【短編集】羅生街 一丁目〜ヴィラ・テセウス
<あらすじ>
「たぶん、これが最後の恋人になる」——友人の三船のその言葉が、呪いの始まりだった。
高級マンション「ヴィラ・テセウス」803号室。そこに住む綾香は、恋人を"更新"し続けながら男たちを誘い込んで生きていた。三日月のあざだけが、その異常さの痕跡として残っている。
やがて三船が失踪し、神宮寺たちが部屋へ踏み込む。そこは青いアジサイに覆い尽くされ、その中心に綾香はいた。
「綺麗でしょ。これ、三船くんの愛の色だから」
そう呟くと彼女は消えた。
〈本編〉
テセウスの恋人
雨上がりの夜。
高級マンション「ヴィラ・テセウス」の前庭で、アジサイだけが不自然に青い。
街灯の光を吸い込みながら、濡れた色を滲ませている。
神宮寺は思わず足を止めた。
「どうした?」
鴨下の声で我に返った。
「……こんなに青いアジサイ、初めて見た」
鴨下は歩みを緩めず、肩をすくめた。
「アジサイは土が酸性だと青くなるらしい。何かよからぬものでも埋まってるのかもな」
「よからぬものってなんだよ」
神宮寺は苦笑しながら後を追ったが、胸の奥には妙なざわめきが残った。
三船は大学時代からの友人だ。いつも抜けていて、失恋するたびに神宮寺の部屋へ転がり込んでくるような男だった。その三船が今、招き入れられた八〇三号室のリビングで、照れくさそうに笑っている。
「たぶん……彼女、俺にとって最後の恋人になる」
三船は肩に寄り添う綾香の頭を優しく撫でた。
綾香は二十歳そこそこに見えた。瑞々しい肌とは裏腹に、その笑顔の奥には、水底のような静けさが沈んでいた。
体温というものを、最初から持っていない生き物のように。神宮寺は彼女の眼差しに耐えられず、視線を逸らした。どこを見ればいいかわからず、結局うつむいた先——襟元の白い肌に、青白い三日月形のあざがあった。
玄関先で別れを告げると、綾香は「また会おうね」とだけ言った。三船はその言葉に頷き、名残惜しそうに手を振った。
別れ際、扉が静かに閉まる直前、神宮寺の目は『803』というネームプレートに吸い寄せられた。古びた銅板の縁を、蔓草の装飾が絡め取るように這っている。その下のタイルには、いつ刻まれたものか、朽ちかけた船の意匠が沈んでいた。
帰り道、都心にほど近い河川敷。濡れた草を踏みしめながら、神宮寺と鴨下は無言で並んで歩いていた。
「“人生最後の恋人”って、ちょっと重すぎるよな?」
鴨下が眉をひそめる。
「まあな。でも、あいつ、ようやく本気で人を好きになった顔してたよ……三十路前に身を固めそうだな」
神宮寺が肩をすくめると、鴨下はスマホを弄りながら続けた。
「にしても、いい部屋に住んでたな。管理費込みで、月100万は下らないらしい」
「調べたのか?」
「あいつの手取りじゃ一桁足りない。女の持ち家か……」
鴨下はそこで言葉を切り、続きを飲み込んだ。河川敷の暗がりに揺れるアジサイの群生は、街灯の届かない闇の中で、黒い塊のようにざわめいていた。二人はそれきり口を利かず、濡れたアスファルトを踏みしめて帰路についた。
翌朝、鴨下からメッセージが届いた。
「昨日、なんか気持ち悪くて眠れなくてさ。あのマンション、ちょっと調べてみたんだけど」
続けて、スクリーンショットが数枚送られてきた。
画面を開いた瞬間、神宮寺の指が止まった。
オカルト掲示板のアーカイブ。古い個人サイトの書き込み。
『803はやめとけ』
『また消えた』
『あの部屋、まだ使われてるのか?』
そして——見覚えのある玄関と、三日月形のあざを持つ女性の写真。 神宮寺は無意識に画面を拡大していた。
「……綾香?」
声が、自分のものではないみたいに喉から出た。
投稿日は30年前の6月。だが、鴨下が次に送ってきたアーカイブには、さらに古い書き込みがあった。男が消えるという噂は、更にその数十年前のものらしかった。
「このサイト……二十世紀のまま止まってんな」
鴨下からさらにメッセージが来た。
「ってことは……あの女、三十年前からあそこにいるのか」
神宮寺はスマホを置き、笑い飛ばそうとした。ネットのデマだ。オカルト好きの作り話だ。三船は今頃、綾香と並んで朝食でも食べているだろう。そう思いながら、三船にLINEを送った。
しばらくして、神宮寺のポケットで、スマホが短く震えた。 三船からのLINE通知。
画面を開くと、暗闇の中でフラッシュを浴びた、泥まみれの青いアジサイの写真。
そして、不可解なメッセージだけが打たれていた。
『ま、真っ青だ』
すぐに返信したが、既読はつかなかった。
そして、翌日も翌々日も。
