見出し画像

【短編集】羅生街 三丁目〜烏賊迷宮

<あらすじ>

行きつけの町中華が立て続けに休業していた夜、同室の二階堂に誘われるまま、僕は看板だけがかろうじて読める怪しい店『烏賊迷宮』に足を踏み入れる。老人が無言で出す絶品のイカフライを食べて以来、二階堂の様子は徐々に変わり、唇には白い膜が浮かぶようになる。不審に思いながらも、僕自身もイカフライの匂いに取り憑かれ、店に通い詰めてしまう。ある夜、厨房の奥で目にしたのは、階段状に並ぶ無数の「二階堂」――食べるたびに数字を重ね、上に行くほど神々しく"進化"していく異形の列だった。最上段の存在から皿を差し出され、口にした瞬間、僕の輪郭もまた書き換わり始める。



<本編>

イカフライ・エフェクト

 湿り気を帯びた風に、シャッターの貼り紙がかすかに揺れていた。
『幸運の女神降臨のため、臨時休業!』
 文字を追った瞬間、思わず二度見する。──冗談だろ。
 にわか雨の到来を告げるような生暖かい空気とともに、遠雷が低く唸り始めた。
 よりによって、行きつけの町中華が、このタイミングで休業とは。
 昼を逃した胃が、じわじわと自己主張を強めている。
 張り紙から目を離し、力なく空を仰いだ。幸運の女神は、どうやら店主にしか微笑まないらしい。
「おやおや、ついてないね」
 鼻にかかった声が響く。振り返ると、独身寮で同室の二階堂が肩をすくめていた。のっぺりした顔に薄い笑みを貼りつけた二階堂は、いつも人を小馬鹿にしているようで癪に障る。
 「ここの親父、競馬で勝つと休むんだ」
 そういえば前に会計のとき、親父自身がそんなことをぼやいていたっけ。
 二軒目も臨時休業だった。『夫婦喧嘩のため休業』と書かれた張り紙に、小粒の雨がかかり始めた。どうやら本格的に降るらしい。僕は傘を持っていないことに気づいた。
「傘なんて持ってないよ」と言って、二階堂の方を向くと、彼は店の背後を指差した。そこには打ち捨てられた町中華がぽつんと建っていた。色の抜けたトタン看板に、『烏賊迷宮』という四文字だけが不気味に浮かんでいる。剥がれたペンキが、乾いた皮膚のようにめくれていた。こんな店が営業しているのを、初めて見た。
「もうコンビニでいいだろ」
 言いながら顔を上げると、二階堂はいなかった。
 もう『烏賊迷宮』の中に入っていたようで、仕方なく僕もあとに続いた。壁に貼りついた二階堂の影が、裸電球の揺れに合わせて脈打つように伸び縮みしていた。油と湿気で、空気がぬるい。
 奥を見ると、二階堂はすでに席に座り、電子タバコをくゆらせていた。まったく、身勝手な奴だ。仕方なく、二階堂の隣に腰を下ろした。
 しばらくして、油に黒ずんだ厨房服を着た老人が、店の奥からぬるりと現れた。深い皺を刻んだ老人は、使い込まれた中華鍋の底のように、光を返さない目をしていた。
 老人の口元が、ゆっくり歪んだ。
「いつもの?」
 かすれた声だった。
 当然、二階堂も戸惑っていたはずだが、彼はすぐに片手を上げて言った。
「いつもので」
 理解が追いつかないまま、僕は目に入った品を指差した。一瞬だけ耳鳴りがして、店の空気が遠のいた。老人は返事もせず、一歩退いたかと思うと、もう姿はなかった。
「なあ、ここってさ……初めてだよな?」
 僕の問いかけに、二階堂の唇の端だけがわずかに吊り上がり、息の抜けるような音が漏れた。笑っているのかどうかも判然としなかった。
「お前も、何が出てくるのか気になるだろ?」
 確かに気になる。僕は、二階堂のガザついた唇横目で捉えつつ、頷いた。同時に、この男のどこか他人の心を弄ぶような態度に、薄ら寒さを覚えた。
 二階堂がどこから仕入れてきたのかも怪しい、会社の美人経理の不倫話を適当に聞き流しているところへ、先ほどの老人が料理を運んできた。
無表情に差し出された皿には、揚げ物がうずたかく盛られていた。螺旋状に積まれた黄金色のフライから立ち上る香ばしい匂いのせいで、喉が鳴った。
 二階堂は箸でひとつつまみ上げ、匂いを嗅ぐより先に口へ放り込んだ。
「うっ……たまらん」
 うわ言のような声を漏らしながら、皿に顔を近づけ、喉の奥で音を立てて貪り始める。
 咀嚼するたびに衣の砕ける音がした——だが、口元の動きだけが、音より一拍遅れているように見えた。
 そう思った時には、皿は空っぽになっていた。すると軋む音とともに、厨房の扉が開いた。そこには、先ほどの老人が無言で手招きしていた。二階堂は心ここにあらずといった様子で、ふらりと立ち上がると、その奥へと姿を消した。
 注文したレバニラ炒めを無理やり口に運び、ぬるくなったビールで流し込む。何を口に運んだのか覚えていない。ただ、イカフライの香りが鼻の奥にこびりついて離れなかった。心のどこかで、何か面白いことが起きるのを期待している自分がいた。
 誰も画面を見ていないテレビでは、また行方不明者のニュースが流れていた。『……連続行方不明者の捜索は、今日も難航しています』と、アナウンサーは無感情に告げていた。やがて二階堂が戻ってきた。
「もう帰るぞ」
 ぽつりとそう言い残して、彼はさっさと店を後にした。厨房のことを尋ねても、返ってきたのは意味ありげな笑みだけだった。

