【短編集】羅生街 二丁目〜羅生神社
<あらすじ>
夏祭りの夜、イブキは友人の凛香と訪れた屋台で、12年前に失踪した幼馴染の彰人と再会する。彼の首元には、イブキが持つものと対になる、赤い金魚のペンダントが揺れていた。 水のないガラス球の中で生きて動く金魚と、彰人が放つ異様な気配。
引き込まれそうになるイブキを、凛香が必死に止めようとする。だが、次の瞬間、イブキは水底へ沈むように姿を消してしまう。
残されたのは、微かな温もりの残るペンダントと、砕けたリンゴ飴だけ。何事もなかったかのように流れる群衆の中で、凛香が拾い上げたガラスの金魚は、次の獲物を待ちわびるように、くるりと彼女の方へ向き直るのだった。
〈本編〉
ヒトスクイ
夕凪の生ぬるい風が、浴衣姿のイブキと凛香の髪を揺らす。
生ぬるい空気の奥に、わずかな秋の匂いが混じっている。
蝉の声は途切れがちで、祭りの賑やかさもどこか物悲しく響いていた。
金魚すくいの屋台の前で、二人はしゃがみ込んでいた。
水面には、提灯の赤と金魚の朱が溶け合って揺れている。
イブキはリンゴ飴をかじり、奥歯でシャクシャクと音を立てながら、友人の手元をじっと見つめていた。凛香は注意深く、金魚すくいのポイを水に滑らせ、一気に金魚をすくった。
「二匹目ゲット!」
跳ねた金魚が波紋を広げ、水面に映るイブキの顔をかき消した。イブキは、その水しぶきからリンゴ飴をかばおうと、とっさに手を上げた。その拍子に、浴衣の胸元からペンダントがすっと滑り出た。
それを見た瞬間、イブキの呼吸が浅くなる。
提灯の灯りが、ひどく遠く感じられた。
——あの夏の日。
あの子が忽然と消えた記憶が、濁った水の底から浮かび上がるようによみがえった。
イブキが、ふいにつぶやいた。
「ねえ、覚えてる? この祭りで、子どもが消えた事件……」
「え、なに……?」
凛香の手が止まり、ポイが水の中で破れる。
「……私、あの時、そこにいたの」
「え……何それ。初耳なんだけど」
無理に明るく振る舞う凛香の表情に、一瞬、戸惑いの色がよぎった。
イブキはそんな凛香の困惑を打ち消すように、「じゃあ、次の射的は私が出すからさ」とおどけた調子で言って、二人で屋台を離れた。
一歩、人混みへ踏み出す。とたんに浴衣の人波がうねり、二人のあいだへ割り込んできた。
はぐれる——そう思ったときには、凛香の姿は数歩うしろの灯りに飲まれかけていた。口だけが動いているのに、その声は喧騒に押し流されて届かない。
賑やかなはずの祭囃子の太鼓が、ふいに、水越しに聞くように低くこもって響き始めた。
妙な圧迫感にイブキが口を噤んだ——その瞬間だった。
強い衝撃が走り、肩を大きく弾かれる。
「あっ……」
よよろめいた拍子に、握っていたリンゴ飴が相手の胸へ押しつぶされた。白いシャツに、砕けた赤い破片が傷口のようにへばりついていた。
「ご、ごめんなさい……!」
謝るイブキの声を無視するように、男はしばらく黙って、汚れた自分の胸元を見つめていた。
その沈黙に怯え、イブキが「あの、大丈夫ですか?」と重ねて問いかけたとき、男はふっと困ったような笑みを浮かべた。
「気にしないでください。そちらこそ、お怪我はありませんでしたか?」
穏やかな声だった。
イブキが安堵して「大丈夫です」と返した瞬間、男の笑みが深まる。
その目元を見たとき、イブキの胸の奥が激しくざわめいた。
忘れるはずのない面影が、ゆっくりと像を結ぶ。懐かしさと不安が、水の中で溶け合っていく。
しかし、イブキの目を釘付けにしたのは、男の衣服の汚れではなかった。彼の首元――シャツの隙間から覗く、小さなガラスのペンダントだった。 透明な球体の中で、一匹の赤い金魚がゆらりと揺れている。
その瞬間、イブキの背筋を、冷たいものが這い上がった。
——見覚えがある。
あの夏、消える直前まで彰人が握りしめていたペンダント。
その片割れを、イブキはあの日からずっと、肌身離さず下げていた。
「……アキトくん?」
震える指が、胸元のもう一つの球体に触れる。
イブキがそれを見せるように引き出すと、男の瞳に、祭りの灯りが歪んで映った。
「まさか……イブキ、なの?」
二人のペンダントの中で、二匹の赤い金魚が、示し合わせたようにゆらりと揺れる。水の中で触れ合ったような、くぐもった微かな音が、イブキの鼓膜の奥で鳴った気がした。
すると不意に、周囲の喧騒が、遠い川底へ沈んでいくように、薄れていった。
「あの時、水の中はすごく静かだったよ」
