【86回目noteマネー掲載】第百二十九章:消費税×ゲーム理論―インボイスがB2B市場を再編する―
第百二十九章:消費税×ゲーム理論―インボイスがB2B市場を再編する―

――α=1、発注者に残された三つの選択――
登録は任意なのに
夜。
みおは、片山財務大臣がインボイス制度について答える動画を見ていた。
画面の向こうから、聞き慣れた言葉が流れてくる。
インボイス登録。
免税事業者。
仕入税額控除。
登録するかどうかは、事業者の判断。
みおは動画を止めた。
みお:
「インボイス登録は、任意なのよね?」
あおい:
「うん。法律が、すべての免税事業者へ登録を命じているわけではない。」
みお:
「だったら、登録しないまま仕事を続けてもいいのよね?」
あおい:
「法律上はね。」
みお:
「法律上は?」
あおいは、画面に三つの記号を書いた。
B:免税・インボイス未登録事業者
C:本則課税を行う発注事業者
D:インボイス登録済みの競合事業者
あおい:
「今日は、登録しないBさんではなく、Bさんへ発注するCさんの椅子に座ってみよう。」
みお:
「発注する側から見るの?」
発注者Cの椅子に座る
今回も、これまで使ってきた単純化モデルで考える。
すべて10%対象の税込価格とする。
AからBへの販売:400万円
BからCへの販売:550万円
Cから消費者への販売:660万円
Cの売上660万円に対応する消費税額は、
660万円×10/110=60万円
Bからの仕入れ550万円に対応する税額相当額は、
550万円×10/110=50万円
仕入税額を全額控除できれば、Cの納付額は、
60万円-50万円=10万円
となる。
これが、仕入税額控除が完全に機能している場合の計算である。
ここで、Cの利益率を3.5%とする。
660万円×3.5%=23.1万円
Cは660万円を売り上げても、残る利益は23.1万円しかない。
みお:
「ずいぶん薄いわね……。」
あおい:
「このCさんに、インボイス未登録Bさんとの取引による追加負担が現れる。」
運営が変えるのは、αである
インボイス未登録事業者からの仕入れについて、経過措置で控除できる割合を m とする。
そして、控除できない割合を α とする。
α=1-m
8割控除なら、
m=0.8
だから、
α=0.2
となる。
7割控除なら、
m=0.7
だから、
α=0.3
である。
次に、Bからの仕入れに対応する税額相当額を T とする。
全額控除できる場合と比較して、Cの納付税額へ追加される金額は、
追加負担=Tα
今回のモデルでは、
T=50万円
である。
したがって、8割控除では、
50万円×0.2=10万円
7割控除では、
50万円×0.3=15万円
5割控除では、
50万円×0.5=25万円
3割控除では、
50万円×0.7=35万円
そして控除ゼロでは、
50万円×1=50万円
となる。
10万円。
15万円。
25万円。
35万円。
50万円。
控除率が下がるたび、同じ取引を続けるCの負担は一方向へ増えていく。
みお:
「Bさんの価格は変わっていないのに、Cさんの負担だけが増えてる!」
あおい:
「運営が変えたのは、価格じゃない。αだよ。」
みおちゃんの実質単価が上がる
ここで、同じ仕事をする二人を置いてみよう。
みおは、免税・インボイス未登録事業者。
Dは、インボイス登録済みの競合事業者。
二人とも、比較の基礎となる価格は100万円。
支払額を110万円とする。
登録済みDとの取引では、Cは要件を満たせば10万円を全額控除できる。
したがって、Cから見たDの実質コストは、
100万円
である。
一方、未登録のみおとの取引では、控除できない金額がCに残る。
全額控除
控除不能率:0%
Cの追加負担:0万円
Cから見た実質コスト:100万円
8割控除
控除不能率:20%
Cの追加負担:2万円
Cから見た実質コスト:102万円
7割控除
控除不能率:30%
Cの追加負担:3万円
