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自然の観察から多くのことを取得しても、それをただ並べて書いていくだけでは、ぼくたちが求める自然の規則が観えてくるはずもない… オブジェクトの挙動にたいしても、余計なものを除去(捨象)していき抽象していった先に、本来の規則が観えるものだからだ… 連載 超訳プロレゴメナ 285 読書会 191

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 第28回読書会
 
 2019年4月20日(土)に第28回目の読書会が開催された。Zoomを使いはじめてからは第7回目に相当する。
 今回、対象とする節は、第15節で、第14節に続いて自然科学が対象となる。
 
 第14節では、その導入の意味もあって、自然科学の根底にある「自然とはいったい何か」が主題になっていたと捉えていいだろう。
 だから、自然を構成するオブジェクトの存在を、強く意識したものになったと観えるところもある。そして、オブジェクト自体も経験から捉えられるものでないとも主張が強く表れていた。

 さらに物自体の認識も、ア・ポステリオリに認識することも不可能だ。なぜなら経験が、ぼくたちに物が存在として従う法則を教えるなら、それらの法則は、物自体の中にあるとしなければならないからだ。しかし経験は。ぼくたちに何が存在しそれがどのように存在するかを教えてはくれるが、なぜそのように必ず存在し、存在しなければならいか、決して教えてはくれない。

第277回 本編46

 自然も、ただ漠然と観察しているだけでは、それが何なのかは、、みえてくることはない。やはりそこに人間の理念を通しての、観測と理解を通して自然の規則を見出していく行動がない限り、ぼくたちにとっての自然は存在しないとさえ言っていいのだろう。
 
 さらに、自然の規則にたいしても、分析的な処理が必要となることを説いたのが、今回の第15節と言えるだろう。

 そこには、現象に適用された数学と、純粋な自然認識の哲学的部分を生成する論理的な(概念から導き出された)原理が含まれている。
 しかし、さらにその中には、完全に純粋とは言えない、経験的な源から得られたものいくつか含まれている。たとえば、運動、(物質の経験的概念が基礎を置いた)不可入性、慣性などであって、そうしたものが一般的な自然科学を、純粋な自然科学と呼ばせない要因となっている。

第284回 本編47

 自然の観察から多くのことを取得しても、それをただ並べて書いていくだけでは、ぼくたちが求める自然の規則が観えてくるはずもない。
 オブジェクトの挙動にたいしても、余計なものを除去(捨象)していき抽象していった先に、本来の規則が観えるものだからだ。
 たとえば、路上に転がる小石でも、惰性、摩擦を除去しなければ、その本来の動きはぼくたちには判りはしない。だから観察した結果だけを観て満足しているだけなら、自然科学さえ生まれはしなかっただろう。

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