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【旅で出会ったお菓子】ベレンのパステル・デ・ナタを求めて、夜のキッチンで旅をした

忘れられない味「ベレンのパステル・デ・ナタ」を、もう一度

リスボンのベレン地区。世界遺産ジェロニモス修道院のすぐ側に、その店はあります。

製菓店「Pastéis de Belém(パステイシュ・デ・ベレン)」。

1837年創業の歴史あるお店で、現在も世界中から観光客が押し寄せる大人気店です。

列を成す観光客の目当ては、看板商品の「パステル・デ・ベレン」
一般的にはパステル・デ・ナタと呼ばれるこのお菓子は、サクサクとしたパイ生地にとろりとしたカスタードをたっぷり詰めた掌サイズの焼き菓子で、ポルトガルを代表するスイーツです。

パステル・デ・ベレン/筆者撮影

このお菓子の発祥はジェロニモス修道院だと言われています。19世紀の自由主義革命を経て、その修道院から直接レシピを受け継いだのがこのお店。つまり、「Pastéis de Belém」のナタは、現在ポルトガルに数多存在するパステル・デ・ナタの元祖とも言えます。


数年前のポルトガル旅行で出会った、このお店のパステル・デ・ベレンの味が忘れられません。
特に印象的だったのが、薄いガラスのように割れる生地。「サクっ、ザクッ、パリン!」とした唯一無二の食感は、旅行中に食べ比べた、他のどのお店のナタとも明らかに違いました。

あまりの美味しさに旅行最終日の朝に再訪。お土産用も購入しました/筆者撮影

一口食べてその美味しさに衝撃を受け…すぐに「パステル・デ・ベレン」の虜に。旅行の後に当時住んでいたブリュッセル、そして日本に帰国してからも、色々なお店のナタを試しました。ですが、ベレンの味に近いものに出会うことはできませんでした。

どうしてもあの味、あの食感をもう一度体験したい。

しかし日本に帰国して、2歳と5歳の小さな怪獣たちとバタバタな毎日を送る今。現地にもう一度赴くのはどう考えても現実的ではありません。

「本物を食べに行けないなら、もう自分で作るしかない」

同じものは作れないけれど、あの味を、日本のキッチンで再現できないだろうか?

そう思い立った私は、ネット上に存在する数多のパステル・デ・ナタのレシピを読み漁り、ベレンのお店の製造風景を映した動画を何度も見て、「あの味の源」を探ることにしました。

※Pastéis de Belémのパステル・デ・ナタは、正確には「パステル・デ・ベレン」という名前ですが、この記事内では分かりやすく「パステル・デ・ナタ」「ナタ」と呼ばせていただきます。


<ポルトガル旅行でのパステル・デ・ナタとの出会いと、当時の旅行について写真とともに振り返る記事はこちら。>


門外不出、秘密のレシピの謎に挑む



そもそも、この「Pastéis de Belém」のレシピは、1837年の創業当時、隣接するジェロニモス修道院から持ち込まれたものを今でもそのまま継承しているといいます。そのオリジナルレシピは、現在でもオーナーと数人の職人しか入ることを許されない、鍵のかかった「秘密の部屋(Oficina do Segredo)」で厳重に守られているのだそう。
だからこそ唯一無二の味が保たれているわけですが、裏を返せば、本当の原材料や製法は、外の世界の誰も知ることができないということです。

パステイシュ・デ・ベレン/筆者撮影

ベレンのお店のナタの味は、確かにどこのお店とも違う。
ということは、作り方や材料に、他のお店や一般的なレシピとの違いが必ずあるはずです。


その違いを探るべく、私は様々なレシピを読み比べ、ベレンのお店の製造動画を何度も繰り返し見ました。すると、一般的なレシピと、ベレンの職人の手元の動きにある「決定的な違い」に気がつきました。

「もしかして、ベレンのナタの生地の秘密は"ラード"なのでは?」

ベレンの職人の手元の生地の質感、リスボンの温暖な気候、イタリアの菓子「スフォリアテッラ」との共通点、そして「1837年から守り続けているレシピ」という事実。

これらのヒントから、200年近く隠された謎に挑むように、導き出した私なりの一つの仮説です。
そこから、実際にラードを使ってパステル・デ・ナタの生地作りに挑戦してみました。