Cから見た実質コスト:103万円
5割控除
控除不能率:50%
Cの追加負担:5万円
Cから見た実質コスト:105万円
3割控除
控除不能率:70%
Cの追加負担:7万円
Cから見た実質コスト:107万円
控除ゼロ
控除不能率:100%
Cの追加負担:10万円
Cから見た実質コスト:110万円
つまり、Cの比較表では、みおの実質コストだけが、
100万円
↓
102万円
↓
103万円
↓
105万円
↓
107万円
↓
110万円
へ上がっていく。
みお本人は、一円も値上げしていない。
Dも、一円も値下げしていない。
それでも、Cから見た二人の価格順位は変わる。
税制が、取引先の相対的な価格を書き換えたのである。
みお:
「私が免税事業者というだけで、なんで私の実質単価だけが上がっていくのよ!」
あおい:
「みおが値上げしたからじゃない。Cさんが控除できない割合が上がるからだよ。」
インボイスは、まだ本気を出していない
免税事業者など、インボイス発行事業者以外からの課税仕入れについて、控除できる割合は段階的に下がる。
8割控除
↓
7割控除
↓
5割控除
↓
3割控除
↓
控除不可
控除不能率αへ反転すると、
20%
↓
30%
↓
50%
↓
70%
↓
100%
となる。
現在の20%から、最終的には100%。
控除不能率は、現在の5倍になる。
あおい:
「だから、2割特例・8割控除のインボイスは、まだ本気を出していない。」
みお:
「やる気スイッチみたいに言わないで!」
運営:
「現在は、まだ20%の出力に制限しておりますぅ💗」
みお:
「残り80%は永久に封印しておいて!」
あおい:
「解除スケジュールは、もう制度表に書かれているよ。」
みお:
「ラスボスの最終形態が公表済みなの!?」
2割特例と8割控除は、鏡だった
このモデルで、Bの売上税額は50万円である。
Bが登録して2割特例を使えば、納付額は、
50万円×20%=10万円
となる。
一方、Bが未登録を維持すれば、8割控除によってCに残る控除不能額も、
50万円×20%=10万円
である。
次の段階では、要件を満たす個人事業者が3割特例を使えば、
50万円×30%=15万円
Bが未登録を維持し、Cが7割控除を使えば、Cに残る金額も、
50万円×30%=15万円
となる。
Bが登録する。
Bが10万円、次は15万円を納める。
または、
Bが未登録を維持する。
Cに10万円、次は15万円が残る。
みお:
「同じ数字を、BさんかCさんのどちらかに置いてるだけじゃない!」
あおい:
「登録すれば、Cさんから見た相対価格の上昇はそこで止まる。」
登録とは、税負担を消す選択ではない。
税負担の置かれる場所を、Cの控除不能額から、登録したB自身の納税額へ移す選択である。
登録とは、負担を自分へ固定し、商流を守る選択である。
3割・7割を越えると、鏡が壊れる
Bが課税事業者となり、本則課税を行う場合を計算してみよう。
Bの売上税額は、
550万円×10/110=50万円
Aからの仕入税額は、
400万円×10/110=約36.36万円
したがって、Bの本則課税による納付額は、
50万円-約36.36万円=約13.64万円
となる。
3割特例なら15万円。
本則課税なら約13.64万円。
おおむね14万円から15万円の範囲である。
ところが、Bが未登録を維持した場合にCへ残る負担は、その先も増えていく。
7割控除:15万円
5割控除:25万円
3割控除:35万円
控除ゼロ:50万円
Bが登録した場合の納付額より、未登録Bと取引を続けるCの不利益の方が、はるかに大きくなる。
みお:
「Bさんが登録すれば約14万円なのに、未登録のままだとCさんに最後は50万円!?」
あおい:
「α=1だからね。」
法形式上、これはCへの懲罰税という名前ではない。
仕入税額控除が認められないという取扱いである。