 翌朝、職場に行くと、いつもは遅刻ギリギリに出社する二階堂が、定時よりも随分早く席についていた。
 僕は早すぎる出社に違和感を覚え、声をかけようとして、止まった──その肌が、薄い蝋を貼り付けたように、生気を失っていたからだ。瞳だけが、ぬれた石のように鈍く光り、どこにも焦点を結んでいない。知っているはずの顔なのに、何かが致命的にずれていた。背筋が、音もなく冷えていく。
「昨日のイカフライ、最高だったな」
 口元に、薄く剥がれた魚の皮のような白い膜が、ぴたりと張りついていた。
 呼吸のたびに、乾いた皮膜がかすかに揺れ、喉の奥で何かがぞわりと動いた。それが何なのかを考える前に、僕は目をそらした。

 それからというもの、僕と二階堂は、まるで吸い寄せられるように『烏賊迷宮』に通い詰めるようになった。何かの儀式のように、彼は決まって「いつもの」と呟き、あの皿を待った。
 僕も、ある日、ふとした気まぐれで真似してみた。
「いつものを」と、冗談めかして口にした。
 老人は、一瞬、僕の顔をじっと見つめた。油の照りをまとったその唇が、不快な音を立てながら動いた。
「品切れだ」
 それが嘘なのか本当なのか、判断はつかなかった。だが、その言葉の背後に、自分がまだ何かの「外側」にいることだけはわかった。

 以来、夢に現れるのは、いつもイカフライだった。揚げたての香りというにはあまりに生々しく、夢のはずなのに、現実の輪郭を内側から喰い破ってくるような感覚だった。一噛みごとに、衣の砕ける音と共に痺れるような旨味が脳を直撃した。
 もっと、もっと——舌も喉も脳までもが、それを欲して止まらなかった。皿の上の最後のひと切れに手を伸ばした、そのとき、背後から何かの気配がした。
 顔を上げると、暗がりでシワだらけの肉の塊が蠢いていた。熱を帯びた肉塊が、僕の呼吸に合わせて、ゆっくりと脈動していた。目はどこにもなかった。けれど、確かに、凝視されていた。
 僕は悲鳴を上げて、目を覚ますと、額にじっとりと汗が滲んでいた。妙に喉が渇く。奥歯のあたりに、衣のようなザラリとした感触が残っている——そのとき、あの匂いに気づいた。油の匂いだ。枕元から、揚げたてのフライの香りが漂ってきた。
 心臓が一度だけ大きく跳ねた。布団をめくっても、そこには何もない。ただ、手のひらに、ぬめるような油の感触だけが残った。
 以来、その匂いは仕事中も歩いているときも僕から離れず、耳の奥ではいつしかパリパリと衣を噛む音が響いていた。イカフライへの執着は、排水溝から逆流する泥水のように、僕の正気を静かに侵しはじめていた。

