それは、ア・ポステリオリなものを対象にしたようにも見えますが、概念って言葉でそれを明らかに否定していますね。 それは、概念の形成の過程の対象自体が、経験では得られないってことかしら? 連載 超訳プロレゴメナ 147 読書会編106
超訳プロレゴメナ読書会 第十回から
ディスカション(承前)
曽根康夫:
総合的判断の分類の最初には、経験から生まれるものが対象になっているように見えます。しかし内容は経験を否定したとしか考えれないものになっています。
1.経験から得られる判断は常に総合的なものだ。
なぜなら、ぼくたちの概念が経験から導き出すことがあきらかに不合理なのだから、経験に基づいて分析的判断をすること自体が無駄なことだと知らねばならない。
池田幸男:
それは、ア・ポステリオリなものを対象にしたようにも見えますが、概念って言葉でそれを明らかに否定していますね。
山際このみ:
それは、概念の形成の過程の対象自体が、経験では得られないってことかしら?
前島幸太郎:
ちょっと長いけれど、その次の箇所をしばらく再読してみましょう。
ぼくたちが対象とするもの(物体)は拡張されたものだ。これは、ア・プリオリに確立された判断であって、経験的な判断ではない。
なぜなら、経験に訴えかける前に、ぼくたちはすでに概念の中にすべての判断条件を持っていて、そこから矛盾則にしたがい述語を導き出すだけで良くなっている。
同時に判断の必然性を認識することになるが、経験はこの必然性を、けっしてぼくたち教えはしない。
全員が指摘された箇所を読んでいた。世界が沈思したとも観える時間が5分ほど経過していた。
桐川夢見:
ここが、ア・プリオリってことなのかしら? 「概念の中にすべての判断条件を持って」 そう書かれたところが…
山際このみ:
それに違いないよ! だって、その先で、「判断の必然性を… 経験はこの必然性を、けっしてぼくたち教えはしない。」って書かれているじゃない…
須田隆雄:
やはり形而上学は、ア・プリオリな概念の集積から始まるってことなのだろうか?
全員が笑っていた。以前に須田君が、『ツァラトゥストラ』も形而上学だと言っていたことを、思い出していたのだろう。
