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不毛な議論は、「相手が言っていないこと」への反論

「教養のある人は、話が面白い」と書いたとします。
すると、たまに「じゃあ、話が面白い人はみんな教養があるんですか?」と返されます。いや、そんなことは言っていません。あるいは、「教養のない人は、話がつまらないってことですか?」と返される。これも言っていません。

こういうやり取りを見ていると、不毛な議論というのは、必ずしも意見が対立しているから起きるわけではないのだと思います。その前の段階で、相手が言ったことを別の主張に変えてしまっている。そして、自分で作ったその主張に反論している。これでは話が噛み合うはずがありません。

「AならばB」を「BならばA」にする

まず、もっとも分かりやすいのが「逆」です。「教養のある人は、話が面白い」を単純化して、A=教養がある、B=話が面白い、とします。元の主張は「AならばB」です。
ところが、「じゃあ、話が面白い人は教養があるんですね」と返すと、「BならばA」に変わっています。これは論理学でいう「逆」です。

雨で考えると簡単です。「雨が降れば、道路が濡れる」と言ったからといって、「道路が濡れているなら、雨が降った」とは限りません。誰かが水をまいたのかもしれない。散水車が通ったのかもしれない。
雨は道路が濡れる原因になり得ます。しかし、道路が濡れる原因が雨しかないとは誰も言っていません。

「AならばB」を「AでなければBではない」にする

次によくあるのが「裏」です。「教養のある人は、話が面白い」に対して、「では、教養のない人は話が面白くないんですね」と返す。これは「AならばB」を「AでなければBではない」に変えています。これも元の主張とは別です。
「雨が降れば道路が濡れる」から、「雨が降らなければ道路は濡れない」とは言えません。

つまり、「AがBにつながる」という主張は、「A以外ではBにならない」という意味ではありません。ところが日常の議論では、この二つがかなり簡単に混ざります。

「一つの原因」を「唯一の原因」にする

この延長で、もっと頻繁に起きるのがこれです。「教養は、話を面白くする一つの要因だ」と言ったとします。すると、「でも、教養がなくても面白い人はいますよ」と返される。
もちろん、います。

元の主張は「教養だけが人の話を面白くする」ではありません。ユーモアもある。人間観察もある。経験もある。話術もある。本人のキャラクターもある。話を面白くする要因が10個あるとして、そのうちの一つについて話しているだけかもしれません。
ところが、「AもBの原因である」という主張が、「AだけがBの原因である」に変換される。すると、A以外の原因を一つ見つけるだけで簡単に反論できます。

これは反論する側にとって、とても便利です。相手の主張を正確に検討するより、反論しやすい主張に変えた方が楽だからです。

「Aのほうが重要」を「Bはいらない」にする

比較の話でも、似たことが起きます。「子どもの読書では、冊数より自発性を重視した方がいい」と言う。すると、「じゃあ、何冊読んだかはどうでもいいんですね」となる。
違います。言っているのは「自発性 > 冊数」であって、「冊数 = 0」ではありません。

「AよりBを優先する」と「Aは不要である」は別の主張です。「仕事ではスピードより品質が大事だ」と言ったからといって、「納期を守らなくていい」とはなりません。「子育てでは結果よりプロセスを見る」と言ったからといって、「結果はどうでもいい」ともなりません。
比較しただけなのに、片方を全否定したことにされる。これも不毛な議論を作る典型です。

「傾向がある」に一例で反論する

そしてSNSで特によく見るのが、傾向の話への一例反論です。「教養のある人は、話が面白い傾向がある」とします。すると、「私の知り合いに、すごく教養があるけど話がつまらない人がいます」と返ってくる。
たぶん、いるでしょう。

でも「傾向がある」は、「100人中100人がそうである」という意味ではありません。たとえば、教養のある人の70%は話が面白く、そうでない人では40%だったとします。この場合、「教養のある人の方が話が面白い傾向がある」とは言えます。しかし、当然ながら30%には話が面白くない人がいます。その一人を連れてきても、70%と40%という差は消えません。

傾向の話を否定したければ、本来は別の集団データを持ってきて、「実際には差がない」「むしろ逆の傾向がある」と示す必要があります。「私は例外を知っている」は、傾向への反論にはなりません。

条件を勝手に外して反論する

条件付きの主張から、条件だけを消すケースもあります。「定型的な業務では、AIによる自動化の効果が大きい」と言ったとします。すると、「でも経営判断を全部AIに任せるのは危険ですよね」と返ってくる。
そうでしょう。しかし、「定型的な業務」という条件はどこへ行ったのでしょうか。

元の主張は「Xという条件ではA」です。それに対して、「Xではない状況ではAが成立しない」と示しても、元の主張への反論にはなりません。
「初心者には完成例を見せた方が学びやすい」に対して、「でも熟練者には自由に考えさせた方がいい」と言っても同じです。初心者について話しているところに熟練者を連れてきても、反例にはなりません。

議論では、結論だけでなく「どの条件で成立する主張なのか」まで読む必要があります。

「説明する」を「擁護する」にする

もう少し社会的なテーマになると、別の変換も増えます。たとえば、「なぜいじめが起きるのかを考えると、加害者が集団内で注目や地位を得られる構造も関係している」と説明したとします。
すると、「いじめる側を擁護するんですか?」と返される。

これも別の話です。何かが起きる理由を説明することと、その行為を正しいと評価することは違います。犯罪がなぜ起きるのかを研究しても、犯罪を肯定していることにはなりません。社員がなぜ退職したのかを理解しても、その退職理由に賛成したことにはなりません。
理解、説明、共感、同意、支持。これらは全部別です。

ところが議論が感情的になるほど、「理解しようとする=味方をする」という変換が起きやすくなります。そうなると、原因を考えること自体が難しくなります。

一番簡単なのは、相手の主張を極端にすること

最後は、いわゆるストローマンです。「リモートワークには欠点もある」と言った人に、「全社員を毎日出社させたいんですか?」と返す。「部下には厳しいフィードバックも必要だ」と言った人に、「パワハラを肯定するんですか?」と返す。
元の中程度の主張を、極端な主張に変えてから攻撃しています。

極端な主張は反論しやすいので、議論には勝ったような気分になります。でも実際に倒したのは、相手の主張ではありません。自分で作った主張です。

不毛な議論では、反論する前に「翻訳」が起きている

こうして並べてみると、共通点があります。

相手は「AならばB」と言った。しかし聞き手の頭の中では「BならばA」になっている。
「Aも原因である」が「Aだけが原因である」になっている。「Aの方が重要」が「Bはいらない」になっている。「傾向がある」が「必ずそうなる」になっている。「この条件では」が消えたり、「説明する」が「擁護する」に変わったりもします。

つまり、不毛な議論では、反論の前に一度、相手の主張が翻訳されています。しかも、たいてい元の主張より強く、単純で、反論しやすい形に翻訳されています。

だから、反論する前に一つだけ確認するとよいと思います。

「私は今、相手が実際に言ったことに反論しているのか?」

逆を作っていないか。裏を足していないか。一因を唯一の原因にしていないか。傾向を必ずに変えていないか。条件を消していないか。

意見が違うなら、いくらでも議論すればいい。でも、相手が言っていないことを自分で作り、それに反論しても、相手の考えは一ミリも検討したことになりません。

不毛な議論を減らすために必要なのは、反論する力より先に、相手の主張をそのまま読む力なのだと思います。


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