 その週の休日、道端で先日休業していた町中華の店主とばったり出くわした。
「万馬券的中したんだよ」
と、彼は弾んだ声で話し始めた。会話の流れで、ふと『烏賊迷宮』の話題を振ったとたん、店主の笑顔がすっと消えた。
「……あそこ、最近またやってんのかい?」
 眉間に深く皺を刻んでそう呟いたその声には、妙な震えが混じっていた。
「お客さん……あそこに通ってんの?」
 声が、妙に低くなった。
 店主は、しばらく黙っていた。路地の向こうを、値踏みするような目で眺める。唇は、固く結ばれたままだった。
 ただ、言葉の代わりに呑み込んだ生唾が、ひどく冷ややかに喉を鳴らした。
「……どういうことですか」
 促すと、舌打ちをするように息を漏らした。
「若い奴が、消えた。うちの常連だった。ある日、ぷつりと来なくなって……家にも、会社にも」
 風が通りすぎ、油の匂いがふと鼻先をかすめた。
 僕はなぜか喉を鳴らしそうになって、無理にごくりと唾を呑んだ。
「最後に見かけたときは、一見、普通だった。
 だけど、どこかこう……魂の抜けた蝋人形みたいでな。皮膚の下に、別の何かが詰まってるみたいで、気味が悪かった」
 その言葉の中に、今の二階堂の姿が浮かび、肌がひやりと粟立った。
「……もう、手遅れなのかもな」 
 店主はそう言い残すと、ひらひらと手を振りながら路地の向こうへ消えていった。僕は、その場に釘付けにされたまま、しばらく動けなかった。
 不安というより、名前もない何かが、心の底を這いまわるような感覚だった。

 翌日、なぜか僕たちは再び『烏賊迷宮』に向かっていた。昨日の店主の言葉が気になっているにも関わらず、自らの意思に反して、足が勝手に動いてしまっていたのだ。
 席に座り、また二階堂が「いつもの」と呟いた。
 二階堂は、僕の目の前にすっとイカフライの皿を差し出した。皿の上では、黄金色のイカフライが静かに湯気を立てていた。
 その匂いが鼻腔をくすぐるたびに、喉の奥が勝手に鳴った。
だが、箸は動かない。皿を睨みつける僕を見て、二階堂が笑った。
「食べないのか?」
 その声は、確かに僕の知っている二階堂のものだったが、感情だけを削ぎ落としたような、奇妙な響きがあった。
「なんか、やっぱり……変だ。お前も、なにか変わった」
「人は食べたものでできているって言うだろ。あれは半分だけ本当だ。食べるたびに、少しずつ中身は入れ替わる。気づかないだけでな」
 そう言って、二階堂は指先でテーブルをとんとん叩いた。その仕草すら、どこか作り物めいていた。
 二階堂は嘲るような笑みを浮かべたあと、無言で箸を放り出し、皿に顔を突っ込んだ。唖然とする僕を尻目に、獣のように喉の奥で音を立てながら貪った。皿から料理がなくなると、彼は何事もなかったかのように、厨房のほうへと消えていった。意を決した僕は、トイレに行くふりをして彼の後を追う。
 厨房の奥に、分厚い鉄の扉がひっそりと口を開けていた。扉に触れると、指先に錆のざらつきと、ひどく生臭い油の匂いがまとわりついた。
 