【結論】バターにラードを混ぜたら、あの「ザクッ、パリン!」の生地ができた


今回の再現では、2種類の生地を作って食べ比べてみることにしました。

①一般的なバターの折り込みパイ生地と、②生地を薄く伸ばしてから柔らかくした【バター&ラードを混ぜたもの】を塗り広げて巻いた生地です。

結果は…
②の【バター&ラード】生地が、まさに私が求めていた「ザクっ!パリン!」と割れる、理想のパステル・デ・ナタの食感に驚くほど近いものとなりました。

①の生地で作ったパステル・デ・ナタも、サクサクで普通に美味しい。ですが、パイ生地特有のモロモロと細かく崩れる上品な食感で、ベレンのお店のあの存在感のある生地とは明らかに別物でした。

ラードとバターを混ぜて巻いた②の生地で作ったもの。焼き加減やカスタードに課題はありますが、生地はかなり満足のいく出来です!/筆者撮影

真実は永遠のミステリー。でも…

本当にベレンの「秘密の部屋」でラードが使われているのか?それはおそらく、今後も明かされることのない永遠のミステリーです。ですが、このラード入りの生地で作ったパステル・デ・ナタを食べた時、確かに、私の中では、ベレンのナタを一口齧った時の感動が鮮明に蘇りました


門外不出のレシピに挑む

【考察編】「ベレンの生地は、バターとラードのハイブリッド説」が生まれるまで

焼き上がった自作のナタの食感に感動しつつ、時計の針を少し巻き戻してみます。

鍵のかかった「秘密の部屋」で守られたレシピで作られたベレンのナタ。

その特徴的な生地は、一体どのように作られているのか?
なぜ私は、「ラード」という原料に思い至ったのか?

ここからは、実際にキッチンに立つ前に繰り広げられた、少しマニアックな私の脳内ミステリーにお付き合いください。

なぜラードだと思ったのか?その理由

パステル・デ・ナタは今や世界中で大人気のお菓子で、そのレシピも数多存在しています。しかし、私が調べた限り、日本語、英語、そして本場ポルトガル語のどのレシピを見ても、生地に使われている油脂はバターかマーガリン(または市販のパイシート)ばかりで、ラードを使っているものは一つもありませんでした。
では、なぜ私は「ラード」という原材料を疑ったのか。そこにはいくつかの気づきがありました。

① スフォリアテッラとの出会い

最初のきっかけは、イタリア・ナポリ名物の「スフォリアテッラ」というお菓子でした。
食べたことのある方もいるかもしれませんが、これは薄い貝殻が何重にも重なったような形の、ザクザク、パリパリとした存在感のある生地が特徴のお菓子です。

右下の貝のような形のお菓子がスフォリアテッラ。リコッタのクリームが詰まっています。これはローマで食べたもの。/筆者撮影

私はこのスフォリアテッラが大好きなのですが、ある時ふと、「ベレンのパステル・デ・ナタの食感にとてもよく似ているな」と気づいたのです。

似ているのは食感だけではありません。生地を薄く伸ばして油脂を塗り、くるくると棒状に巻いてから輪切りにする、というユニークな製造工程もほぼ同じ。そして、伝統的なスフォリアテッラに使われる油脂は、バターではなくラードなのです。

「作り方も食感もここまで似ているのに、ベレンのナタにはラードは使われていないのだろうか?」

そんな疑問が思い浮かびました。

② ベレンの職人の手元に見えた「伸びる生地」の違和感

スフォリアテッラというヒントを得てから、改めて「Pastéis de Belém」の製造風景の動画を見返したとき、ある決定的な違和感に気がつきました。

動画の冒頭から、生地の塊を職人さんが成形する作業が始まります。
注目したのはその生地の状態です。なんと、ベレンの職人さんは、直径15センチ以上はありそうな丸太のように太い棒状(むしろ塊)の生地を掴み、飴細工のように「ビョーン」と細長く伸ばしてから輪切りにしているのです。ダイナミックに伸ばされた生地は、作業台の上でウネウネとトグロを巻いてまるで大蛇のようです。

