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カントの文章から、結論だけを早く見つけようとする姿勢では、経験判断の客観的な妥当性と言われても、何も自分のものとして考えることはできなかったと思えますね…  理解力が活用されて、経験判断が客観的なものと観えるようなるってこと… そういうことなのですね?  連載 超訳プロレゴメナ 312 読書会編 208

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第32回読書会(つづき)
 
桐川夢見:
 前島さんが考えている指針が18節の中にあれば、経験判断が重要なものとして登場することが、だれにも早く理解できいるってことですね。
 
須田隆雄:
 それは、良いことなんだと思うけど、哲学を理解するための苦闘が減ってしまうのも… ぼくには疑問も感じます…
 
山際このみ:
 なんか、屁理屈みたいだよ! 万人の哲学を広めようって言いながら、読者に苦闘を強いるみたいで…
 
曽根康夫:
 そこは、どう判断するかも難しいとこだけど… 哲学に挑むときは苦闘が楽しみになる場合も、あるとは思うんですけどね…
 
池田幸男:
 なんかマゾヒズムみたいな話になっている気がしませんか?
 
栗林雄太:
 そうかもしれませんよ! 曽根さんが言った、「たのしみ」ですけど、「愉しみ」って書いてもいいとぼくは思えますね。
 
桐川夢見:
 でも「愉しみ」じゃ、それができるだけの人のものとなってしまうんじゃないのかな? 哲学が…
 
前島幸太郎:
 ぼくが指針を考えたのは、哲学の入り口を広げることも、目的にあるんだけど… いつかは哲学に挑めば苦闘も必然だと、早く気付いてほしいこともあるんですけどね…
 
池田幸男:
 プラトンの対話編を演じているみたいな雰囲気になってきてますね。またそれが、19節の冒頭に繋がっていくような気さえしています。

 客観的妥当性と(すべての人にとっての)必然的な普遍性は、同等の内容を持ちながら互いが補完し合っている。対象自体を知らないとしても、判断が普遍的で妥当であり必要と考えることができるならば、それは客観的な妥当性を持っていることになる。
 この判断によって、ぼくたちは与えられた認識の普遍的かつ必然的な結びつきを通して、対象を(それ自体は未知のままであったとしても)認識することになる。

第310回 本編51

牧野照邦:
 経験的判断としての知覚判断を経て、経験判断が客観的な妥当性を持つものとして、だれもが納得しているからだと、思えます。カントの文章から、結論だけを早く見つけようとする姿勢では、経験判断の客観的な妥当性と言われても、何も自分のものとして考えることはできなかったと思えますね…
 
桐川夢見:
 それで19節では、理解力が活用されて、経験判断が客観的なものと観えるようなるってこと… そういうことなのですね?

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