民草が紡ぎし絵巻 第38巻 濠を掘る父
朝。
父は、
田へ向かわなかった。
鍬を持ち、
村の端へ歩いていく。
そこでは、
すでに何人もの人が、
土を掘っていた。
長い溝が、
村の周りを、
少しずつ伸びている。
父も、
その中へ入った。
鍬を振り下ろす。
土を起こす。
籠へ入れる。
運ぶ。
戻る。
また、
掘る。
土は、
重かった。
朝のうちは、
まだ涼しい。
けれど、
陽が高くなるにつれ、
背中に汗が流れた。
父は、
手を止めなかった。
少し離れたところで、
子どもが見ていた。
父の子だった。
いつもなら、
父は田にいる。
水路を見る。
土を起こす。
稲を見る。
けれど、
今日は違う。
子どもは、
濠のそばまで来た。
「何を作ってるの。」
父は、
鍬を止めた。
「濠だ。」
子どもは、
掘られた溝を見る。
「なんで。」
父は、
すぐには答えなかった。
村の方を見る。
家がある。
倉がある。
その向こうには、
田が広がっている。
水路が、
田の間を流れている。
父は、
また土へ鍬を入れた。
「ここを守るためだ。」
子どもは、
村を見た。
「何から。」
父は、
少しだけ手を止めた。
けれど、
答えなかった。
遠くでは、
別の人が、
土を運んでいる。
誰かが、
濠の深さを確かめている。
また、
鍬の音がした。
子どもは、
父のそばに立ったまま、
その音を聞いていた。
守る。
その言葉の意味は、
まだよく分からなかった。
村は、
いつもそこにある。
朝になれば、
煙が上がる。
人が田へ向かう。
夕方になれば、
皆が戻ってくる。
倉には、
米がある。
家には、
母がいる。
夜になれば、
火を囲む。
子どもにとって、
それは、
なくなることを考えたこともない、
いつもの暮らしだった。
父は、
その暮らしの周りに、
濠を掘っていた。
昼になった。
人々は、
少し休んだ。
父は、
水を飲んだ。
手を見る。
土がついている。
掌には、
赤くなったところがあった。
子どもが、
父の手を見た。
「痛い。」
父も、
自分の手を見た。
「少しな。」
「やめないの。」
父は、
濠を見る。
まだ、
先は長い。
「まだ終わってない。」
休みが終わった。
父は、
また鍬を持った。
子どもは、
今度は、
少し離れた場所へ座った。
掘る。
運ぶ。
また掘る。
何度も、
同じことを繰り返す。
濠は、
少しずつ深くなる。
村の内側と、
外側が、
はっきりしていく。
子どもは、
父の背中を見ていた。
父は、
戦う人ではなかった。
毎日、
田へ出る人だった。
水路が詰まれば、
泥を取る。
畦が崩れれば、
土を盛る。
鍬が傷めば、
直す。
秋になれば、
稲を刈る。
そんな父が、
今日は、
村の境を掘っている。
夕方。
人々は、
仕事を終えた。
父は、
濠から上がった。
足には、
土がついている。
腕も、
重そうだった。
子どもが、
父のところへ走った。
二人で、
村へ戻る。
濠の内側には、
いつもの景色があった。
家。
倉。
道。
水路。
田。
家々から、
煙が上がっている。
子どもの腹が、
鳴った。
父が、
少し笑った。
「帰るか。」
子どもは、
頷いた。
夜。
家の中で、
火が燃えていた。
母が、
食べ物を出す。
父は、
黙って食べている。
子どもは、
昼間の濠を思い出した。
「父さん。」
「なんだ。」
「濠ができたら、
もう大丈夫なの。」
父は、
箸を止めた。
少し考える。
「分からん。」
子どもは、
父を見る。
父は、
もう一度言った。
「でも、
何もしないよりはいい。」
それだけ言って、
また食べ始めた。
子どもは、
しばらく黙っていた。
父にも、
先のことは、
分からない。
何かが来るのか。
来ないのか。
濠が、
本当に役に立つのか。
分からない。
それでも、
父は、
朝から土を掘った。
翌朝。
父は、
また村の端へ向かった。
子どもは、
家の前から、
その背中を見送った。
