総合的とされる判断には経験の結果として表現されるものもあるが、それが総合的判断の大勢を占めるものではない。認識の対象は多くは経験から導かれるものではなく、ア・プリオリなものが対象となっていくと考えなければ… 連載 超訳プロレゴメナ 142 プロローグ編20
総合について
第2節のc.でいよいよ総合的な判断が語られるが、その冒頭の表現には戸惑うこともある。それは、事後的な総合的判断と、純粋な理解と理性から生まれる総合的判断の両者について、矛盾則から生まれる可能性はけっしてないと、書かれた直後に下記が出てくることにある。
それにも関わらずどのような推論からでも、
奇妙に観えるかもしれないが矛盾則に従わなければならない。
カント自身が奇妙に観えると言っているのだから先に行けば、納得できるものが出てくるには違いない。しかし、このc.は、かなり長い記述になっているから、読者はすぐに結論を求める態度を捨てなければ先に読み進むことも困難だろう。
まず、c.の冒頭の数行を読んでみよう。
経験に基づくもので、ア・ポステリオリと呼ばれる事後的な総合的判断がある。
しかし、ア・プリオリに確実であることが証明され、純粋な理解と理性から生じる総合的判断もある。
その両者とも、確実に言えることがある。どちらも分析の原理、つまり矛盾則だけからは、それらが生まれる可能性はけっしてないということだ。
それらはまったく異なる原理を必要とするが、それにも関わらずどのような推論からでも、奇妙に観えるかもしれないが矛盾則に従わなければならない。しかもそこからすべてを導き出すこともできない。なぜなら矛盾則に反することは決して許されないからだ。
そこで、まず総合的判断の分類を行うことにする。
この分類は、大きく「経験から得られる判断」と「数学的判断」との二つ説明されていくことになる。
今回は「経験から得られる判断」の箇所のみを下記に掲げる。
1.経験から得られる判断は常に総合的なものだ。
なぜなら、ぼくたちの概念が経験から導き出すことがあきらかに不合理なのだから、経験に基づいて分析的判断をすること自体が無駄なことだと知らねばならない。
ぼくたちが対象とするもの(物体)は拡張されたものだ。これは、ア・プリオリに確立された判断であって、経験的な判断ではない。
なぜなら、経験に訴えかける前に、ぼくたちはすでに概念の中にすべての判断条件を持っていて、そこから矛盾則にしたがい述語を導き出すだけで良くなっている。
同時に判断の必然性を認識することになるが、経験はこの必然性を、けっしてぼくたち教えはしない。
ここでは、カントが言いたいことを下記のように考えることにした。
総合的とされる判断には経験の結果として表現されるものもあるが、それが総合的判断の大勢を占めるものではない。認識の対象は多くは経験から導かれるものではなく、ア・プリオリなものが対象となっていくと考えなければならない。これは後になって、空間や時間を対象に認識を考察していく際の重要な視点となることだけを、今は指摘おくだけにする。
