先生のノートは、いつかは、『超訳 純粋理性批判』として公表する必要がありそうですね… 多くが、この言葉にうなずいていた… 連載 超訳プロレゴメナ 195 読書会編135
超訳プロレゴメナ読書会 第16回から
ディスカション(承前)
牧野照邦:
カテゴリーを必要最低限だけになるように絞って、基本的なものだけにするためには、不要なものを取り除いていく捨象という作業が必要でした。これは以前の読書会でとり上げられていた、分析に相当するものですね。しかし、それだけではカテゴリーが決められる訳ではありません。
池田幸男:
そこに、総合という作業が加わるわけですね?
桐川夢見:
分析は、掲げた命題がそれだけで、矛盾なく成立しするものだったけど… 総合は命題に付加することが可能なものを、考えるってことなんですね?
曽根康夫:
命題について拡張を検討するってこと、それが総合でしたね。そこでは経験を通したもの、ア・ポステリオリなものも対象となるってこと、そう考えて良いと思いますね。
山際このみ:
でも、第7節の最後に、純粋な直観も… 機能するって書かれてるだよね。
池田幸男:
経験に頼らないで、思考の中で生まれたものも、カテゴリーに付加できるからでしょう。
栗林雄太:
それが、第7節の最後を、こう書かせたんですね?
経験的な直観は、直観自体が総合的に表新しい述語によって、直観の対象についててぼくたちが組み立てる概念を容易に拡張することを可能にしている。そうして純粋な直観も同様に機能するだろう。
前島幸太郎:
カテゴリーを、必要なものだけに絞っていく作業は、かなり困難で、無味乾燥な作業だったのだと思います。
「カントの沈黙の十年」も、そこに原因があるのでしょう。
牧野照邦
スコラ哲学の「一、真、善」を対象にして、カテゴリーの「単一性、多様性、全体性」と比較しながら論じた個所が、『純粋理性批判』の中にもあります。結果として、これを同等のものとすることは、できましたが、スコラ哲学の裏付けには、カントは不満を持っていましたけど…
桐川夢見:
そうだったんだ! 先生の学生時代のノートに、こんなふうに書かれてたんだけど…
不用意にも、《もの》そのものの特性として扱ってきた。その結果として、人間の思考の基準であるものを、不用意にも《もの》の特性と観てしまった
これが、牧野さんが言ったカントの不満なんですね!
前島幸太郎:
先生のノートは、いつかは、『超訳 純粋理性批判』として公表する必要がありそうですね。
多くが、この言葉にうなずいていた。
まだ、ここには書いていなかったが、先月から先生のノートのテキスト化が参加者全員の分担作業として始まっていた…