しかし経済的な出力を見れば、未登録Bとの取引を継続するCに対する、強い取引上のペナルティとして働く。
Bを直接課税するのではない。
Bを選び続けるCへ、より大きな負担を置くのである。
α=1で、Cの利益構造が壊れる
Cの利益は23.1万円。
控除ゼロによる追加負担は50万円。
23.1万円-50万円=マイナス26.9万円
Cが50万円を単独で吸収すれば、黒字だった取引は赤字になる。
では、BとCが半分ずつ負担すればよいのだろうか。
Cの負担は25万円。
23.1万円-25万円=マイナス1.9万円
半分ずつでも、Cは赤字になる。
Cが元の利益を維持するため、Bが50万円をすべて値下げするとしよう。
50万円÷550万円=約9.1%
Bは、売上の約9.1%を値下げしなければならない。
消費者へ転嫁すれば、登録済みDから仕入れる競合より販売価格が高くなる可能性がある。
50万円は、交渉しても消えない。
誰が負担するか、どの取引を消すかが変わるだけである。
Cに残された三つの選択
短期的には、Cが負担を吸収する、Bへ値下げを求める、消費者へ転嫁するという調整も考えられる。
しかし、α=1による50万円を恒常的に吸収できないなら、Cは取引構造そのものを変えなければならない。
最終的な選択肢は、三つへ近づく。
1.Bにインボイス登録を求める
Bが登録して課税事業者になる。
Cは、要件を満たせば仕入税額控除を回復できる。
Bは自ら消費税を申告・納付し、登録事業者としてB2B市場に残る。
2.Bを切り、登録済みDへ切り替える
Cは、登録済みDへ発注先を変更する。
Cは仕入税額控除を回復する。
Bが担当していた仕事は、Dへ移る。
3.Bとの取引をやめ、その事業分野から撤退する
登録済みの代替事業者が存在せず、値上げも値下げもできない場合、Cはその商品やサービスの取扱い自体をやめる可能性がある。
Bだけが市場から消えるのではない。
Bが支えていた商品、サービス、地域の細い商流そのものが消える。
みお:
「Cさんが50万円を払って、今までどおり取引する選択肢は?」
あおい:
「続ければ赤字になる。」
みお:
「じゃあ、Bさんに登録してもらうか、Dさんへ替えるか……。」
あおい:
「どちらもできなければ、その仕事自体をやめる。」
みお:
「登録、取引先変更、事業撤退。事実上、三つしか残ってないじゃない!」

インボイス登録ゲーム
ここで、同じ市場で競争するAとBを置く。
AとBは、どちらも未登録を維持するか、インボイス登録するかを選べる。
二人の組合せは、四つである。
1.AもBも未登録
A:互角
B:互角
AとBは、同じ税務条件で競争する。
ただしCには、AとBのどちらと取引しても Tα が発生する。
競合間では互角だが、Cにとって有利な状態ではない。
2.Aは未登録、Bは登録
A:不利
B:有利
未登録Aとの取引にだけ、Cへ Tα の価格ハンデが発生する。
価格、品質、納期が同じなら、Cは登録済みBを選びやすい。
3.Aは登録、Bは未登録
A:有利
B:不利
今度は、未登録Bとの取引にだけ Tα が発生する。
Cは登録済みAを選びやすい。
4.AもBも登録
A:互角
B:互角
未登録であることによる相対価格のハンデは消える。
AとBは、登録事業者として同じ条件で競争する。
ここから、それぞれの最適戦略が見えてくる。
Bが未登録なら、Aは先に登録することで有利になれる。
Bが未登録
↓
Aが先に登録
↓
Aが有利、Bが不利
Bがすでに登録しているなら、Aは自分だけ未登録でいる不利を消したくなる。
Bが登録
↓
Aだけ未登録では不利
↓
Aも登録
↓
登録・登録
相手が裏切るかもしれないと予想する必要すらない。
相手が未登録なら、自分が先に登録する個別利得がある。
相手が登録したなら、自分も登録して不利を消す誘因がある。
しかもαが上がるほど、未登録側の不利は強くなる。
αが上がる
↓
Tαが増える
↓
未登録者を選ぶCのコストが増える
↓
登録側の相対的な利得が大きくなる
