【長編小説】病院の向かいの喫茶店|第五章 九時ちょうど
好きなものの欄は、空けたままにした。
『病院の向かいの喫茶店』第五章「九時ちょうど」です。
毎朝八時半に来て、九時ちょうどに出ていく人の話です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。
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七月に入って、けやきの影が濃くなった。
朝、店の前を掃くとき、影のところだけ地面が乾いていない。日が高くなると、その線が少しずつ動いて、昼には店の壁まで届く。
七時前の店は、まだ涼しい。戸を開けて風を入れると、床のあたりにたまっていた匂いが出ていく。かわりに、外の草の匂いが少し入ってきた。
篠田さんは、いつものように箱から棒を出して、レジの引き出しに落としている。
「おはようございます」
「はいよ」
七時になってから、店の二階の窓を開けにいく。四月から、これだけは自分でやっている。
階段は急で、六段目だけ鳴る。いつのまにか、そこだけ足を強く置かないようになった。窓を開けると、けやきの上のほうの葉が、目の高さにある。
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覚えたことが、いくつかある。
七時十五分の三人は、奥のテーブルの壁ぎわから順に座る。新聞は真ん中の人が取って、右の人に渡す。左の人は読まない。
七時四十分の早坂さんは、水を先に飲む。コーヒーより先に、必ず水を一口。
「それ、癖なんですよね」
一度、そう言われたことがある。
「夜勤のあいだ、水って飲むひまがないんですよ。だからここで、まず一杯」
十時すぎの岩本さんは、コーヒーが来るまで、おしぼりで手を三回拭く。二回でも四回でもない。拭き終わると、たたんで受け皿の横に置く。使ったほうを内側にして。
「あんた、見とるな」
数えているのを見つかって、そう言われた。
「すみません」
「だで、謝るなて」
そういうことを、ノートに書いている。
書いても誰も見ない。それでいい、と思っている。
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八時半の人だけが、分からなかった。
窓ぎわの、いちばん奥。おしぼりはカゴから自分で取る。コーヒーを一杯。九時ちょうどに出ていく。
三か月、それが一度も変わらなかった。
砂糖は使わない。ミルクもいらない。この時間ならトーストとゆで卵が付くのに、それも断る。新聞も読まず、スマホも出さず、ただ窓の外を見て、少しずつ飲む。そして時計を見ないのに、九時ちょうどに立ち上がる。
好きなものが、なにもない人みたいに見えていた。
一度だけ、聞こうとしたことがある。「いつもブラックですね」と言いかけて、そのあとが続かないと気づいてやめた。
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七月の第二週に、わたしはその人のコーヒーに、ミルクを添えて出した。
わざとではない。次の卓のぶんと取り違えた。
出してから気がついて、下げようとした。
その人は、もう一口飲んでいる。ミルクには手をつけていない。
断ることも、下げてくれと言うこともしない。ただ、ないものみたいにして飲んでいる。
卓の上で、それだけが余っていた。白くて、小さくて、開けられるのを待っている。
「あの、すみません」
「ああ」
それだけだった。小さな入れものは、そのまま置いてある。
聞けば済むことだった。聞かなければ、間違えたことにならない気がした。
九時ちょうどに、その人は立ち上がった。
立ち上がるとき、指先でミルクを少しだけ押しやった。カウンターのほうへ、二センチほど。
何も言わずに、出ていった。
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その日、レジのところで待っていた。
篠田さんは、いつものようにカウンターを拭いている。何も言わない。
言われるのを待っているのだと、途中で気がついた。それで、こっちから言う。
「あの。さっき、ミルクを間違えて」
「ふん」
「……すみません」
篠田さんは、ふきんを絞り直しただけ。
「もういっぺん出したらよかったな」
「え」
「間違えたぶん」
そう言って、奥へ行った。
叱られたほうが楽だと思った。
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その日の昼、公園のベンチでスマホを開いた。
「お客様の好みを覚えるには、どうすればいいですか」
『来店時の注文や選択を観察し、記録しておくことが有効です。次回の来店時にその情報を活かすと、より良い接客につながります。』
読んで、しばらく画面を見ていた。
観察して、記録して、次に活かす。
三か月、そうしてきた。ノートは七ページになっている。
それでも分からない人が、一人いる。
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次の日、コーヒーだけを出した。ミルクは添えない。
