠️手紙全文は、上巻・第十一章『11.2 イングランド宛の手紙(1)ジャンヌの声明文』参照。
裁判官たちが手紙の文面を改ざんしていないことは、彼らの手に渡っていない他の文書と比較することで確認できる。これらの文書には、ジャンヌが異議を唱えた表現が含まれているのだから。[639]
ジャンヌは活動を始めた当初、「真のフランス王である我が主(神)が、神自身の代理人としてシャルル・ド・ヴァロワに王国の統治を委ねるよう自分に命じた」と信じていた。
この思想を内心にとどめずに口に出して言葉にしたことを、互いに面識のない多くの人々によって(ジャンヌがそう言っていたと)報告されており、彼女が実際にそう語ったことを疑う余地はない。
「王は王国を封土(アンコンマン、en commande)として保持する。フランス王は天の王(神)の代理人である」
これはジャンヌ自身の言葉であり、実際に王太子にもこう言った。
「あなたの王国を天の王に捧げなさい」[640]
しかし、ルーアンの審理では、これらの神秘的な思想はひとつも残っておらず、むしろジャンヌにはまったく理解できない思想だったと認めざるを得ない。
異端審問官との答弁すべてにおいて、ジャンヌは抽象的な推論どころか、どんなに単純な推測もまったくできないように見える。「百合の国(フランス)におけるイエス・キリストの世俗的支配」という難解な思想を、一体どのようにして思いついたのか理解に苦しむ。
ジャンヌの言葉や思考には、そのような深遠な思想を示唆するものは何もない。
したがって、この政治神学(初期のジャンヌが語っていた思想)は、教会と王国の苦難を取り除きたいと願う聖職者たちによって、ジャンヌが幼くて染まりやすい時期に教えられたと考えざるを得ない。だが、ジャンヌが覚えたのはうわべの言葉だけで、その精神を捉えられず、本当の意味を理解できなかった。
その後、兵士たちと共に過酷な生活を送る中で、彼らの単純な魂は、初期のジャンヌを教え導いた聖職者たちの洗練された思想よりも、ジャンヌ自身の本来の魂とよく調和した。そのため、ジャンヌは教え込まれた思想を表現する言葉遣い(言い回し)をすっかり忘れてしまった。
11.3 第二回公判(3)2種類の真実、現実か幻視か
シノンに来た理由について尋問されると、彼女はこう答えた。
「私は何の妨害もなく王のもとへ向かいました。サンカトリーヌ・ド・フィエルボワの町に着くと、まず、私の王がいるシャトー・シノンの町へ使者を送りました。正午頃に到着し、宿屋に泊まり、夕食後に城にいる王のもとへ行きました」
書記官の言葉を信じるならば、彼らはジャンヌの記憶力に驚嘆しきりだった。一週間前に言ったことを正確に覚えていることに彼らは驚いたという。[641]
しかしながら、ジャンヌの記憶力は時々、奇妙なほどあいまいで、私たちはオルレアンの私生児と同様に、彼女が王に謁見する前に宿屋で二日間待ったと考えるのが妥当だろう。[642]
シノン城での謁見に関して、ジャンヌは裁判官たちに「ボードリクール卿を認識したのと同じように、啓示によって国王を認識した」と語った。[643]
尋問者は彼女に尋ねた。
「声があなたの王を明らかにしたとき、何か光は見えたか?」[644]
この質問は、裁判官たちにとって極めて重大な事柄に関わっていた。なぜなら彼らは、ジャンヌがフランス王と共謀して、冒涜的な詐欺、あるいは魔術行為を犯したのではないかと疑っていたからだ。
実際、彼らは情報提供者から、「ジャンヌが王に『貴重な王冠』という印を与えたと自慢していた」ことを聞いていた。[645]
この件の真相は次の通りである。
伝説によれば、ある日、聖カタリナは天使の手から光り輝く王冠を受け取り、それをローマ皇帝の妃の頭に載せた。この王冠は永遠の祝福の象徴だった。[646]
聖カタリナの伝説を聞いて育ったジャンヌは、同じことが自分にも起こったと述べている。
フランスでジャンヌは、王冠に関するさまざまな驚くべき話を語った。そのうちの一つによれば、シノン城の大広間で貴族たちに囲まれながら、ジャンヌは天使の手から王冠を受け取り、それを王に与える場面をイメージしていた。[647]