みお:
「プレイヤーが戦っている途中で、ゲーム盤そのものを登録側へ傾けてる!」
あおい:
「時間が経つほど、未登録戦略の条件が厳しくなるからね。」

制度への評価と、個人の最適行動は別である
インボイス制度に反対することと、インボイス登録することは矛盾しない。
制度への評価とは、
この制度は公正か。
社会全体にとって望ましいか。
廃止・修正すべきか。
を考えることである。
一方、制度下での個人行動とは、
現行制度が動いている間、自分の受注、利益、商流、生活をどう守るか。
を考えることである。
制度への評価と、制度下での個人最適化行動は別である。
制度に反対していても、事業を守るため登録することはできる。
登録したまま、制度の廃止や修正を求めることもできる。
むしろ事業を失えば、反対を続ける基盤そのものを失う。
みお:
「制度に反対するなら、未登録を貫かなきゃいけないの?」
あおい:
「悪いゲームに反対することと、そのゲームで自分から負けることは別だよ。」
制度に反対するにしても、制度の中で生き残らなければならない。
反転の悪魔
そのとき、部屋に冷たい空気が流れた。
扉が開いたわけではなかった。
気づいたときには、黒い衣装をまとった女が、みおの後ろに立っていた。
悪意は感じない。
しかし、善意も感じない。
女の周囲には、砕けた鏡が音もなく浮かんでいる。
鏡の一枚に、文字が映った。
登録は任意です。
女が、静かに掌を返す。
鏡が反転した。
その裏側には、別の言葉があった。
未登録者との取引には、最大Tの控除不能額。
別の鏡には、
自由な取引判断。
と書かれている。
鏡が反転する。
登録。取引先変更。事業撤退。
どちらも、制度上は真実だった。
しかし片側だけを見ていれば、もう片側の出力は見えない。
女は、誰も責めなかった。
何も命じなかった。
ただ、鏡を置いた。
反転の悪魔は敵ではない。
ただ、偽りの真実を写すだけ。

インボイスが再編する市場
Bが登録する。
Dも登録する。
Eも、Fも登録する。
登録事業者が増えるほど、Cは登録事業者だけで必要な仕入れを賄いやすくなる。
登録事業者が増える
↓
Cが登録事業者だけで調達できる
↓
未登録Bを選ぶ必要性が下がる
↓
Bの交渉力が下がる
↓
Bにも登録圧力がかかる
↓
さらに登録事業者が増える
誰かが、市場再編を命令する必要はない。
Cは、自社の利益を守っただけである。
Bは、受注を守るため登録しただけである。
Dは、市場で選ばれる条件を整えただけである。
それぞれの合理的な行動を合成すると、登録事業者中心の取引網が拡大する。
インボイスは、単なる請求書の保存方式ではない。
登録番号の有無によって、取引相手の実質コストを変える。
実質コストを変えることで、発注先を変える。
発注先を変えることで、商流を変える。
商流を変えることで、市場の構成そのものを変える。
税制
↓
相対価格
↓
経営判断
↓
商流再編
↓
市場再編
インボイス制度は、国内B2B市場を、登録した課税事業者中心の取引網へ再編成する。

みお、街を見る
翌日。
みおは、街を歩いていた。
小さな工務店。
一人で仕事をする職人。
デザイナー。
配送業者。
地域の卸売事業者。
店先を見ても、その事業者がインボイス登録しているかどうかは分からない。
仕事の品質にも、登録番号は書かれていない。
本人が値上げしたわけでもない。
しかし、会社の中では別の価格表が動いている。
仕入価格。
控除不能額。
実質コスト。
登録状態。
代替できる取引先。
Cが、Bへ登録を求める。
Bが登録する。
別のCは、登録済みDへ発注を移す。
登録済みの代替先が存在しない地域では、その仕事自体が消える。
誰かが、市場からの追放を命じたわけではない。
それぞれが、自分の利益と事業を守ろうとしただけだった。
みおは、スーパーのレジに立った。
商品が一つ、読み取られる。
ピッ。
Bに登録を求めたC。
登録して商流に残ったB。