あの夜から、三船は会社を無断欠勤し、SNSの更新も途絶えている。
週末、降りしきる霧雨の中、神宮寺と鴨下は再びヴィラ・テセウスの前庭に立っていた。
花壇では、あの日見た青いアジサイだけが、根こそぎ刈り取られていた。
管理会社からどうにか借り受けたマスターキーを握る鴨下の手が、小刻みに震えていた。八階の廊下は、昼間だというのに妙に薄暗く、ひんやりとしていた。 803号室のインターホンを鳴らしても、拒絶のような静寂が返ってくるだけだった。
鴨下が、その鍵をシリンダーに差し込む。
回しきる前に——カチャリ、と内側からドアノブが回った。
隙間から溢れ出したのは、むせ返るような湿気と、死臭を甘く覆い隠すような花の芳香だった。
「……おい、嘘だろ」
鴨下の硬直した声が、暗い室内に吸い込まれていく。
リビングの床、ソファ、テレビ。視界のすべてが、狂ったように咲き乱れる青い花弁に埋め尽くされていた。
根を張る土などどこにもない。
ただ床一面に、濡れた花が敷き詰められている。
一歩踏み出す。
足元で、肉厚の花弁が「ブチッ」と嫌な音を立てて潰れ、冷たい汁が靴底を濡らした。
神宮寺の脳裏に、あの夜の鴨下の言葉がよみがえる――土が酸性だと、青くなる。 だとしたら、この部屋を満たす狂気のような青は、一体何を吸って育っているのか。 背後で、かすかな音がした。
ブチリ。
ブチリ。
ゆっくりと振り返る。
──綾香だった。
口に一輪のアジサイをくわえ、虚ろな瞳で二人を射抜いていた。
綾香は微笑みながら、一歩踏み出した。
「ねえ……どこに行くつもり?」
逃げ道をふさぐように踏み出された足元で、青い花弁が鈍く湿った音を立てて潰れた。その手には、赤く錆びた園芸ばさみが握られていた。
「綺麗でしょ。これ、三船くんの愛の色だから」
綾香はそれだけを言い終えるとゆっくりと俯き、肩にのっていた青い花弁がくるりと回りながら落ちていく。神宮寺は反射的に、その花びらを目で追う。
──視線を戻したとき、そこにはもう、誰もいなかった。
ただ足元の花弁だけが、彼女の重みを覚えているように、青い汁をじわじわと滲ませていた。
──だが、数時間後に警察が踏み込んだとき、あの部屋はもぬけの殻で、花弁一枚残されていなかったという。 三船の遺体が発見されたのは、遥か下の、マンションの前庭にある花壇の土の中だった。
そして――それだけではなかった。
赤黒く変色した土の下からは、無数の白骨が次々と現れた。古いものは土と見分けがつかぬほど朽ち、いちばん上の一体だけが、まだ新しかった。
それ以来、神宮寺は青いアジサイを見るたびに、綾香の「また会おうね」という甘い囁きが耳元によみがえるようになった。
数ヶ月後、神宮寺のスマホに流れてきた「おすすめのユーザー」。 海外のリゾート地、逆光の中で微笑む女の胸元には、あの三日月があった。隣で肩を抱く見知らぬ男の笑顔には、どこか見覚えがある。
《素敵な恋人ができました。たぶん、これが最後の恋になります》
直前の投稿には、庭先で撮ったらしきアジサイの写真。その傍らに、赤く錆びた園芸ばさみが、さりげなく置かれている。
鼻先を、あるはずのない青いアジサイの甘い香りが、ふっとよぎった。
<完>
【作品に寄せて】
朽ちた木材を一本ずつ取り替え、やがてすべての部品が新しくなった船は、果たして元の船と同じなのだろうか。 『テセウスの船』と呼ばれるその問いに、今も答えはない。
けれど私が本当に恐ろしいと思うのは、その理不尽な問いではない。 誰も入れ替わりに気づかぬまま、船も、人も、世界さえも、昨日の続きであるかのように航海を続けてしまう。
あの狂おしいほど青い花は、そんな境界の上で、今日も静かに咲いている。
【羅生街へのご案内】
①羅生街〜転入届
https://note.com/tenten2021/n/n538ff091b2fc
②羅生街 一丁目 〜 ヴィラ・テセウス
③羅生街 二丁目 〜羅生神社https://note.com/tenten2021/n/n90414b9a493f
④羅生街 三丁目 〜烏賊迷宮
https://note.com/tenten2021/n/n649a96ae6f76
⑤羅生街 四丁目 〜終の棲家インカローズhttps://note.com/tenten2021/n/n611c63dc24de
⑥羅生街 五丁目 〜歯車坂
https://note.com/tenten2021/n/n0f7cef567f41
⑦羅生街 六丁目~ゴンドラ公園
https://note.com/tenten2021/n/n698f89719cb0
