【長編小説】病院の向かいの喫茶店|第六章 月曜の席
手のひらが、上を向いたまま残っていた。
『病院の向かいの喫茶店』第六章「月曜の席」です。
四週間にいっぺん、開店の前から戸の横で待っている人の話です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。
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八月に入って、朝からせみが鳴くようになった。
けやきの幹の、ちょうど目の高さに、抜け殻が三つ並んでいる。店の前を掃くとき、そこだけはほうきを当てない。三つとも、上を向いていた。
六時五十分に着くと、戸の横に人が立っていた。
白い帽子の、痩せたおじいさんだった。首にかけたタオルは、半分くらい色が変わっている。胸の前には、ひもの付いた透明な袋。中にカードが一枚と、四つにたたんだ紙が見える。
前にも、この帽子を見たことがある。顔のほうは、ちゃんと見ていなかった。
「おはようございます」
「ああ」
「暑いので、よかったら中で」
「七時やろ」
おじいさんは、けやきの影から動かなかった。道路のほうを見ている。
戸のガラスに、七時から六時まで、と書いた紙が貼ってある。その向こうの時計は、六時五十二分だった。
戸を開けると、上で鈴が鳴った。篠田さんは、もう奥にいた。中には、ゆうべの熱がそのまま残っている。壁の温度計は二十九度で、冷房はまだぬるい風しか出していない。
七時になってから、店の二階の窓を開けにいった。
六段目を鳴らさないように上がる。二階は下より暑く、窓わくは、朝なのにもうあたたかい。窓を開けると、せみの声が急に大きくなった。けやきの葉のあいだから、白いつばが見えた。
降りてくると、ちょうど鈴が鳴った。
おじいさんは壁の時計を一度見てから、奥のテーブルの、壁ぎわに座った。椅子の脚が、床で小さくきしむ。帽子を脱いで、隣の椅子に置いた。額に、ふちの跡が赤く残っている。
水を持っていった。
「ご注文は」
「あとで」
それだけ言うと、おじいさんは腕を組んで目を閉じた。
奥で、篠田さんが豆をひく音がした。
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七時十五分に、朝の三人が来た。
いつもの順で壁ぎわから座ろうとして、先頭の人が止まる。
「……ああ、平松さん。今日か」
おじいさんは目を開けない。
「今日だでな」
左の人が、鼻から短く息を出した。何か言いかけて、やめる。三人は、となりのテーブルに移った。椅子を引く音が、いつもより一つ大きい。
トーストを三枚と、ゆで卵を三つ運ぶ。
「暑なったねえ」
「八月だもん。そりゃ暑いわ」
「きのうの試合、見た?」
「見とらん。寝とった」
右の人と真ん中の人がそう言い合って、新聞は真ん中の人が取り、右の人に渡した。左の人は、今日も読まない。トーストを半分食べたところで一度、平松さんの隣の椅子を見た。
わたしは水差しを持って、奥のテーブルの横を二回通った。
平松さんのコップの水は、一センチも減っていない。
注文を聞いたほうがいい、と思った。
三人がいつも座る席で、水を前に座っている。
少し、いやだった。
言いに行こうとして、水差しを右手に持ちかえる。そのとき左の人がこっちを見たので、足が止まった。
三人は、二十分で帰る。左の人はレジで千円札を出して、「ごちそうさん」と言った。皿のはしに、パンの耳が寄せてあった。
入れちがいに、早坂さんが来た。
入口で首のうしろを押さえて、店の中を見回す。壁ぎわの席で、目が止まる。
「あ。……おはようございます」
「ああ」
早坂さんはカウンターのはしに座って、水を一口飲んでから、目をこすった。
「……今日、トースト半分でいいです」
「はい」
「あー、長かったなあ、ゆうべ」
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八時の少し前に、平松さんは立ち上がった。
「ちょっと、行ってくる」
誰に言ったのか、分からない声。帽子は、椅子に置いたままになっている。
鈴が鳴って、白いシャツの背中が道路を渡っていく。白髪の頭が、病院の自動ドアに入っていった。
早坂さんも、あくびをかみ殺しながら帰っていった。
店が落ちついたところで、わたしはトイレに入って、スマホを開いた。
「注文をしないで長く座っているお客様には、どう声をかければいいですか」
『混み合う時間帯には、ご注文をお願いしている旨を、やわらかくお伝えするのが一般的です。お店の決まりとしてお伝えすると、角が立ちにくくなります。』
お店の決まり、というところを、二回読んだ。混み合う時間なので、と小さく言ってみる。鏡の中で、口の端が下がっていた。
トイレを出て、奥のテーブルを拭いた。コップは、そのままにした。椅子の帽子には手を出さない。つばの内側に、汗の跡が白く輪になっていた。
