【短編集】羅生街 四丁目 〜終の棲家インカローズ
<あらすじ>
八十歳を過ぎ、アパートの取り壊しで住処を失った大友栄一郎。不動産屋には軒並み断られ、公園のトイレで独り誕生日を迎えた彼の前に、「あなたに"殻"をご用意します」と囁く男が現れる。案内されたのは、高級高齢者住宅インカローズの一室——かつてそこに住んでいた品のいい老紳士は、なぜか大友と同じ、空っぽの目をしていた。
街の空では、外来の極彩色の鳥たちが、カラスをねぐらから追い落としていく。誰ひとり、見ていない。
ここは羅生街。ときどき「いたはずの人」が、最初からいなかったことになる街。舌の奥に鉄の味が立つとき、また誰かが消えている。
甘い「殻」と引き換えに、老人が明け渡したものとは。
<本編>
ヤドカリ
早朝の鉛色の空の下、殺気立ったカラスが、あたりを威嚇するように忙しなく鳴いている。
色のない鳥だ。黒という色さえ持たず、ただ塗りつぶされたような闇の塊だった。
今年は、数が多い。冬を前に、どこからか集まってきたらしく、電線にも、街路樹の梢にも、その黒がびっしりと並んでいた。
黒一色のはずの梢に、ありえない色がまじっている。
毒のような黄。
作り物めいた青。
傷口のような緋。
どれも、この国の冬空には似つかわしくない色だった。どれも、籠の中に閉じ込められていた色だった。
キーィ、と金属を引っ掻くような声がして、原色の一羽が黒い列に割り込んでくる。
カラスが羽をふくらませ、体当たりをする。極彩色は退かない。空中で黒と原色がもつれ合い、また離れる。
誰ひとり、見ていない。
町外れの八百屋の店先に、「歳末総決算!じゃがいも百円詰め放題」と書かれた立て看板が掲げられていた。
その前に、五十人ほどの長い列ができていた。並んでいるのは、ほとんどが七十代以上の老人だ。
肩を丸めた老人たちは、登山用のステッキを杖代わりにする者、シート付きのキャリーカートにもたれかかる者など様々だった。だが、その顔にはどれも同じ疲労の色が浮かんでいた。誰もが身体の痛みに耐えながら、時間をやり過ごしている。
行列の脇のゴミ袋を、二羽のカラスが取り合うようにつついている。
「年寄りは、死ねってことか!」
突然、列の中ほどから怒声が飛んだ。
その声に、近くのカラスも、遠くのカラスも、梢にひそんでいた原色の影も、一斉に鳴きながら上空へ舞い上がっていく。
薄くなりかけた白髪に、深い皺の刻まれた顔。
大友栄一郎だった。
手にしたガラケーに向かって怒鳴ったせいか、血の気のない頬に、いまだけ赤みが差していた。
「申し訳ないのですが、大友様のように八十歳を超えた方は、大家さんが貸したがらないことが多いものですから」
携帯から、不動産業者の無情な声が漏れた。
カラスの声が、一瞬やむ。それからまた、彼の怒りに呼応するように、ヒステリックな調子で鳴きはじめる。
「来週には立ち退きって……そんなの無理だよ、無理ですよ」
徐々に弱々しくなる大友の声に、相手は淡々と返した。
「退去をお願いして一年以上、その間ずっと家賃も滞納されていますよね」
「……」
「ご家族や、他に保証人の方はいらっしゃらないんですか」
「そ、それは……」
「とにかく、取り壊しの日時はもう変えられませんから」
それだけ言うと、電話は一方的に切られた。
気落ちした大友はよろけるように列を外れ、力なくガードレールに身を預けた。ポケットから財布を取り出す。
すり切れたレシートや割引券が雑然と詰まった財布から、ATMの明細書を引き抜く。
残高、数十円。
大友は無言で明細を財布へ押し戻した。
行列の老人たちは、さきほどのやり取りを聞いてしまったためか、誰も口を開かず店先だけを見つめていた。
昨日から何も食べていない腹が鳴る。いつのまにか、冷たい雨が落ちはじめていた。
