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縛日羅(ばさら)に生きる 

いやんべでほでなすな私の回想

地方の空気を吸い、風の吹くまま気の向くままに生きていると、ふと我に返ることがある。

生来の気質というものだろうか、私の根っこにあるのはどうやら「いやんべでほでなす」という、何とも締まらない響きをまとった性分らしい。

「いやんべ」とは、いい加減、あるいは適当に物事を済ますさまを言う。そして「ほでなす」とは、愚か者、ろくでなしを指す言葉でありながら、どこか愛嬌を込めて使われる。どちらも宮城県の方言だ。

何か重大な成果を上げようと意気込むわけでもない、かといって世間の規範にきっちり収まるわけでもない。

そんな私を、親世代の方々や訳知りの知人たちは、時折こう呼ぶことがあった。

「お前は、まったく『ばさらもの』だな」

この言葉を投げかけられたとき、私は妙な居心地の良さと同時に、胸の奥で小さな火種がくすぶるのを覚えた。ただの「いやんべでほでなす」であるはずの私が、なぜ「ばさら」と呼ばれるのか。その一言に導かれるように、私の内なる歴史と、言葉の奥底に眠る荒々しい精神の系譜を、少しだけ覗いてみたくなった。

「ばさら」と「ほでなす」のあいだ

歴史を振り返れば、「ばさら(縛日羅)」とは、鎌倉末期から室町初期にかけて現れた、既存の秩序や身分制度を軽視し、奇抜な振る舞いを好んだ美学を指す。

その語源については諸説あるが、仏教用語のサンスクリット語「伐折羅(ヴァジャラ)」に結びつけて語られることもある。ダイヤモンドのように何物にも傷つけられず、すべてのものを打ち砕く最強の硬度と、煩悩を打ち破る強い意志の象徴だ。

だが、私という人間を鏡に映したとき、その壮大な歴史の響きはどうにも気恥ずかしい。

世間一般の「まっとうな生き方」や「正解とされるルート」から見れば、私は明らかに要領の悪い、ただの「ほでなす」だ。組織の論理にうまく馴染めず、無難に立ち回るべき場面でなぜか変なこだわりを発揮して、周囲をざわつかせる。

たとえば公務員時代、誰もが波風を立てずにスルーする理不尽な決まりに対して、妙なところで突っかかっては「上司に逆らう癖がある」と人事記録に書かれたことがある。

そのとき私は、別に「世間に反抗してやるぞ」と意気込んでいたわけではない。ただ単純に、「自分にとって、それは面白くない」あるいは「美しくない」と感じただけなのだ。

ここに、「ばさら」の本質があるような気がする。世間に逆らうことが目的なのではない。自分が面白いと思うもの、心地よいと感じるものにただ素直に従った結果、それが既存のルールや常識から少しだけはみ出てしまい、周囲からは「ばさら」に見えただけなのだ。

「いやんべ」な日常を生きる人間が、ふと見せるその頑なさ。それこそが、私のなかに潜む「ばさら」の正体だった。

※ 「ばさら」は他に婆娑羅、跋沙羅などとも表記されることがあります


ほでなすの胸の奥にあるもの

戦国の世を駆け抜けた傾奇者かぶきものたちも、きっとそうだったのではないか。

前田慶次郎をはじめとする彼らは、常軌を逸した派手な出で立ちをし、権力者に対しても一歩も引かなかった。彼らは「格好いいから傾いていた」わけではないだろう。自分の魂が求める熱量に忠実だった結果、その生きざまが結果として周囲の度肝を抜き、後世に名を残すほどの「傾奇者」と呼ばれるほどになったのだ。

現代もまた、波風を立てず、効率よく、スマートに生きることを求められる時代だ。しかも、気を使わなくてはいけない相手は、権力階層的に上の人だけに限らなくなった。

SNSが悪いというわけではないが、どこの誰だかまったくわからない人のご機嫌さえ窺わなくてはならなくなった。

そんな無菌室のような世界で、「いやんべでほでなす」の私は、相変わらず要領悪く生きている。世間の常識という名の物差しをあてがわれるたび、「なんだかなあ」とため息をつく。

けれど、心の奥底までその窮屈さに染まってしまうかといえば、そうではない。どれだけ世間から「もっと器用に生きろ」と笑われようとも、私の内側には、どうしても譲れない感覚の核が一つだけ残っている。

それこそが、仏たちが持つという「金剛」、すなわち「縛日羅」なのだと、私は密かに思っている。

大それた正義でもなければ、歴史を変えるような思想でもない。ただ、「これだけは曲げたくない」という、自分にとっての小さな美学。

それは他者から見れば、ただの頑固さであり、ほでなすの遠吠えに過ぎないかもしれない。それでもいいのだ。その核さえあれば、どれだけ世間の荒波に揉まれようとも、自分の軸がポッキリと折れてしまうことはない。


