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貞子と、消せない脳内レコーダー

「ねえ、これ容量いっぱいだから消すよ」

妻のトラ子さんが、テレビのリモコンを手に振り返った。
DIGAの画面には、「残量が少なくなっています」という文字が表示されている。

「いや待って、いつか見るから」

「いつ見るのよ」

「だから、いつか見るってば」

「もう、じゃあ今見ればいいじゃん」

そう言うが早いか、トラ子さんは無慈悲にも再生ボタンを押した。

ピッ。
画面が暗転して、不穏なBGMとともに、去年録画した『実録! 真夏の心霊特集』のドロドロしたタイトルが浮かび上がる。

「わー、やめてやめて! 頭洗えなくなる!」

僕はソファから跳ね起き、慌ててリモコンを奪い取って停止ボタンを連打した。ふう、危なかった。トラ子さんは「はぁ?」という呆れ顔で僕を見下ろすと、テレビの電源を切った。

いい歳をした大人の男が、ホラー番組の冒頭数秒で悲鳴を上げている。情けないことこの上ない。

こんな僕だが、昔はずいぶんとホラーが好きだったのだ。
テレビで心霊特集があれば必ず録画し、宜保愛子や稲川淳二を喜んで見ていた。なんなら有名な霊能者が近所の書店でサイン会をすると聞けば、いそいそと出かけていったほどだ。稲川淳二さんの名前がついた怪談の賞をいただいたことまである。

とにかく、怪異の方から近づいてこないならこちらから近づいてやる、というくらい前のめりだった。むしろ、「怖くて見られない」という人の感覚のほうが、よく理解できなかったくらいだった。

だって、テレビの中の話じゃないか。
幽霊はテレビの向こう側にいて、番組が終わって電源を切れば、幽霊はちゃんと向こう側の世界へ帰っていったのだ。「あー怖かった」で終われたのである。

それが、いつの間にかまったく見られなくなってしまった。一体なぜだろう。
 

そういえば、日本のホラーの代名詞といえば「貞子」である。日本のホラーを通ってきた人なら、名前を聞いただけでテレビから這い出してくるあの姿が浮かぶだろう。

昔のブラウン管テレビなら、貞子が出てくるのもなんとなく分かった。奥行きがある。箱である。あの分厚い箱の中に、何かが住んでいそうな気配があった。

でも、今のテレビはどうだ。数センチしかない薄型である。あんな薄っぺらい裏側に、横向きに挟まって待機しているというのだろうか。それだと、カニ歩きみたいで威厳がないと思うが。

いや、今は動画配信の時代だ。だとしたら彼女はクラウド上に待機していて、再生ボタンを押された瞬間に遠くのサーバーからギガビット級の速度で転送されてくるのだろうか?

じゃあ、スマホで見たらどうなるんだ? あの小さな画面から原寸大でぬるりと出てくるのか、それとも一旦十二センチくらいのミニマム貞子として出てきて、床に着地してから徐々に大きくなるシステムなのか。だとしたら、大きくなる瞬間がちょっと気まずいじゃないか。

スマートウォッチだったら、もう物理的に無理だろう。ひも状になって出てくるしかない。

逆に街頭ビジョンで再生したら巨大貞子になって街を破壊するのか。車のカーナビで見たら、助手席のグローブボックスあたりからモゾモゾと出てくるのだろうか。ETCカードの代わりに……。

いや、待て。こんなことを真剣に考えている時点で、もうダメなのである。

貞子はどこへ行ったのか。僕には答えがわかっている。
ブラウン管という「箱」がなくなったから、彼女はこっちへ引っ越してきたのだ。テレビの中ではなく、僕の頭の中に。

番組で「風呂場に何かがいた」という怪談を見れば、その日の夜、自分の家の風呂場までそいつがついてくる。

山小屋の恐怖体験なんて見ようものなら、そもそも山登りなんてしない人間なのに、近所の夜道すら怖くて歩けなくなる。

小説家が夜中に机に向かっていると怪異が起きる……なんて再現ドラマを見たら最悪である。僕はいま、机へ向かってこれを書いているのだから。

(……ぱしっ)