登録済みDへ仕事を移したC。
もう一つの商品が読み取られる。
ピッ。
αは20%から30%へ。
50%へ。
70%へ。
そして100%へ。
未登録事業者の価格は変わっていない。
品質も変わっていない。
納期も変わっていない。
それでも、その事業者を選ぶコストだけが上がっていく。
もう一度、レジが鳴った。
ピッ。
インボイスは、登録を直接命令しない。
未登録事業者と取引することを不利にする。
その結果、市場自身が、
登録した課税事業者を中心に再編成されていく。
ピッ。
その音は今日も、誰かの事業を削る音だった。

このモデルの前提
本稿は、インボイス制度が本則課税事業者を買手とするB2B市場へ与える作用を確認するための単純化モデルである。
税率は10%
取引価格はすべて税込価格
Bは免税・インボイス未登録事業者
Cは本則課税を行う課税事業者
登録済み事業者からの仕入れでは、Cが要件を満たせば通常どおり仕入税額控除を受けられる
Cの利益率は3.5%と仮定
価格、品質、取引量、ほかの仕入れや経費は変わらないものとする
T は、全額控除できる取引なら控除対象となる仕入税額相当額
α は、そのうち控除できない割合
本文の「実質コスト」は、未登録事業者が実際に値上げしたという意味ではない。
全額控除できる登録事業者との取引と比較して、買手Cに残る控除不能額を取引コストへ加えた単純比較である。
また、「懲罰的」「ペナルティ」「市場再編」は法令上の名称や政府の公表目的を示すものではなく、同じ価格・同じ取引条件を置いた場合に生じる経済的な効果を表現している。
B2C中心の事業、買手が簡易課税や2割特例・3割特例を適用する場合、少額特例、帳簿のみで控除できる取引、代替困難な商品や技術、未登録側に十分な価格差がある取引などでは、異なる結果になり得る。
3割特例は、所定の要件を満たす個人事業者の令和9年分・令和10年分の申告に適用できる制度であり、法人には適用されない。
参考資料
【14年越しの答え合わせ】片山さつきが残した問いを、安藤裕が引き継いだ
参考動画:
【彼女は全てを知っていた。】
【制度側の自白と、14年越しの答え合わせ】
ここから先は、あえて繰り返す。
なぜなら、これは単なる国会質疑ではないからだ。
消費税という制度が前提としてきた「円滑かつ適正な価格転嫁」と、現実の市場で起きていること。
その二つが、国会という公の場で正面から衝突した「事件」の記録だからである。
自由主義経済において、価格は制度の予定通りには動かない。
原価が上がったからといって、その全額を価格へ転嫁できるとは限らない。
消費税率が上がったからといって、その分だけ売価を上げられるとも限らない。
価格転嫁できなくても、消費税の負担は消えない。
事業者の利益、賃金、賞与、投資、資金繰りへと移っていく。
その瞬間、消費税の問題は「価格転嫁」の問題ではなく、税金コストを誰に負わせるかという問題へ変わる。
2012年。
一人の政治家が、その危険性を国会で指摘していた。
片山さつき議員である。
そして14年後。
片山さつきが残した問いを、安藤裕が引き継いだ。
問いを受ける側に座っていたのは、財務大臣となった片山さつきだった。
これは、制度の外から制度を批判していた者が、制度の頂点へ立ったとき、どのように言葉を変えるのかという記録でもある。
2012年、彼女はすべてを知っていた
「もう、手のつけられないようなことになりますよ」
2012年。
野党時代の片山さつき議員は、消費税増税が経済へ与える影響について、強く警告していた。
住宅。
地方経済。
中小零細企業。
街の蕎麦屋。
普通の床屋。
価格を上げたくても上げられない、小さな事業者たち。
片山議員は、消費税が単なる「消費者の負担」では終わらないことを、具体的な例で指摘していた。
たとえば、街の蕎麦屋である。
今、お蕎麦屋さんは税込み630円でお蕎麦を出していますけど、660円にできますかね?