彰人は祭りの向こうを見たまま、ぽつりと言った。
「アキト、くん……? あなた、ずっと、どこに……」
目の前の幼馴染が放つ異常な気配に、イブキは引きつった声を漏らすことしかできない。
言葉に詰まりながらも、胸元のペンダントをぐっと握り締めた。
彰人は静かに口元を緩めた。
どこか懐かしむような顔だった。けれどその瞳は、もうこちら側の世界を見ていない。
「ほら、あの時みたいに——」
彰人がそう言った瞬間、ペンダントの中の金魚が動いた。
水のない空間で、尾がはらりと揺れる。それは、確かに生きていた。
「え……?」
周囲の熱気だけが、すうっと引いていく。
乾いたガラスの玉の中で、金魚だけがゆらりと尾を振っている。
「苦しそうだったろ……また、すくってあげないと」
彰人が、その言葉を口にした瞬間——
沈みきった静けさを横から突き破るように、誰かが人波をかき分け、飛び込んできた。
イブキの腕が、背後から強くつかまれる。
「イブキ、ダメ!」
息を切らした凛香だった。胸騒ぎに突き動かされるまま、人混みを必死にこじ開けてきたのだ。
一瞬、すべての音が止まった。
祭りの喧騒も、虫の声も、世界から抜き取られたように。
イブキの身体が、ふわりと軽くなった。
足の裏から、地面の感触が消える。 提灯の光がにじみ、手を伸ばす凛香の顔が、みるみる遠ざかっていく。
氷水のような冷たさが足首から這い上がり、視界を覆った。
——水の、底だ。 金魚の赤い尾がひらりと視界をかすめ、次の瞬間、すべてが引きちぎられるように暗転した。
……ザァ、と耳元で急に、虫の声がうるさいほどに響き始める。
それは、夏の終わりを告げる音だった。同時に、この街が今年もまた、つつがなく「一つの収穫」を終えたことを祝うような、不気味に満ち足りた響きでもあった。
「……イブキ?」
凛香の足元には、砕けたリンゴ飴だけが甘い香りを放って転がっている。
そのすぐ横に、小さなガラスのペンダントが落ちていた。
拾い上げたガラス球には、さっきまで親友の肌に触れていた、生々しい体温が残っている。
ざわめく人波が、何事もなかったように——それでいて、彼女だけを避けるように——凛香の脇をすり抜けていく。
手の中で、赤い金魚が、くるりとこちらへ向き直った。
次の機会を、待ちわびるように。
——ぽちゃん。
凛香は思わず振り返った。
だが、人混みのどこにも、イブキの姿はなかった。
<完>
【作品に寄せて】
夏祭りには、不思議な魅力があります。提灯の灯り、屋台の匂い、遠くから流れてくる祭囃子。そこには確かに楽しさや懐かしさがありますが、同時に、どこか現実から切り離されたような心細さも漂っています。
子どもの頃、祭りの帰り道に、ふと「このまま別の世界へ迷い込んでしまうのではないか」と感じたことはないでしょうか。あの、賑わいから一歩外れた途端に訪れる、生ぬるい闇のような感覚。この話は、そんな心もとなさから生まれた物語です。
金魚すくいというのは、考えてみると奇妙な遊びです。すくう側とすくわれる側がいて、水の膜一枚を隔てて、こちらとあちらが分かれている。あの薄い和紙のポイは、いつ破れてもおかしくない、頼りない境界線です。
水槽を覗き込むとき、こちらが見ているだけだと思っていました。
でも、あちら側からも見られているのかもしれません。
夏祭りの帰り道、ふと振り返った暗がりに、誰かが立っている気がしたことはありませんか。
この物語は、そんな「振り返ってしまった夜」の記憶から生まれました。
【羅生街へのご案内】
①羅生街〜転入届
https://note.com/tenten2021/n/n538ff091b2fc
②羅生街 一丁目 〜 ヴィラ・テセウス
https://note.com/tenten2021/n/nca420e3ad3ac
③羅生街 二丁目 〜羅生神社
④羅生街 三丁目 〜烏賊迷宮
https://note.com/tenten2021/n/n649a96ae6f76
⑤羅生街 四丁目 〜終の棲家インカローズ
https://note.com/tenten2021/n/n611c63dc24de
⑥羅生街 五丁目 〜歯車坂
https://note.com/tenten2021/n/n0f7cef567f41
⑦羅生街 六丁目〜ゴンドラ公園
https://note.com/tenten2021/n/n698f89719cb0
