そこから、オブジェクトそのものを認識できない人間の限界を、背景に持っていることが想定できる。つまり、一つの概念だけではなく、多くの現象(から得られる概念)を総合して、できあがる表象が、オブジェクトそのものではないが、オブジェクトの概念を創り出しているものとして、人間の認識が確立する… 連載 超訳プロレゴメナ 227 プロローグ編34
ディスカッションの途中だが、ここで第13節に関係した説明を追加しておきたい。
前回のプロローグと本編の13節を読んでみれば分かるが、コペルニクス的転回に相当する言葉が書き記されているのは、第13節の最後の下記になる。
※13節はこの後に補足が追加されているから、ここを13節の最後と表現するのは相応しくないかもしれないが…
ぼくたちは、あらゆる相違を一つの概念で理解することはできないのだ。知覚に直接基づいているもの、たとえば右手と左手の関係のようなものを通じてだけ、相違を理解することになるのであり、この関係が感覚をもって空間を知ることに、つながるのである。
これを、人間の認識の限界を指摘したものと捉えることが可能だろう。そこから、オブジェクトそのものを認識できない人間の限界を、背景に持っていることが想定できる。
つまり、一つの概念だけではなく、多くの現象(から得られる概念)を総合して、できあがる表象が、オブジェクトそのものではないが、オブジェクトの概念を創り出しているものとして、人間の認識が確立すると言っていい。
オブジェクトから直接に何かを与えれるのではなく、人間自身が現象を総合したものを、オブジェクトに与える、それこそが認識の基本だと、カントはここで気づいた違いない。
しかし、この段階ではカント自身の明確な言葉とて語れているわけではない。それがカントにとって明確になりだすのは『純粋理性批判』第二版で、「叡智的な存在」を考察してライプニッツの誤謬に気づいたときでないかと想像できる。
これが、「コペルニクス的転回」へと、つながっていくことのになるわけだが、そこでもカントは「コペルニクス的転回」という言葉は、書いてはいない。「コペルニクス的転回」をカント自身が書いたのは、『純粋理性批判』第二版の序文の中なのだ。
それは、第二版を書き終えたカントが冷静な気持ちで、第二版を見つめていた時に違いない。
第21回の読書会時には、荒川先生が新たに超訳した、第二版の序文を、参加者全員が読んでいるはずだが、上記の事情があって参加者全員の反応が、一致していない。
とくに桐川夢見や栗林雄太は、この辺りの事情までを理解するまでにはなっていない。
これについては、二年近くカントに親しんできた人から適切なアドバイスがあることを期待している。