これは霊的な意味では真実だ。ジャンヌはシャルル王を聖油塗りと戴冠式に連れて行ったのだから。
ジャンヌは2種類の真実の違いをすぐには理解できなかった。
⚠️2種類の真実の違いについて補足:言葉の通りに「現実で起きた」という意味の真実と、言っていることは比喩表現・例え話だが「ある意味、真実」。ジャンヌが語る言葉はこれらが入り混じっている。
それでも、この幻視の物質的な現実性を疑っていたのか、あるいは、それを霊的な意味でのみ真実だと考えていたのか。
いずれにせよ、ジャンヌは自発的に、聖カタリナと聖マルガリータに「このことを裁判官に話さない」と約束していた。[648]
「王の上に天使を見ましたか?」
ジャンヌは返答を拒否した。[649]
今回は、王冠についてはそれ以上何も言われなかった。
ジャン・ボーペールはジャンヌに、「頻繁にその声を聞くのか?」と尋ねた。
「声を聞かない日はありません。そして、それは私にとって大きく必要な支えです」[650]
ジャンヌは自分の声について語る際、常にそれを自分の避難所であり、安心であり、慰めであり、喜びであると形容した。
さて、すべての神学者たちは、「善良な霊(スピリット)が去るとき、魂は喜びと平安と慰めで満たされる」という点で一致しており、その証拠として、天使がザカリアとマリアに言った言葉「恐れることはない」を引用した。[651]
しかし、この理由は、イングランド派の聖職者たちに「イングランドに敵対する声が神のところから来ている」と納得させるには十分ではなかった。
そして、ジャンヌは付け加えた。
「私は彼らに、私の魂の救済以外の最終的な報酬を求めたことは一度もありません」[652]
この日の最後の尋問は、「祝祭日にパリを攻撃した」という死刑に値する罪状だった。
おそらくこのことに関連して、ときどき質問を投げかけていたフランシスコ会の修道士ジャック・ド・トゥレーヌが、「イングランド人が殺されている場所にいたことがあるか?」と尋ねたのだろう。
「神の名において、私がそんな場所にいたことがあったでしょうか?」
ジャンヌは激しく言い返した。
「なんて軽々しく言うの! なぜ彼らはフランスから立ち去り、自分の国に帰らなかったの?」
議場にいたイングランドの貴族は、この言葉を聞いて隣人に言った。
「誓って言うが、彼女は善良な女性だ。なぜイングランド人ではないのか?」[653]
11.4 第三回公判(1)声からの指示、自画自賛と失言
3回目の公開審問は、2日後の2月24日土曜日に予定された。[654]
ちょうど四旬節(レント)だ。ジャンヌは断食を非常に厳格に守った。[655]
⚠️四旬節(Lent):復活祭前の40日間のこと。四旬とは40日間のことだが、日曜日は数えないため合計46日間におよぶ。期間中、食事は1日1回のみ。魚を除く肉・卵・乳製品を食べてはいけない。
23日金曜日の朝、ジャンヌは「声」によって起こされた。
ベッドから起き上がると、両手を組んで座り、感謝を捧げた。
それからジャンヌは、裁判官たちに何と答えたらいいかを尋ね、主(神)の御心を聞いてくれるよう、「声」に懇願した。
最初、「声」はジャンヌに理解できない言葉を発した。特に困難な状況では、そのようなことが時々起こった。それから「声」はこんなことをと言った。
「大胆に答えなさい。神はあなたを助けてくださるでしょう」[656]
その日は晩祷(夕べの祈り)の時間に二度目、そしてアヴェ・マリアの鐘(夕方の鐘)が鳴る時に三度目の「声」を聞いた。
金曜から土曜にかけての夜、また「声」がやって来て、フランス国王の幸福のために多くの秘密を明かした。そのおかげでジャンヌは大きな慰めを得た。[657]
おそらく「声」は、ジャンヌが敵の手から救われること、その一方で裁判官たちが大きな危険にさらされていることを繰り返し保証したのだろう。
ジャンヌは指示をもらうために、自分の「声」に完全に依存していた。
裁判官たちに何を言えばいいか困ったときは神に祈った。敬虔に神に語りかけた。
