「はい」と答えるまで終わらない問いの思考実験――復活信仰をめぐる一考察
※この記事は、特定の教派や信仰の立場を断定・評価することを目的とするものではありません。キリスト教の救済理解が持つ構造を、一つの思考実験として整理・考察する試みです。信教・思想・良心の自由を尊重した上でお読みください。
1. はじめに
キリスト教の中心的な主張の一つに、「キリストは死から復活した」という出来事があります。
教会の伝統によれば、この復活を事実として受け止め、信じる者は、
・神の前で罪を赦され
・義とされ
・最後の裁きにおいて断罪されることはない
と教えられてきました。ここではあえて、この救済理解を極端に単純化してみたいと思います。
2. 救済を「質問形式」にしてみる
次のような問いが、目の前に提示されると仮定します。
『キリストの復活は、歴史的事実とされています。
それを事実として受け止めますか?』
回答は二つだけです。
・はい
・いいえ
「はい」と答えた場合
・どこかの教会に導かれ、どこかの教役者によって洗礼を授けられ
・救いの出来事は、ひとまず完結するものとします。
「いいえ」と答えた場合
問いは、再び同じような形で提示されます。
『もう一度だけ聞きますね。
キリストの復活は、歴史的事実とされています。
それを事実として受け止めますか?』
そして再び、
・はい
・いいえ
という二択が示されます。
「はい」と答えた場合
・どこかの教会に導かれ、どこかの教役者によって洗礼を授けられ
・救いの出来事は、ひとまず完結するものとします。
「いいえ」と答えた場合
問いは、再び同じような形で提示されます。
『答えがよく聞こえませんでした。
キリストの復活は、歴史的事実とされています。
それを事実として受け止めますか?』
そして再び、
・はい
・いいえ
という二択が示されます。
3. どこかで見たことがあるような構造
この構造は、どこかで見たことがあるようにも思えます。
たとえば、ある種のゲームやシステムにおいて、
「はい」を選ばない限り、先に進めない
「いいえ」を選ぶと、同じ質問が繰り返される
という設計がなされていることがあります。
ここで重要なのは、仕組み上、必ず「はい」に収束する構造になっているという点です。
時間をどれだけかけてもよいとするならば、問いは終わることなく、逃げ道はなく、最終的に「はい」と答えるまで続くものと考えることも可能です。
4. 理論的帰結としての「全員受容」
仮に、この構造がすべての人の前に現れたと純粋に論理的に考えるならば、次の結論が導かれます。
「はい」と答えるまで終わらない問いであるならば、理論的には、すべての人が復活のキリストを受け入れることが可能である。
これは一見、普遍的救済の希望のようにも見えるように思われます。
誰一人として排除されず、いつかは救いに至る。
しかし同時に、別の側面が浮かび上がってくるようにも思われます。
5. それは「自由な選択」と言えるのか
キリスト教においては一般に、信仰は強制されるものではなく、自由な応答であると語られることが多いものです。
しかし、選択肢は二つしかなく、「いいえ」を選び続けても状況は変わらず、事実上「はい」しか出口がないという、このような構造において、その「はい」はどこまで自由な告白と言えるのでしょうか。
これは、信仰そのものを否定する問いではありません。
むしろ、信仰とは、選択の自由が残されている状態なのか、それとも、最終的に一つに収束する関係なのかという、一つの現実への問いであるとも考えられるように思います。
6. 愛の忍耐か、圧力を与えるものか
この問いは、別の形にも言い換えられるのかもしれません。
何度でも問い続けようとする神は、人を見捨てない愛の存在なのか
それとも拒絶を嫌い、時には圧力を与えてまでも選択をさせる存在なのか
両者は、近い位置にあるようにも思われます。
そして実際のキリスト教史は、この二つが緊張関係の中で並存してきた歴史であるようにも感じられるものです。
7. おわりに
もし信仰が、「はい」と答えるまで繰り返される問いであるとするならば、その「はい」は、どのタイミングにおいて自由な信仰告白へと変わるのでしょうか。
また、もし神が真に人を愛する存在であるとするならば、「いいえ」と答え続ける人を、どこまで待つことができるのかというような問いも残るのかもしれません。
キリスト復活の信仰は、人間の自由・恐れ・希望のすべてと向き合う問いなのかもしれません。
そしてその問いは、「はい」と答えることで終わるのではなく、答え続ける関係そのものの中にあるのではないか、そのように捉えることもできるように思われます。