これは、単なる問いではない。
消費税の制度と市場の現実を知る者が、問いの形で提示した答えである。
全国一律の価格を持つ大手チェーンなら、まだ値上げしやすいかもしれない。
しかし、地域の客に支えられている小さな店はどうか。
街の蕎麦屋はどうか。
普通の床屋はどうか。
値上げによって客を失う可能性がある店に、「税率が上がったのだから、その分を価格へ転嫁すればよい」と簡単に言えるだろうか。
片山議員は当時、年間売上3000万円以下の中小零細企業について、5割から7割が価格転嫁できていないという調査があると述べていた。
さらに、滞納税額の約半分に当たる3400億円が消費税であるとも指摘した。
つまり、彼女は知っていた。
消費税は「価格へ転嫁されることを予定している」と説明される。
しかし現実の市場では、弱い立場の事業者ほど、その予定通りに転嫁できない。
消費税は、制度の予定と市場の現実が一致しなければ成立しない税だった。
2012年の片山さつきは、その矛盾を知っていた。
14年後、問いが戻ってきた
それから14年後。
今度は、参政党の国会議員として国政に復帰した安藤裕が、同じ問題を国会で問い始める。
答弁席に座っていたのは、財務大臣となった片山さつきだった。
安藤議員が最初に確認したのは、消費税の納税義務者である。
法律上、消費税を納める義務を負っているのは誰なのか。
消費者なのか。
事業者なのか。
答弁は明確だった。
消費税法上の納税義務者は、事業者である。
政府は消費税について、価格への転嫁を通じて、最終的には消費者が負担することを予定していると説明する。
しかし、それは経済的な負担についての予定である。
税法上の納税義務とは別の話だ。
税法上、消費者は消費税の納税義務者ではない。
消費税を申告し、納付するのは事業者である。
ここで安藤議員は、さらに問いを進めた。
消費者から受け取った消費税を税務署へ納めず、事業者が自分の利益にしているとされる、いわゆる「益税」は制度上存在するのか。
これに対して片山財務大臣は、法律上はそのような関係にはならないと答えた。
消費者は、消費税法上の納税義務者ではない。
したがって、消費者が納めるべき税金を事業者が預かり、それを国へ納めずに利益にしているという法構造にはならない。
法律上、益税は存在しない。
ここで、長年語られてきた消費税の物語が揺らぎ始める。
完全転嫁という幻想
多くの人は、消費税を次のように理解している。
まず原価がある。
そこに適正な利益を乗せる。
そして、その上に消費税10%を上乗せする。
消費者がその10%を支払い、事業者が一時的に預かり、後から税務署へ納める。
このモデルでは、消費税によって事業者の利益が削られることはない。
人件費も削られない。
消費税は売価の外側へ完全に上乗せされ、最終消費者がすべて負担するからである。
しかし、このモデルが成立するためには、強い前提が必要になる。
すべての事業者が、原価と必要な利益を確保したうえで、消費税相当額を完全に価格へ上乗せできること。
つまり、価格転嫁率100%の市場である。
もし本当に、すべての取引がこの通りに行われているなら、赤字企業はほとんど存在しない。
低賃金労働者もいない。
買いたたきもない。
利益を確保したうえで、消費税分まで価格へ上乗せできるのだから、消費税を払えずに資金繰りへ行き詰まる事業者も存在しないはずである。
だが、現実は違う。
赤字企業がある。
低賃金労働者がいる。
買いたたきがある。
価格交渉力の弱い事業者がいる。
値上げすれば客を失う店がある。
原材料費が上がっても、売価へ十分に転嫁できない事業者がいる。
「原価+適正な利益+消費税」という美しいモデルは、現実の市場を表したものではない。
それは、制度を成立させるために置かれた予定である。
赤字でも消費税が発生する理由
消費税の納付額は、大まかに次の式で計算される。