目の前を、二羽のカラスが激しく鳴きながら旋回している。そのすぐ脇を、毒々しい色の鳥が一羽、矢のように突っ切っていった。カラスより速い。
カラスを見つめる大友の視線の先、雨の向こうに、巨大なタワーマンションがそびえていた。
そこには「サービス付き高齢者向け住宅 インカローズ」の垂れ幕が掛かっている。
快適な老後を約束する、地上四十階の要塞。薔薇色だったはずの垂れ幕が、雨を吸って、縁から灰色に滲んでいた。
その壁面の高いところ——換気口や、パイプの暗い穴のあちこちを、ありえない色の影が出入りしている。黄、青、緋。冬枯れの要塞に、原色だけが点々と灯っていた。
薔薇色の要塞は、いつのまにか、別の何かのねぐらになりかけていた。
数日前、大友はそのタワーマンションでチラシを配っていた。
帽子を目深にかぶり、うつむいてポストにチラシを差し込んでいたとき、管理人に腕をつかまれた。
「このマンション、ポスティング禁止ですから」
すぐ脇の張り紙に、『違反者には罰金一万円』とあった。
「知らなかった……申し訳ない」
「決まりですので」
金がないからこんな仕事をしているんだ――そう訴える大友に、管理人は耳を貸さず、取り押さえようとした。
そのときだった。ロックのかかった扉が開き、スーツに身を包んだ老紳士が現れた。荒川雅彦。
仕立てのいい背広に、磨かれた革靴。この建物に過不足なく似合う、品のいい老人だった。
荒川と大友の目が合った。ほんの一瞬だった。
だが、妙に引っかかった。立派な身なりのその男の、目の奥だけが、自分とまるで同じ色をしていた。疲れて、空っぽで――どこかで、それもずいぶん近くで見たことのある目だった。
荒川が、何か言いかけるように口を開いた。
その言葉を聞く前に、大友は逃げ出していた。
チラシは濡れた床に散らばり、管理人の舌打ちを背に、大友は足早にその場を離れた。
頭上で、緋色の鳥が一羽、庇先にとまっていたカラスを音もなく突き落とした。黒い羽が、雨の中をくるくると落ちていく。
その日を境に、大友の行き場は塞がっていった。
不動産屋を何軒も回った。八十を超えていると告げたとたん、どの店員も同じ顔になった。書類を出すまでもなく、断られた。
日が暮れると、あけぼの荘に戻った。ほかに帰る場所はなかった。
電気の止まった暗い部屋で膝を抱え、夜が明けるのを待つ。
朝になればまた街へ出て、当てもなく歩き、また日が暮れた。
何日が過ぎたのか、もう分からなかった。空が帳を下ろすたびに、自分が今どこにいるのかも、自分が誰だったのかも、少しずつ曖昧になっていった。
ベランダの手すりに、いつのまにかカラスが一羽とまっている。じっと、大友を見ている。
――おかしいな。
ぼんやりと、そう思った。
その黒い背に、原色の影が二つ、三つと寄り添うように降りてくる。毒の黄、傷の緋。カラスは動かない。もう、追い払う気もないようだった。
数日後。
あけぼの荘は、とうとう解体の日を迎えた。
重機が壁を崩す低い音が、地を這って伝わってきた。
ひと振りごとに、軒先や戸袋の奥から、黒と目の覚めるような原色とがいっせいに空へ舞い上がる。
ロープの外に立ち尽くした大友は、キャリーケースを握りしめたまま、地面にへたり込んだ。
「……どこへ、行けってんだ……」
夜は、トンネルの隅で身を縮めて過ごした。
河川敷で寝場所をめぐって若いホームレスに殴られ、口の中に、鉄の味が広がった。そのまま気を失った。
そして、寒さをしのごうと入り込んだ公園のトイレで、大友は一人、誕生日を迎えた。
誰にも祝われないその夜、不気味な夢を見た。
カラスの群れが、腐乱した死体に群がって、「ハッピーバースデー」を歌っている。
その黒い群れに、色とりどりの鳥が次々と舞い降りてくる。黄や青や緋の翼が、カラスを一羽また一羽と押しのけ、腐った肉の上に降り立っていく。極彩色が、死体を覆っていく。