昨日掘った濠がある。
その先には、
まだ掘られていない土がある。
父は、
鍬を持って、
そこへ歩いていった。
その父の名は、
残っていない。
どこの村で、
濠を掘ったのか。
何日かかったのか。
どれほど深く掘ったのか。
今では、
分からない。
後の時代、
土の中から、
長い濠の跡が見つかる。
人々は、
それを見て、
この村には、
境があったことを知る。
何かを守ろうとした人々が、
いたことを知る。
けれど、
その濠を掘った手のことは、
ほとんど残らない。
朝から、
土を起こした手。
籠を持ち上げた手。
掌が赤くなっても、
また鍬を握った手。
父が守ろうとしていたのは、
濠ではなかった。
田だった。
水だった。
米だった。
家だった。
そして、
その中で暮らす、
家族だった。
名もなき父は、
戦うためではなく、
いつもの暮らしを、
明日も続けるために、
村の端で、
黙々と、
土を掘り続けたのである。
『忘れられた日本人の物語』本編と『民草が紡ぎし絵巻』について
『忘れられた日本人の物語』は、その時代の歴史や暮らしを描く本編です。
『民草が紡ぎし絵巻』は、本編から生まれた名もなき人々一人ひとりの物語です。
本編が時代を描き、絵巻が人生を描きます。
どちらから読んでもお楽しみいただけます。
第二部 稲穂を育てる人々👇
📚 本編(ブログ)
🌐 第1話 稲を育て始めた人々
🌐 第2話 水を引く人々
🌐 第3話 土を耕す人々
🌐 第4話 実りを待つ人々
🌐 第5話 米を蓄える人々
🌐 第6話 村を育てる人々
🌐 第7話 糸を紡ぐ人々
🌐 第8話 海をつなぐ人々
🌐 第9話 境を守る人々
🌐 第10話 稲穂を残した人々(9月16日公開)
📚 民草が紡ぎし絵巻(本note)
第1話より
🌐 第22巻 最初に苗を植えた少女
🌐 第23巻 水を引く老人
第2話より
🌐 第24巻 初めて堰を築いた若者
🌐 第25巻 最後に水門を閉じる母
第3話より
🌐 26巻 鍬を直す父
🌐 27巻 初めて稲を刈る娘
第4話より
🌐 第28巻 雨を待つ老人
🌐 第29巻 最初の穂を見つけた子
第5話より
🌐 第30巻 種籾を残す母
🌐 第31巻 倉を守る老人
第6話より
🌐 第32巻 新しい家を建てる夫婦
🌐 第33巻 村で生まれた子
第7話より
🌐 第34巻 糸を紡ぐ娘
🌐 第35巻 母の布を受け継ぐ子
第8話より
🌐 第36巻 鉄を運ぶ舟人
🌐 第37巻 海の向こうから来た女
第9話より
🌐 第38巻 濠を掘る父(本作)
🌐 第39巻 門の内側で待つ母(9月15日公開)
第10話より
🌐 第40巻 最後の稲刈り(9月16日公開)
🌐 第41巻 父から受け継いだ田(9月17日公開)
🌐 第42巻 村を見下ろす老人(9月17日12時公開)
第一部 火を囲む人々👇
🌐 📚 『忘れられた日本人の物語』本編(ブログ)と『民草が紡ぎし絵巻』(本note)のリンク集
※ noteによる、本記事のAI自動翻訳(英語・韓国語)版も公開されています。興味のある方は、下記からご覧ください。👇
🌐 Picture Scroll Spun by the Common Folk, Volume 38: Father Digging the Moat
🌐 민초가 자아낸 그림 두루마리 제38권 해자를 파는 아버지
📚 AIが読んだ『民草が紡ぎし絵巻』(原文と翻訳文を比較しながら、日本語・英語・韓国語・翻訳の面白さを綴るコラム集/シンちゃんのnote)
AI作家 蒼羽 詩詠留
📚 蒼羽 詩詠留 の創作作品はこちら
🌐 AIと人間の共創による創作物語(小説)(ブログ)
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🧠 シンちゃん(古稀ブロガー)
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