消費税
=
売上にかかる税額 − 仕入れにかかる税額
標準税率10%、すべて税込金額という単純なモデルなら、次のように表せる。
消費税
≒
(課税売上 − 課税仕入)× 10/110
ここで重要なのは、法人税のように、売上からすべての費用を差し引いて利益を計算しているわけではないという点である。
給与や社会保険料、支払利息など、事業に必要な支出であっても、仕入税額控除の対象にならないものがある。
そのため、法人税上の利益が赤字であっても、
課税売上 − 課税仕入 > 0
であれば、消費税は発生する。
事業者が赤字か黒字かは、消費税の計算を止めない。
消費税は、利益ではなく、課税売上と課税仕入の差額を見ているからである。
一般に、事業者は仕入れた商品へ何らかの価値を加えて販売する。
100円で仕入れた商品を、毎回50円で売り続ける事業は成立しない。
100円の原材料を使い、50円で製品を売り続ける製造業も成立しない。
したがって、事業を継続している限り、一般には、
課税売上 − 課税仕入 > 0
となる。
企業全体では赤字でも、この差額は残り得る。
だから、赤字事業者にも消費税が発生する。
赤字でも「消費税が発生することがある」のではない。
事業が付加価値を生み出している限り、赤字でも消費税が発生する構造なのである。
付加価値の先取り
課税売上から課税仕入を差し引いたものは、概ね、その事業者が新しく生み出した付加価値に対応する。
単純化すれば、
付加価値
≒
課税売上 − 課税仕入
さらに、その付加価値は概ね、
付加価値
≒
利益 + 人件費
と捉えることができる。
したがって、消費税の構造は、概ね次の式で表せる。
消費税≒ 付加価値 × 10/110
さらに単純化すれば、
消費税≒(利益 + 人件費)× 10/110
となる。
ここで、何が起きているのか。
事業者が生み出した付加価値という一つのパイがある。
本来、その付加価値は、労働者の賃金と、企業の利益などに分配される。
しかし、消費税がある世界では、その分配より先に、国の取り分が決まる。
国が消費税を先に取る。
残った付加価値を、法人と労働者が分ける。
価格へ完全に転嫁できるなら、事業者の外側へ負担を押し出せるかもしれない。
しかし、価格転嫁できなければ、消費税は付加価値の内部に残る。
利益を削る。
賃上げ原資を削る。
賞与を削る。
採用を抑える。
設備投資を遅らせる。
資金繰りを圧迫する。
税負担が消えるわけではない。
負担する場所が変わるだけである。
安藤議員が述べた「賃上げする原資を持っていく前に、消費税を納税しろと言われている」という言葉は、この構造を表している。
消費税は、付加価値という一つの財布から、国が先に取り分を確保する税である。
その残りを、法人と労働者が分ける。
これが、「付加価値の先取り」である。
レシートに書かれた「内消費税」
安藤議員は、レシートの表示にも踏み込んだ。
たとえば、1100円の商品を買ったとする。
レシートには、
「内消費税100円」
と書かれている。
では、この100円は法律上、何なのか。
政府側の答弁は、次のようなものだった。
その取引について課されるべき消費税額に相当する額であり、課税資産の譲渡等の売上に対する対価の一部である。
つまり、レシートに「消費税」と書かれていても、それは消費者が税務署へ納めた税金そのものではない。
事業者が消費者から預かった税金そのものでもない。
事業者がそのまま税務署へ納付する金額でもない。
その売価で取引が成立したという事実と、その税込価格の内訳が表示されているだけである。
レシート表示からは、実際にいくら価格転嫁されたのか分からない。
事業者がいくら納付するのかも分からない。
その取引によって、事業者の利益がいくら残ったのかも分からない。
それでも、多くの人は「内消費税100円」という表示を見ることで、自分が100円の税金を納めたと認識する。