中心にいるのは、荒川雅彦。顔からウジがこぼれ落ち、口の中から這い出してくる。荒川は、大友の名を呼んでいる。
「ハッピーバースデー、トゥー、ユー……」
誕生日から三日目の朝、大友の前に「救世主」が現れた。
吉沢祐一。
背広を着た、口の達者な男だった。
「あなたに、ちょっとした“殻”をご用意したいんですよ。ヤドカリみたいなものです」
「殻……?」
「住む場所です。いいところに。しかも、タダ」
胡散臭い話だった。だが、大友に他の選択肢はなかった。
吉沢に言われるまま、中身も読めない書類の束に、判を押した。
吉沢に連れられ、ロックのかかった扉をくぐる、その直前だった。頭上で、傷口の色をした鳥が一羽、壁の暗い穴へすっと吸い込まれていった。
そしてその“殻”――インカローズの一室に、彼は確かに“入った”。
そこにかつて住んでいた男の名は、荒川雅彦だった。
その男は、もうこの世にいなかった。いや――書類の上では、大友の手で「出された」ことになっていた。
その夜、暖かい寝床の中で、舌の奥に、うっすらと鉄の味がした。河川敷で殴られた傷は、とうに塞がっているはずだった。
それから、いくつ季節が過ぎたのだろう。
大友は、暖かい部屋で目を覚ます。腹は減っていない。仕立てのいい背広、磨かれた革靴。郵便受けには、荒川雅彦あての年金通知が届く。誰も、彼を追い立てには来ない。
窓の外では、いつからか、原色の鳥ばかりが壁の穴を出入りしている。あれほどいた黒い影は、もう、どこにも見当たらない。
ただ――その羽の色が、近ごろ、うまく見えない。黄も青も緋も、どれもくすんで、灰色に沈んで見える。まるで、自分の眼から色が抜け落ちていくように。
ときどき、自分の名前も思い出せなくなる。
洗面所の鏡をのぞくと、品のいい老紳士がこちらを見ている。
その目の奥だけが、何も映していない。
――妙に、引っかかる。
どこかで見た、目だ。それも、ずいぶん近くで。
大友は、思い出せないまま、鏡から目をそらす。
ある朝、ゴミを出しに、ロックのかかった扉を抜けると、エントランスで管理人が誰かの腕をつかんでいる。
帽子を目深にかぶった、痩せた老人。震える手に、濡れたチラシの束を抱えている。
「このマンション、ポスティング禁止ですから」
その老人と、大友の目が合う。
ほんの一瞬。
大友は、何か言おうとして口を開く。
だが言葉になる前に、老人は背を向け、駆け出していく。チラシが、濡れた地面に散らばる。
その背中を、大友は見送る。何を言いたかったのか、自分でもわからなかった。
頭上で、鳥が鳴く。ただ黒いだけの鳥の声なのか、あの極彩色の鳥の声なのか、大友には、もう聞き分けられなかった。
みぞれに濡れた垂れ幕は、もう薔薇色とも灰色ともつかない色で、ゆっくりと揺れている。
サービス付き高齢者向け住宅 インカローズ。
——あなたに、ぴったりの“殻”をご用意します。
<完>
【羅生街へのご案内】
①羅生街〜転入届
https://note.com/tenten2021/n/n538ff091b2fc
②羅生街 一丁目 〜 ヴィラ・テセウス
https://note.com/tenten2021/n/nca420e3ad3ac
③羅生街 二丁目 〜羅生神社
https://note.com/tenten2021/n/n90414b9a493f
④羅生街 三丁目 〜烏賊迷宮
https://note.com/tenten2021/n/n649a96ae6f76
⑤羅生街 四丁目 〜終の棲家インカローズ
⑥羅生街 五丁目 〜歯車坂
https://note.com/tenten2021/n/n0f7cef567f41
⑦羅生街 六丁目〜ゴンドラ公園
https://note.com/tenten2021/n/n698f89719cb0