ひっ。
今、家のどこかで小さな音が鳴った。たぶん柱かエアコンである。家は鳴る。分かっている。ところが脳内の怪談制作部が、頼んでもいないのに続きを書き始める。

以前トラ子さんに「最近ホラーが見られなくなったんだよね」とこぼしたら、「単に歳じゃない?」と一刀両断された。まぁ、それもあるのかもしれない。でも、長く文章を書いているうちに、目の前にない場面まで勝手に補完する癖がついたせいもある気がする。

昔はただ画面を見ているだけでよかったのに、今は勝手に続きを書いてしまうのだ。配役を決め、ロケ地を我が家にする。しかも主演は僕である。やめてくれ。せめて出演承諾書を持ってきてほしい。

しかも、僕の脳内HDDは、怖い番組にだけ容量制限がないらしいのだ。

どうでもいいパスワードは三日で忘れるくせに、三十年前に見た心霊写真の顔は、なぜか4Kの高画質で保存されている。さらに最悪なことに、僕の脳内レコーダーには再生ボタンがない。勝手に始まるのだ。

風呂でシャンプーをして、無防備に目を閉じた瞬間に自動再生。夜中、暗い廊下の電気を消せば「あなたへのおすすめ」。トイレへ向かえば、「この映像を見た人はこちらも見ています」。誰もおすすめしてくれなんて頼んでないのに、勝手に連続再生が始まってしまうのだ。

しかも脳内レコーダーには、停止ボタンもない。こちらの都合を無視して再生し続ける。外のDIGAは容量不足なのに、頭の中だけ恐怖のサブスクが無制限なのである。

だから、こういうエッセイを書くのもなかなか大変なのだ。

僕は昔、設計の仕事をしていたせいか、寸法や数字や事実がズレているとどうにも気になる。文章でも同じである。あれこれと構成を練って設計してから書き始める。その時に記憶だけで書くのは気持ち悪いから、必ず事実確認をする癖がついている。

ということは当然、今回も確認しなければならない。
……ホラーを。

嫌で嫌でたまらないのに、変なところだけ真面目なので、自分から恐怖の沼へダイブしていく。検索窓にキーワードを打ち込み、YouTubeを確かめ、記憶を掘り起こし、勝手に震え上がる。見事なまでの恐怖の自給自足である。
 

夜も更けて仕事部屋には僕ひとりだ。
だんだん背筋が寒くなってくる。トラ子さんが起きている間に、サッとシャワーだけ浴びてきてしまおう。

廊下が暗い。さっき見た恐怖映像が頭をよぎる。「何やってるんだ僕は」とぼやきながら、風呂場で頭を洗い、ギュッと目を閉じる。

すると、ほら来た。さっきの怖い映像。
違う違う、と追い払おうとした瞬間、今度は何十年も前に見た別の怪談が出てくる。脳内レコーダーが、ここぞとばかりに絶好調で連続再生を始める。こういうときだけ仕事が速い。