大槻さんが来て、窓ぎわの奥でコーヒーを一杯飲み、九時ちょうどに出ていった。
十時をすぎると、店は病院から出てきた人でほとんど埋まった。壁の温度計は、二十六度まで下がっている。
小さい男の子の手を引いた女の人が、入口で店の中を見回した。空いているのは、奥のテーブルと、カウンターのはし。
「あそこ、いいですか」
女の人は、奥のテーブルを指さしていた。
わたしは、すぐには答えられなかった。篠田さんを見る。篠田さんは、ポットの湯をたしていた。
「ここ、すわる」
男の子が先に走っていって、椅子に手をかけた。女の人が追いついて、椅子の上の帽子に気がつく。
「だめ。ほら、人の席。……ごめんなさい、いらっしゃるんですね」
「……すみません」
二人は、カウンターのはしに並んで座った。
「コーヒーと、お水をもう一つください」
男の子は足が床に届かず、ずっとカウンターの下の板をけっていた。けるたびに、コップの氷が小さく鳴る。
「すみません、うるさくて」
「いえ」
レジの前に、会計の人が二人並んだ。わたしは、そっちへ行った。
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平松さんが戻ってきたのは、十一時を少しすぎたころだった。
胸の袋のほかに、白い紙袋を一つ持っている。
同じ席に座り、帽子をひざの上にのせる。それから、朝から置いたままのコップの水を、一息で飲んだ。
「ぬるなっとる」
「すみません。いま、替えます」
冷たい水を注ぐと、それも半分まで飲んだ。
「血、取ったでな」
「……はい」
「コーヒー」
豆をひいて、湯を注ぐ。粉がふくらむのを見てから、残りを注いだ。
出すと、平松さんは両手でカップを包むように持って、一口飲んだ。湯気が、冷房の風で横に流れる。
「今日は、ようけ来たか」
「はい。十時すぎに、いっぱいになりました」
「ほうか」
窓の外を見たまま、紙袋をテーブルのはしに寄せる。中で、小さな箱が動く音がした。
「薬もらいに来とるだけだわ。四週間にいっぺん」
それきり、カップを見ていた。
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十一時二十分ごろ、平松さんは壁の時計を見上げた。
わたしも、同じ時計を見上げていた。
「次が、三十五分だわ」
カップを空にして、平松さんが言う。少しも急いでいない。帽子をかぶり直して、財布を出した。
レジで、千円札を受け取る。
「四百五十円です」
レジの横の小皿は使わずに、五百円玉と五十円玉を手のひらにのせて、待つ。日に焼けた指が、硬貨を一枚ずつつまんでいった。指の先だけが白かった。
「あの」
「来とる」
窓の向こうの、病院前のバス停に、緑のバスが入ってくる。
平松さんは硬貨を財布に落とすと、紙袋を胸に抱えて出ていった。道路を渡るのに、信号を一回待つ。
手のひらが、上を向いたまま残っていた。
バスは、時間になるまで動かない。
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店を出るとき、壁の時計は十二時を五分すぎていた。
公園まで行くと、ベンチは日なたになっていた。引き返して、病院の前のバス停で座った。
屋根の下は日かげで、風が通る。ベンチの板は、日かげでもあたたかかった。
柱の時刻表は、一時間に一本ずつだった。三十五分が縦に並んで、いちばん下が六時十分。
となりのおばあさんが、色のあせた、どこかの店の名前の入ったうちわで、ゆっくりあおいでいる。
「まだ十五分あるわ。暑いねえ」
「はい」
「あんたも、病院?」
「いえ。向かいの店で」
「ああ、けやきさん」
緑のバスが来て、おばあさんを乗せていった。ドアが閉まるとき、空気の抜ける音がする。わたしはベンチに残って、パンの袋を開けた。
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三時に上がって、けやきの下へ行った。影は、もう自転車からはずれていた。かぎを外すと、ハンドルは手のひらを置いていられないくらい熱い。
幹の抜け殻は、朝と同じ三つ。
自転車にまたがる前に、スマホのカレンダーを出した。
四週間あとの月曜を開いて、朝の七時のところに入れた。
平松さん。注文は、あとで。
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(第七章へつづく)
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第一章「薄いコーヒー」から読む
第二章「かたいゆで卵」を読む
第三章「落とした一枚」を読む
第四章「蒸らし」を読む
第五章「九時ちょうど」を読む
作品のもくじ
第七章も、この場所に置きます。
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