「善良なる神よ、あなたの聖なる受難のために、もしあなたが私を愛しているなら、教会の人たちに何と答えるべきかを明らかにしてください。私の服装については、これを着るように命じられたことはよく知っています。ですが、脱ぐことについては何も知りません。どうか、このことを私に教えてください」
すると、すぐに「声」が聞こえてきた。[658]
*
衣装室で開かれた第三回公判には、陪席者62人が出席し、そのうち20人は新しい顔ぶれだった。[659]
ジャンヌは、尋ねられたことすべてに答えると聖書に誓うことを、前よりもさらに強く拒否した。
ボーヴェ司教は慈悲深く、「頑固な拒否は疑いを招く原因になる」と警告し、すべての罪状で有罪判決を受ける事態を避けるために宣誓するよう命じた。[660]
これ(聖書に宣誓)はまさしく異端審問における規則だった。
1310年、ベギン会修道女のひとりポレットは、パリの聖なる異端審問官ギヨーム修道士が要求する宣誓を拒否した。ポレットはただちに破門され、それ以上の尋問を受けることなく、長い手続きの後、パリの代官(Provost)に引き渡されて、生きたまま火刑に処された。火刑台での彼女の信心深さは、傍観者全員の涙を誘った。[661]
それでも司教は、ジャンヌに無条件の誓いを強要することができなかった。
ジャンヌは「裁判に関して知っていることはすべて真実を語る」と誓ったが、裁判に関係ないことについては沈黙を守る権利を留保した。
ジャンヌは、前日に聞いた「声」については自由に語ったが、国王に関わる啓示については語らなかった。
しかし、ジャン・ボーペールがそれらの情報を知りたがっている様子を見せると、ジャンヌは返答するまで二週間の猶予を求めた。それまでに自分は解放されると確信していたからだ。
その後すぐに、ジャンヌの「声」が国王の幸福について打ち明けた秘密を自慢し始めた。
「私は今すぐに彼に知ってほしいのです。たとえその結果、今からイースターまでワインを飲めなくなるとしても」[662]
彼女はそう言った。
「今からイースターまでワインを飲めなくなる!」
ジャンヌは、バラ色のワイン(ヴァン・グリ、Vin gris)の産地でよく使われる口癖を、なにげなく口にしたのだろうか? ドンレミの女性たちは、パン一切れにほんの一滴か二滴のワインを垂らして食事代わりにしていた。[663]
それともジャンヌは、仲間の兵士たちから手荒な一撃や痛烈な打撃を浴びせる手癖とともに、こういう口癖を身につけたのだろうか?
ああ! 復活祭までの5週間、イポクラス(香辛料入りのワイン)を飲んでいるとは、なんという偽善者だろう!
いや、ジャンヌはいつものように軽い気持ちで流行りのフレーズを使っただけで、明確な意味など見出していなかった。
ただ漠然とワインに親愛の情を示しただけなのか、もしかしたら、救出後にフランスの貴族たちがジャンヌを称えて乾杯するだろうという希望を思い浮かべたのかもしれない。
⚠️復活祭(Easter):イエス・キリストの復活を記念する祝祭日。春分後の最初の満月のあとの日曜日。
⚠️補足:11.4冒頭のとおり、復活祭前の四旬節が始まった。期間中、食事は1日1回のみ。魚を除く肉・卵・乳製品を食べてはいけない。もちろん飲酒もだめ。ジャンヌの証言は、一般のキリスト教徒でさえ禁欲・断食する期間中にワインを飲む習慣があることを示唆している。日常会話ならウィットに富む言い回しだろうが、不謹慎なことに変わりない。しかも、ジャンヌ自身の異端審問中に…うかつにも程がある。
11.5 第三回公判(2)神の恩寵を受けているか/マーリンの予言/女性の服
ジャン・ボーペールは、ジャンヌが「声」を聞いたときに何か見えるかどうかを尋ねた。
「すべてを話すことはできません。許可されていないのです。『声』は善良で価値あるものです……。この質問に答える義務はありません」
すぐに回答しなかった事柄について、ジャンヌは文書を寄越すよう求めた。[664]
この文書を何に使うつもりだったのだろうか?
ジャンヌは読み書きができず、弁護士の助言も得られなかった。
ロワズルールのような、彼女を欺いている偽りの友人にこの文書を見せたかったのか? それとも、聖人たちに捧げるつもりだったのか?
