今回は、ヌーメノンという言葉も話題になりました。これは『純粋理性批判』でも中ほどに書かれているもので、かなりの知識を要求されるもの様ですね… これは実体ではなく、実体そのものに潜む内実のようなものだと… 連載 超訳プロレゴメナ 210 読書会編145
まとめ
カントが言いたかったこと、ぼくたちに知ってもらいたかったこと、それが観えてきた、そんな読書会でした。それが確定した言葉になるは、第13節を過ぎたころらしいですね。
今は第10節が対象になっていますから、数か月先のことになりますね。それでも方向は見えている気がしています。
それは、第10節の冒頭で次のように書かれていることで確信を持つことができました。
今はまだ認識できるには客観覚的直観の一つの形、現象にすぎないが、ぼくたちはそこから対象となるものを、それ自体ではなく、ぼくたちの感覚に写された姿として捉えることができていることを、知ることができる。
ただし、そこには大きな転換があって、通常の考え方、常識に頼ったような姿勢では、辿りつかないことでもあるようです。
それは、第5節にあった下記からも伺い知れるのではないでしょうか。
" Quodcunque ostendis mihi sic, incredulus odi."
君がぼくに示すすべてを、ぼくは信じない、そしてこれを嫌う
また今回は、ヌーメノンという言葉も話題になりました。これは『純粋理性批判』でも中ほどに書かれているもので、かなりの知識を要求されるもの様ですね。ゼミでは第30節で、物自体(ヌーメナ)と書かれていることも話題になったことがありました。これは実体ではなく、実体そのものに潜む内実のようなものだと、ぼくは受け取っています。
それは今回の第10節の最後の文章からも受け取れました。
ぼくたちにとってそれは感性に対する現象に過ぎないかもしれないが、ア・プリオリの認識されるものであることは確信になったと言えるだろう。
また今回は山際さんが懸念していた今後の読書会にも方向が見えてきたことも朗報だったと、思います。
それはZOOMを使った方法ですが、これで参加者もさらに増えていくのでないか、そんな気さえしています。
(栗林雄太 記)