僕は慌ててシャワーを終え、逃げるように仕事部屋へ戻った。

パソコンの画面には、さっき検索した心霊関連の資料がまだ開いている。

「違う、これは資料だ。取材だ。仕事なんだ」

ぶつぶつと自分に言い聞かせながら、ノイズキャンセリングイヤホンを装着する。よし、集中しろ。書くことに没頭するんだ。

その時だった。

背後から、肩を「ポンポン」と叩かれた。

「ぎゃああああああああーーーっ!!!!」

僕は文字通り、断末魔のような悲鳴を上げて飛び上がった。イヤホンをむしり取って外して振り向く。

そこには、怪訝な顔をしたトラ子さんが立っていた。

「……なに?」

「はぁっ、はぁっ……い、いや、なに?」

「明日の朝、車使っていいか聞こうと思って……なんでそんなに驚くのよ」

「今、そういうの書いてるから!!」

「知らないよ、そんなの」

ごもっともである。
心臓がまだバクバクしている。

呆れ顔で部屋を出ていくトラ子さんの背中を見送りながら、僕はどっと疲労感に襲われた。

ふう、と息を吐く。

想像力の使い方が変わったのか、それとも一度怖いと思ったことで脳内レコーダーが学習してしまったのか。

そういえば、貞子の「貞」という字は、もともと神に問いを立てる字だったらしい。それを知って、僕もひとつ問いたくなった。

神さま。
僕は、いつからこんなに怖がりになったのでしょうか。

もちろん、神さまは答えてくれない。

よく分からないが、確かなことがひとつある。
若い頃は「恐怖」というエンタメと無邪気に遊べたけれど、今はその怖さを、自分の生活空間にまで生々しく連れ込んでしまうのだ。

今の僕が欲しいエンタメは、「2時間サスペンス」のお決まりの崖や、「時代劇」の印籠がもたらす、裏切られることのない予定調和の安らぎである。

いつどこから脅かされるか分からない刺激なんて、もう僕の心臓は受け付けないのだ。僕はもう、ひとつの平穏な夜と何も考えずに洗えるシャンプーの時間を求めているのである。

ずっとレコーダーにたまっているホラー特集。
トラ子さんはたぶん、近いうちにまた「容量が足りない」と言うだろう。

そのときも僕は、きっと「いつか見る」と答える。

「じゃあ今――」

「今日はやめよう」

いつか見るよ。

……ただし、今夜ではない。

 
  
相生エッセイ



今回のエッセイは、マイキーさん主催の企画「#エッセイしりとり 2026夏の陣」で書いたものです。僕がこの企画に参加するのは、今回で七度目になります。

マイキーさん、楽しい企画をありがとうございます! あともう少し!

▽「#エッセイしりとり」コンテスト2026夏の陣

「自分で投げて、自分で拾う」という、「ひとりしりとり」なるものが密かなブームだと、耳打ちされたものの、自分で次の文字を決めたら、絶対に書きやすそうなものを選んでしまう。それでは、「ひとりしりとり」というより、「ひとり接待」である。

そこで、マイキーさんのエッセイのタイトルから、勝手にしりとりしようとしているのだけど、昨日のタイトルは「ルイ・ヴィトンと僕の道程」。

マイキーさんからは、「程」でも「童貞」でも、好きなほうで書いていいと言われたのだけど、正直、困った。「童貞」で書いたら何を書いてもルイ・ヴィトンの二番煎じになるし、まっすぐ書けば嫌がる人もいる。かといって「程」だと当たり障りがなさすぎる。

しばらく唸って、思いついた。下半分だけ持って帰ればいいんじゃないか。「貞」である。だって「童貞」を拾うなら下半分と決まっている。逃げたわけではない。コース取りで抜いたのだ。たぶん。

で、「貞」といえば貞子だなと思ったところから、話がどんどん妙な方向へ転がっていった。薄型テレビのどこに貞子は待機しているのか。

エッセイを書くために資料を検索し、自分で怖くなり、風呂で震え、仕事部屋に戻ったところで――

肩を、ポンポンと叩かれた。



▽ エッセイしりとり、僕の参加作品


本来なら、書き終えた人が次の人へバトンをつないでいくのですが、締め切りは今月末。そろそろ残り時間も少なくなってきました。

このタイミングでどなたかを指名してしまうと、受け取った方に「急いで書かなきゃ」とプレッシャーをかけてしまいそうなので、僕のバトンは、いったんここに置いておこうと思います。

もし「まだ間に合うならやってみたい!」という方がいたら、ぜひコメントで声をかけてください。

やってみるととても楽しいですよ。
締め切りに間に合わなかった~となってもペナルティはないですから、ぜひチャレンジしてみてください。


 

▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました😌

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他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。

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