カントにとって自然とは、自然現象を超えていながらも、だれもが納得できるできる、そうしたものを指していたはず… 自然も道徳も、人間が納得できる自由の上に建っている、そう言えるんじゃないかしら… 連載 超訳プロレゴメナ 294 読書会編197
第29回読書会 ディスカッション(つづき)
栗林雄太:
16節には、気になる文章があります。最後の方です。
ア・プリオリに可能であって、経験に先立つことがあっても、その現実性が経験で確認できる「自然の認識]なのだ。これこそが何よりも先験的に可能であり、すべての経験に先立つものとなる。
ここって、一見、同じことを繰り返しているように観えますが… 経験に先立つ… これは経験の領域の外でなにかを確認できるって、そういうことなんでしょうか?
池田幸男:
言われてみれば、奇妙な文章に観えてきますね! ア・プリオリが、経験以前を指す言葉ですから… でも、人間の認識という行為が、空間や時間を確立したように、自然も人間の認識で確立するものって、捉えて良いのではないでしょうか?
桐川夢見:
でも、それって自然法則までも人間の認識で生まれるってことじゃないですよね。そんなの、神の国創り物語りみたいじゃないですか?
曽根康夫:
自然法則は、最高の存在でも創りだすことはできないものですね! あくまでも、人間の経験の中で、抽象を繰り返すことが、自然法則の発見につながったと観るべきでしょうね…
須田隆雄:
抽象の過程では、経験以上の想像力の活用もあったのではないでしょうか? もっとも想像力だって、元を辿れば、経験事象の抽象化の中から生まれてきたものでしょうけど…
前島幸太郎:
認識の確立も、明確な一本の道の中で生まれたものではないって思います。その未知はジグザクであり、ランダムウォークのような進行もあったのかもしれません。でもその過程で、だれもが納得できるものが、生み出されて行ったのではないでしょうか。
荒川先生:
そうですね… それもだれもが、自然に納得できるものとしてね…
牧野照邦:
その先生の言葉、ゼミのなかでも聞いたことがありました。カントにとって自然とは、自然現象を超えていながらも、だれもが納得できるできる、そうしたものを指していたはずなんです。
桐川夢見:
なにか、判ってきたような気がする… 自然も道徳も、人間が納得できる自由の上に建っている、そう言えるんじゃないかしら…
桐川夢見の膝の中で、コトラちゃんが嬉しそうにじゃれついていた…
