ここでの対象としての表現は、考えて理解するようなものでない。そうではなくて感覚(感性的な直観)が捉えた現象である。純粋な知覚(いわゆる理解力と言われるもの)が認識するものを表現したものではないと、知らねばならない。そしてそれ自体は、ぼくたちが知らないあるものであって、ぼくたちの感性との関係で成りたった外観をもつ直観のある形式なのだ… 連載 超訳プロレゴメナ 229 読書会編 156
居間のほうから、ラチャン、ラチャンって何かを呼んでいるような声が聴こえていた。たぶん、庸介くんだろう…
そのときまで、先生の机の上を陣取って、先生を正面から見つめていたコトラちゃんが、机を飛びおりて、部屋から出ていった。
桐川夢見:
ラチャンって、コトラちゃんのことかしら?
前島幸太郎:
そうですよ! 庸介くんには、「コトラちゃん」が。「ラチャン」って聴こえているみたいらしいから…
山際このみ:
それで、コトラちゃんも、それが自分のことって解ってるんだね!
池田幸男:
それに、間違いないって思います。それにコトラちゃんも、ぼくたちが「コトラちゃん」って呼んでも「ラチャン」って聴こえているのかもしれませんね。
須田隆雄:
子どもも動物も正直で、人間の大人みたいに、奇妙な理屈をつけて考えないからかもしれませんよ!
牧野照邦:
その意味では、カントを読むときも、理屈なんか捨ててしまって、自分の気持に正直になれば、きっといつかは、必ず理解できるときがくるって思います。
曽根康夫:
牧野さんは、カントを読み始めてから、五年以上にはなっているんですよね。
牧野照邦:
それでも、まだよくは解ってないところもありますよ! でも少しだけど、昨日よりはいいんじゃないかって、その連続ですけどね!
前島幸太郎:
さっきの読み合わせにあったこれも、理屈を捨てて正直に読めばいいところですね。
ここでの対象としての表現は、考えて理解するようなものでない。そうではなくて感覚(感性的な直観)が捉えた現象である。純粋な知覚(いわゆる理解力と言われるもの)が認識するものを表現したものではないと、知らねばならない。そしてそれ自体は、ぼくたちが知らないあるものであって、ぼくたちの感性との関係で成りたった外観をもつ直観のある形式なのだ。
山際このみ:
読み合わせにときよりも、また一つ高い場所から読んでいる読んでいる気になったね!
須田隆雄:
でも、繰り返し読んでだけでなく、理屈なんか考えないで、ここを出ていった、コトラちゃんを見たことが、ひとつ高いところにのぼったんじゃないですか?
曽根康夫:
だから、よく考えもしないで、繰り返し読んだって仕方ないってことなんでしょう!
桐川夢見:
でもよく考えるってことと、理屈なんか考えないってこと、どうつながるんだろう!