その人は、一口飲んで、窓の外を見た。窓のほうを向いているので、こちらからは横顔しか見えない。まばたきの回数が少ない。
九時ちょうどに立ち上がって、出ていく。何も言わない。
その次の日も、同じだった。カップを置く位置まで同じで、輪の跡が前の日のところにきれいに重なる。
三日目に、カゴのおしぼりの位置を直した。手を伸ばすとき、体をひねらなくていい場所に。
その日も、何もなかった。取ってはくれたけれど、それだけ。
見ていないのかもしれない、と思った。
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四日目の朝、九時になる少し前に、その人が言った。
「あの人は、砂糖入れんけど、ミルクは入れとったよ」
顔を上げた。
その人は、こちらを見ていない。窓の外を見たまま、もう一度言った。
「十時ごろの、口の悪い人」
「……岩本さん、ですか」
「名前は知らん」
「あの、どうして分かるんですか」
「前は、もっと早う来とった」
窓の外を見たまま、それだけ言った。
「そのころは、あの人も早かったで」
いつのことですか、と聞きそうになって、やめた。聞いていいことと、そうでないことの境目が、まだ分からない。
その人は、それ以上なにも言わずにコーヒーを飲んでいた。
カップを空にして、九時ちょうどに立ち上がる。
「どうも」
「ありがとうございました」
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それから、たまに言うようになった。
毎日ではない。何日も何も言わない日がある。いつも九時になる少し前で、いつも窓の外を見たまま。
「朝の三人な。左の人は、パンの耳を残す」
皿に集めておくと、持って帰る日がある。
「朝の、目の下が黒い人。疲れとる日は、パンを残すよ」
言われて見ていたら、たしかにそうだった。いつもは皿がきれいなのに、その日だけ端に寄せてある。
「八百屋のばあさんは、ふた月にいっぺんだけ来る」
「そうなんですか」
「年金の次の日や」
七月には、その日がない。次は来月だと、指を折って数えた。
八月になったら見ていよう、とノートの端に書いた。
ぜんぶ、わたしが三か月で気づけなかったこと。
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七月の終わりの朝、その人が財布を出したとき、白い封筒が一緒に落ちた。
病院の名前が入った封筒だった。
しゃがんで拾った。角が少しやわらかくなっている。
渡すとき、宛名が見えた。
大槻。
下の名前まで読めたけれど、読まなかったことにした。
「すみません」
その人は、封筒を上着の内側に入れた。
「どうも」
それだけ言って、出ていく。
時計は、九時ちょうど。
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上がる前に、篠田さんに聞いてみた。
「大槻さん、コーヒーはブラックですよね」
篠田さんは、カップを重ねる手を止めた。
止めてから、何も言わずにまた重ねはじめる。
「そうやな」
それだけだった。
わたしは、それ以上聞かなかった。
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その日の帰り、店を出る前に、窓ぎわのいちばん奥の席に座ってみた。
誰もいない時間だった。篠田さんは奥にいる。
椅子は、座面のまん中が少しへこんでいた。角が丸くなって、手のひらが沈む形になっている。
座ると、窓の高さがちょうどよかった。立っているときとは、見えるものが変わる。カウンターの中は死角になって、篠田さんが何をしているか分からない。
道路の向こうに、白い建物が見える。ここからだと、入口の自動ドアと、その上の階の窓がいくつか見えた。窓は全部同じ形で、同じ間隔で並んでいる。カーテンの開き方だけが、一つずつちがった。
どの窓なのかは、分からない。
毎朝、この人はここに三十分いる。数えたら、七十回をこえていた。
九時ちょうどに立ち上がるということは、九時から何かが始まるということだ。
そこまで考えて、やめた。考えても分からないことを考えるのは、まだ怖い。
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エプロンのポケットからノートを出して、名前のところに書いた。
大槻さん。八時半。窓ぎわの奥。コーヒー一杯。九時ちょうどに出る。
好きなものの欄は、空けたままにした。
ほかの人のことは、あの人が教えてくれた。
あの人のことは、誰も教えてくれない。
いつか書けるだろうと思った。あの人は、毎朝八時半に来る。
ページの端を折って、閉じた。
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(第六章へつづく)
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第一章「薄いコーヒー」から読む
第二章「かたいゆで卵」を読む
第三章「落とした一枚」を読む
第四章「蒸らし」を読む
作品のもくじ
第六章も、この場所に置きます。
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