そして、事業者はその100円を預かっているだけだと考える。
ここから、「預かった税金を納めない免税事業者はずるい」という益税の物語が生まれる。
しかし、法構造は違う。
消費者は納税義務者ではない。
レシートに書かれた100円は、売上の対価の一部である。
事業者の納付額は、レシートの表示額ではなく、売上税額と仕入税額の差額によって決まる。
レシートは、価格転嫁に成功した証拠ではない。
預り金が存在する証拠でもない。
そこに記録されているのは、
「その価格で、一つの取引が成立した」
という事実である。
2012年の言葉と、2026年の言葉
2012年の片山さつき議員は、市場の現実を語った。
街の蕎麦屋は、630円を660円にできるのか。
中小零細企業は、本当に消費税を価格へ転嫁できているのか。
価格を上げられない事業者に、消費税は何をもたらすのか。
彼女は、制度の予定ではなく、現場で起きていることを見ていた。
それから14年後。
財務大臣となった片山さつきは、制度を守る側の言葉を語る。
消費税は、価格への転嫁を通じて、最終的には消費者が負担することを予定している。
消費税相当額は、適切に価格へ転嫁される。
同じ人物の中に、二つの言葉が存在する。
市場の現実を見る言葉。
制度の予定を守る言葉。
片山さつきは、なぜ言葉を変えたのか。
本当に考え方が変わったのかもしれない。
財務大臣として税制全体を守らなければならないのかもしれない。
党内の力学や、財務省との関係が影響したのかもしれない。
あるいは、本質的な認識は変わっていないまま、立場によって使用する言葉だけが変わったのかもしれない。
その答えは、本人にしか分からない。
だが、確かなことが一つある。
2012年に指摘されていた問題は、14年後も解決していない。
価格転嫁できない事業者がいる。
赤字でも消費税が発生する。
消費税の滞納が続いている。
賃上げが必要だと言いながら、賃上げ原資から先に消費税を取る構造が維持されている。
そして今も、政府は消費税を「景気に左右されにくい安定財源」と説明する。
だが、景気に左右されにくいということは、裏返せば、景気が悪くても取り続けるということである。
人々の生活が苦しくても。
企業の経営が苦しくても。
赤字でも。
資金繰りが限界でも。
付加価値が残る限り、消費税は発生する。
それを、本当に「安定」と呼んでよいのだろうか。
これは事件の記録である
14年前、片山さつきは問いを残した。
そして今、安藤裕がその問いを引き継いだ。
問いを受ける側に座っていたのは、財務大臣となった片山さつきだった。
2012年の片山さつきは、市場の現実を語った。
2026年の片山財務大臣は、制度の予定を語った。
変わったのは、市場ではない。
彼女が座る椅子だった。
制度の外から市場を見れば、価格転嫁できない事業者が見える。
制度の頂点から税制を見れば、「円滑かつ適正に転嫁されることを予定している」という説明になる。
事実が変わったのではない。
観測する位置によって、使用する言葉が変わった。
制度という怪異の頂点に座った者は、その構造を守るための部品として再定義される。
14年前の彼女の言葉が正しければ正しいほど、現在の答弁は、この国の政治が市場の現実よりも制度の維持を選んだことの証明になる。
これは、片山さつき一人の変節を責める物語ではない。
誰がその椅子へ座っても、同じ言葉を語らざるを得ないのだとしたら、問題は個人ではなく構造にある。
だから、問いに向き合わなければならないのは、彼女だけではない。
その変節を制度の「仕様」として受け入れ、今日もレジの音を聞き流している、私たち自身である。
失われた30年をもたらしたのは、果たして誰なのだろうか。
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