*
ボーペールは、ジャンヌの「声」に顔と目があるかどうかを尋ねた。
ジャンヌは答えることを拒否し、代わりに子供たちがよく口にする言葉を引用した。
「真実を語ったせいで絞首刑に処されることもある」[665]
ボーペールはさらに尋ねた。
「あなたは、自分が神の恩寵を受けているかどうか知っているか?」
これは極めて油断のならない質問だった。ジャンヌは自分が罪深いことを認めるか、あるいは許しがたいほど傲慢な印象を与えるか、というジレンマに陥った。
陪席者のひとり、隠者修道会のジャン・ルフェーヴルは「彼女に答える義務はない」と述べた。部屋中にざわめきが広がった。
しかし、ジャンヌは言った。
「もし私がそうでないなら、神が私をそこに導き入れてくださいますように。もしそうであるなら、神が私をそこに留めてくださいますように」[666]
陪席者たちはこの即答に仰天した(astonished)が、ジャンヌに対する態度は改善しなかった。彼らは、ジャンヌが王について話すときは「良い」と認めたが、それ以外のことについては「女性特有の異常さが際立っている」と見なした。[667]
⚠️仰天した(astonished):これも「驚く」の強調バリエーションの一つだが、ネイティブ英会話の辞書によれば「嬉しいことではなく、ネガティブなことを知った時によく使われる」
日本語訳版の文献でたびたび見られる「異端審問でジャンヌの答弁に驚かされるシーン」はこの人変、頭おかしい寄りの驚き表現であり、好意的なニュアンスではないことに注意。少なくとも親しい友達や家族に使うフレーズではない。
その後、ジャン・ボーペールはジャンヌに、村での子供時代について尋問した。彼は、彼女が残酷で、幼い頃から殺人的な傾向を示し、ドンレミの人々に悪い評判を与えた偶像崇拝的な慣習に耽っていたことを示そうと試みた。[668]
それから彼は、ジャンヌの使命のあいまいな起源を解明する上で、最も重要な点に踏み込んだ。
「あなたはボワ・シュヌ(樫の森、Bois Chêne)から遣わされた者とみなされてなかったか?」
この方面からの切り口なら、彼は重要な啓示(証拠)を得ることに成功したかもしれない。偽りの予言は、確かにフランスにおけるジャンヌの名声獲得に貢献していた。だが、異端審問の聖職者たちは、ベーダやマーリンの偽作を見分ける能力がなかった。[669]
⚠️ボワ・シュヌ(Bois Chêne):ジャンヌの家から見える樫の森。上巻・第一章『1.4 Fateの伝説:妖精の泉と女神の木』と上巻・第六章『6.12 魔術師マーリンの予言(2)ボワ・シュニュから来る乙女』参照。
ジャンヌは答えた。
「私が王のところへ行った時、ある人たちが私の故郷にボワ・シュヌと呼ばれる森があるかどうか尋ねました。この森の近くから奇跡を起こす乙女が現れるという予言があったからです。でも、私はそんなことは気に留めませんでした」
私たちはこの証言を信じるしかない。
だが、たとえジャンヌが『ボワ・シュヌの乙女』に関するマーリンの予言を信じていなかったとしても、「ロレーヌ辺境から乙女の姿で救世主が現れる」という予言の内容にかなり注目していたのは確かだ。
なぜなら、ジャンヌは一時期、この予言についてラッソワ叔父さんとその友達のルロワイエ夫妻に、彼らを驚かせるほどの熱意で繰り返し語っていたのだから。
なお、二つの予言が瓜二つであることはすでに述べた通りだ。[670]
⚠️ルロワイエ夫妻:上巻・第三章『3.7 ヴォークルール再訪:下宿先での暮らしぶり』から何度か登場。
⚠️二つの予言が瓜二つ:「ベーダの偽予言」と「マーリンの改竄された予言」の検証は上巻・第六章『6.14 偽の予言:献身的な謀略』参照。
ジャン・ボーペールは『魔術師マーリンの予言』の話題を突然変えて、こう尋ねた。
「ジャンヌ、あなたは女性用の服を持っているか?」
「ひとつください。そうしてくれたら、受け取ってここを立ち去ります。そうでなければ要りません。神は私がこれを身に着けることを喜んでいるので、これで満足します」
この返答には、異端につながる二つの誤りが含まれていたため、ボーヴェ司教は法廷をいったん休廷した。[671]
11.6 第三回公判(3)ボーヴェ司教の差し入れ
翌日、2月25日は四旬節の最初の日曜日だった。
この日かあるいは別の日か、おそらくこの日だろうが、司教はジャンヌにシャッド(shad、ニシン科の魚)を送った。
⚠️補足:四旬節の期間中は、牛乳やバターを含め動物性の食物を食べてはいけないが魚は例外。オルレアン包囲戦のニシンの戦いも、このキリスト教の慣習(戦地への差し入れ)が背景にある。
ジャンヌはこの魚を食べた後、熱を出して嘔吐した。[672]
パリ大学の二人の文学修士・医学博士であるジャン・ティフェーヌとギヨーム・ド・ラ・シャンブルは、裁判の陪席者として、ウォリック伯に呼び出され、こう告げられた。
「聞いた話によると、ジャンヌが病気になった。回復のために対策を講じるべく、あなたたちを呼んだ。国王(ヘンリー六世)は彼女が自然死するなど決して望んでおられない。彼女は国王にとって大切な存在であり、高価な代償を払って買い取ったのだ。国王の意向は、彼女が正義の手によって裁かれて死ぬこと、つまり火刑に処されることだけだ。火あぶり以外の原因で死ぬことがないように、必要な処置はすべて行い、彼女を注意深く観察して回復に努めてほしい」[673]
医師たちは、ジャン・デスティヴェ検事に案内されてジャンヌの元へ向かい、彼女に苦しみの原因を尋ねた。
ジャンヌは「ボーヴェの司教から送られた鯉(carp)を食べた」ことを告げ、「それが病気の原因だと思う」と答えた。
⚠️鯉(carp):コイ科の魚だが、不平不満・粗探しという意味もある。
ジャンヌはボーヴェ司教が毒殺を企んでいると疑ったのだろうか?