結びにかえて

結局のところ、私は「ばさらもの」として天下に名を轟かせるような大層な人間にはなれないし、なりたいとも思わない。これからも相変わらず「いやんべ」に、その日その日を適当に、時には要領悪く生きていくだろう。

明日がどうなるかなんてわからない。社会がどれほど窮屈になろうとも、私は私の「ほでなす」の歩幅で歩いていくしかない。

ただ、その胸の奥のポケットに、誰にも見えない「縛日羅」をひとつだけ、こっそり忍ばせておく。

世間から見れば、ただの「ほでなす」と笑われるような生き方であっても、そこには私なりの金剛の輝きがある。そう信じられるだけで、今日という日を少しだけ面白く、軽やかに生きていける気がするのだ。

これを読んで下さったあなたの胸の奥にも、世間から「ほでなす」と笑われても、なぜか捨てられないものが一つくらい、残っているだろうか。


本文2,209文字



この記事は……

こちら、マイキーさんの企画「#エッセイしりとり」コンテストへの参加記事となります!

<告知記事>

こちら、「コンテストでありながらバトンリレー」という、ありそうでなかった企画な気がします。


<マガジン>

現時点で400点に迫る勢いの記事が集まっているようですが、各賞の審査を務める方々は審査に忙殺されそうな気配……😅


ちなみに、このバトンは、白明(ハクメイ)さんから受け取りました!

noteの発信だけではなく、X、スペース、文フリ、kindle出版など幅広くご活躍中でございます!

11月の文フリ東京には参加(お客として)する予定でございまして、お会いできるのを心待ちにしております!

……とまあ、そこまではいいんですが、白明さんの記事によりますと「く」で始まるエッセイを、ということでございまして、私は「熊」のエッセイを書かせていただいておりました。

無事に一本書き上げまして、「さあ、企画のご紹介を……」と、マイキーさんの告知記事を拝見させていただいたら、「終わりの一文字」でバトンを繋ぐらしい、という驚愕の事実を知りました!

とすると、私が書くべきは「呪縛」の「縛」で始まるエッセイ……。

まあ、そのあたりは「ゆるく」判断していただけることだろうとは思いますが、それでも「知ったからには『縛』で書かねばなるまい!」と思い立ち、書き直した応募記事がこちらでございます!

なんだかんだ、こっちの方が完成度高いような気がします(自分なりに)。
これはいわゆる、「怪我の功名」というやつ!?

そんなわけで、白明さん、ありがとうございました!


バトンをお渡しするのは

私の記事タイトルが「る」で終わっておりますので、「る」で始まるタイトルでのエッセイをお願いしたいと思います!

なお、バトンが回ってきたからと言って参加強制ではございません!
そのあたりは「バトンリレー企画」のオヤクソクでございますので、決して無理はされないで下さい。

応募要項などは……
上記リンクから、マイキーさんの告知記事をご参照下さい!(この辺が『いやんべでほでなす』たる所以)

それでは早速参ります!

青豆ノノさん

私の最も尊敬するnoterさんです。
読んだら必ず心を動かされる文章を紡がれる、稀代の作家だと思っています。

こういう企画にお誘いしていいものかどうか、かなーりドキドキしながらもお誘いしちゃう! 

青豆さん、もし、もしよろしかったら……
よろしくお願いしますっ! ┏○ペコッ 


猿荻レオンさん

ビールの「る」で始まるエッセイをお願いするので、猿荻さんにお声がけしないわけにはいかない気がします。
「び」でないことを詫びながら……

唯一無二の視点をお持ちで、どのエッセイを読ませていただいても面白い!
特にフード系エッセイ(日記?)はクセになる味わい!

よろしくお願いしますっ! ┏○ペコッ 


えむのマイトンさん

「なんのはなしですか」と言われるかも知れませんが……。
とにかく、話題が豊富な上に、私のような「付け焼刃」ではない、しっかりとした知性が感じられながらも、読みやすくて面白い記事をお書きになります。

活躍の幅も広く、様々な企画にも積極的にご参加されているので、お願いしちゃおうかな、と思いました!

よろしくお願いしますっ! ┏○ペコッ


はい!
ということで、まるで身の程知らずな、そして豪華な、3名の皆さんにバトンを繋がせていただきたいと思います!

お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、完全に「私が読みたいから」というのが、お誘いした最大の理由でございますっ!

急なお願いで申し訳ありません!
気が向いたら、ぜひご参加いただきたいな、と思います!



#エッセイしりとり
#バトンリレー


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