 扉を開けた瞬間、ねっとりとした熱気が肺へ入り込んできた。
 暗闇に続く螺旋階段。その一段一段に、うなだれた人影が座っていた。降り注ぐ光もなく、呻き声もなく、ただ、生温かい静寂だけがそこにあった。
 全員が、二階堂だった。
 息が止まった。表情も、目の動きも、口元の微かな緊張まで——完璧に同じ顔が、階段を埋め尽くしていた。僕が立ち尽くしていると、一番上の段の男が、静かに口を開いた。
 「とうとう来たね」
 その声に引き寄せられるように、全員が一斉に顔を上げた。
 男たちは、順番に、何かを確認するように口を開いた。
 「二階堂だ」
 「三階堂だ」
 「四階堂だ」……
 感情がなかった。自己紹介ではなく、点呼のようだった。まるで自分の番号を確かめることだけが、この場所での唯一の仕事であるかのように。次第に、胃の底が重くなってくるのを感じた。
 混乱した頭のまま、僕は途中の男を指差した。「じゃあ、お前は——五階堂か」
 男は動かなかった。
 一拍の沈黙のあと、隣の男が静かに言った。
 「六階堂だ」
 訂正だった。怒りでも、笑いでもなく、ただの訂正。体温のない、事務的な訂正。
 「五階堂はその隣だ」
 全員が、同時に首だけを傾けた。同じ角度で。同じ速度で。
 笑えなかった。番号を確かめあうその律儀さが、そのまま裏返って、得体の知れない恐怖になった。
 点呼が、また始まっていた。
 何言ってんだこいつらは?
 しかし、そう言われて彼らをよく観察してみると、一見同じように見えるのだが、階段を上がるにつれて次第に凛々しくなっている。下から上へ、昇るごとに何かが削ぎ落とされ、研ぎ澄まされていくようだった。
「こんなの、僕の知っている二階堂じゃない!」
 知らぬ間に、僕は呟いていた。僕の知っている二階堂は、卑屈で見苦しい、女子ウケしない、どこまでも俗悪で親しみやすい男だったはずだ。
 笑い飛ばしてやりたかった。だが、足元から小さな音がした。カタカタ、カタカタ。薄暗い床に、男がうずくまっていた。彼はガリガリに痩せこけ、ボロボロのスーツをまとい、膝を抱えて震えている。幾度も波に洗われた砂の像のように、輪郭という輪郭が削げ落ちていた。
「俺は……俺だったはずなのに……」
「お前、もしかして本物の二階堂なのか?」
 問いかけると、彼は涙目でうなずき、囁いた。
「上にいる奴らは……俺じゃない……だけど、俺も、もう……」
 その言葉が空気に溶けきらないうちに、螺旋階段の最上段から、光が降りてきた。
 眩い光を纏った人影。完璧に磨き上げられた肉体、彫刻のように整った顔立ち、そして神々しいまでの威厳。人間という概念を超越し、別の何かへと進化を遂げた存在だった。それは確かに二階堂の輪郭をしていたが、もはや僕の知っている男ではなかった。あの下劣で、卑屈で、親しみやすかった二階堂が、聖人のように輝いている。
 足元でうずくまる男が、息を呑む気配がした。
 降りてきた男は、飴色の衣を纏ったイカフライの皿を、音もなく僕の目の前へ押し出した。
 湯気の向こうで、衣がゆっくりと呼吸していた。それを凝視する僕に、男は感情を排した美しい声で告げる。
「食べるたび、剥がれていくんだ。……お前も、欲しがっているだろう?」
 脳の芯に突き刺さる油の香り。夢にまで見たあの匂いが、僕の理性を根こそぎ溶かした。手が動いたとき、止めようとする意志はすでに消えていた。
 歯を立てた瞬間、衣の崩れる音と共に爆発的な快感が全身を駆け抜け、かすかに鉄の味がした。熱を孕んだ肉が舌の上で蠢き、じわりとした旨みが喉の奥へと流れ込んでいく。一噛みごとに、僕の輪郭が内側から書き換えられていくような恍惚。
  気づいたときには、皿は空だった。
 骨の芯まで満たされ、床にへたり込んだ僕の前に、手が差し伸べられた。反射的に顔を上げる。
──僕の顔があった。
 その唇に、薄く剥がれた魚の皮のような白い膜がぴたりと張り付いている。
「ひっ……!」
 悲鳴が喉を裂く。じゃあ、今ここで恐怖に震えているこの肉体は、一体誰なんだ。
 完全に正気を取り戻した僕は、もつれる足を必死に動かし、暗闇の出口へと狂ったように走り出した。
 同時に、『二階堂』たちも口々に七階堂、八階堂と叫びながら、一斉に駆け出した。
 死に物狂いで足を動かした。路地の影が絡みつき、世界がねじれる。振り返らなかった。振り返れなかった。
 夜の底へ向けて、全速力で駆け抜ける。
 その瞬間——僕の身体の奥で、パリッと小さな、衣が砕けるような音が響いた。
<完>


【羅生街へのご案内】

①羅生街〜転入届
https://note.com/tenten2021/n/n538ff091b2fc

②羅生街 一丁目 〜 ヴィラ・テセウス
https://note.com/tenten2021/n/nca420e3ad3ac

③羅生街 二丁目 〜羅生神社
https://note.com/tenten2021/n/n90414b9a493f

④羅生街 三丁目 〜烏賊迷宮

⑤羅生街 四丁目 〜終の棲家インカローズ
https://note.com/tenten2021/n/n611c63dc24de

⑥羅生街 五丁目 〜歯車坂
https://note.com/tenten2021/n/n0f7cef567f41

⑦羅生街 六丁目〜ゴンドラ公園
https://note.com/tenten2021/n/n698f89719cb0


いいなと思ったら応援しよう!