ジャン・デスティヴェはそう受け取り、激怒した。
「ふしだらな女め!」彼は叫んだ。
「こうなったのは自業自得だ! おまえはニシン(herring)や他のものを食べて病気になったのだ」
「そんなことはありません」と彼女は答えた。
二人は互いに侮辱し合い、ジャンヌの病状は悪化していった。[674]
医師たちはジャンヌを診察し、熱があることを確認した。そこで瀉血を行うことを決めた。ウォリック伯爵にそのことを報告すると、伯爵は心配になった。
「瀉血だと!」彼は叫んだ。
「用心しろ! 彼女は狡猾だから自殺するかもしれない」
それでもジャンヌは瀉血を受け、回復した。[675]
⚠️瀉血(bleed):中世〜近代ヨーロッパで盛んにおこなわれた治療法。体内にたまった不要な血液を体外に排出することで症状の改善・回復が見込めるとされたが根拠に乏しく、現代医学では廃れた。
⚠️訳者のこぼれ話:シャルル七世がジャンヌを見殺しにしたと誤解される理由判明
下記、ウォリック伯の言葉を訳しながら気づいたこと。
「国王(ヘンリー六世)は彼女が自然死するなど決して望んでおられない。彼女は国王にとって大切な存在であり、高価な代償を払って買い取ったのだ。国王の意向は、彼女が正義の手によって裁かれて死ぬこと、つまり火刑に処されることだけだ」
原文では「国王」としか書かれてない。
一部の人がどういうわけか「シャルル七世がジャンヌを見殺しにした、死んでもいいと思っていた」と思い込んでいるのは、もしかしたらフランス王シャルル七世とイングランド王ヘンリー六世を区別してないせいではないだろうか?
🔸フランス人が言う「国王」→シャルル七世
🔸イングランド人が言う「国王」→ヘンリー六世
読み手にこの前提がないと混同すると思いませんか…?
セリフの「国王」をすべてシャルル七世と勘違いしているのでは…?
気の利いた翻訳者なら、ウォリック伯のセリフを「ヘンリー六世」と訳すだろうが、そもそも西洋史に通じている人が少ないので、翻訳者自身が文脈(国王の違い)を認識してないかもしれない…。
当時のヘンリー六世は子供で、めったに表に出てこない。
映像・ビジュアル作品だと特に「国王=シャルル七世の外見」でインプットされてしまうので、シャルル七世とは別に敵方の国王がいること、ウォリック伯の言う「国王」がシャルル七世ではないということが読者・視聴者に伝わりにくい。
【追記・余談】西洋史に通じている人が少ない:失礼に聞こえたら申し訳ない。以前、拙作『7番目のシャルル』が某社レジェンド賞最終選考に残ったときに「西洋史ものは商業で需要がない」と短評が返ってきた件と、小説家養成講座に参加したときに主催の某社編集長が「題材はおもしろいが西洋史系やれる編集がいない」と言っていた件が根拠です。
当方は推し活(シャルル七世推し)で執筆・翻訳やってますが、これらの経験から、商業デビューをめざすなら西洋史ものは相当厳しいと言わざるを得ない。
なお、小説家養成講座は1日のみでしたが、全員参加のプロット発表会で1位に選ばれたので、これまで無冠の『7番目のシャルル』、そこそこおもしろいはずだと思っている(自画自賛ですかそうですね)
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