ベレンの職人にビョーンと伸ばされる生地のイメージ。

お菓子作りをされる方ならここで驚くはず。なぜなら、これはバターを使ったパイやクロワッサンの生地では、通常考えられない光景だからです。

生地の層を綺麗に出すためには、バターが溶けて生地に馴染んでしまうのを防ぐため、常に「冷たい状態」をキープしなければなりません。実際、私が見つけたほぼ全てのナタのレシピでも、「生地を巻いた後は冷蔵庫でしっかり冷やしてから輪切りにする」と指示されています。

しっかり冷やされた生地であるならば、あのように伸びることはまずないでしょう。
つまり、ベレンの生地は「冷やされていない(温度が高い)」状態だと思われるのです。
もし、バターで作ったパイ生地を常温のまま、ビョーンと強く引っ張って伸ばしたとしたら…層が潰れて台無しになってしまうでしょう。

ここで、私には一つ思い当たることがありました。

「この動きはラードの層状お菓子と同じでは?」

先述のスフォリアテッラや、マヨルカ島名物の「エンサイマダ」。この二つのお菓子は、極限まで薄く伸ばした生地に常温の柔らかいラードを塗って巻いて作ります。ラードも生地も、冷やしすぎると固まって伸びなくなるため、むしろ冷やさずに作業します。

どちらのお菓子も、初めて食べた時にその美味しさに衝撃を受け、作り方が気になり調べたことがあったのでした。

そして驚くことに、スフォリアテッラもエンサイマダも、巻き終わった生地をベレンの職人と同じように「ビョーン」とダイナミックに細長く伸ばすのです。

マヨルカ島名物のエンサイマダ。クロワッサンに似たサクふわの発酵生地は、バターではなくラードがたっぷり使われています。/筆者撮影

ベレンの職人の手元の動きは、バターのパイ生地のそれではなく、完全に「ラードの生地」の動きそのものでした。
「ベレンのナタの秘密は、やっぱりラードではないか?」という疑いは、さらに強くなりました。

③ 1837年の厨房を想像してみる

ここから、私の意識は1837年へ…
先述の通り「Pastéis de Belém」のレシピは、1837年の創業当時から変わっていない。つまり、1834年に修道院が解体される以前に「ジェロニモス修道院」で作られていたものをそのまま継承していると言われています。

ジェロニモス修道院。「Pastéis de Belém」は修道院のすぐ近くにあります。/筆者撮影

今から200年近く前、冷房も冷蔵庫も無い1837年の厨房で、どうやってパステル・デ・ナタを作っていたのでしょうか?
当時の厨房の様子を、お菓子の科学と歴史のデータから推理してみます。

まず、リスボンはヨーロッパでもかなり南に位置する温暖な地域です。

「冷蔵庫も冷房も無い19世紀前半。温暖なリスボンでは、生地を冷たく保つ必要のある【バターのパイ生地】なんて作れないのではないか?」

そう考えた私は、1800年代前半のリスボンの気候を調べてみました。どうにかリスボンの気候に関する論文を見つけ、データを見てみると…意外なことに、当時は今よりもかなり涼しく、夏でも最高気温は25〜28℃ほどだったのです。

「あれ…今と比べてこんなに涼しいなら、やっぱりバターでもパイ生地が作れたのかも?」

一瞬、私の<リスボンでは冷蔵庫が無ければバターのパイ生地は無理!>という仮説が揺らぎました。しかし、お菓子作りの科学において、バターが溶けてダレ始めるのは20℃を超えたあたりからです。冷蔵庫のない時代、しかも大きなオーブンや窯で燃え盛る火がすぐ傍にある、厨房という過酷な環境。外気温が25℃を超える日に、バターの形を保ち、サクサクとした層状のパイ生地を作るのがどれほど難しいことか…お菓子作りをする人なら容易に想像がつくはずです。

やはりベレンのナタの生地は、そもそも「冷やす工程が必要ない」材料・製法なのではないでしょうか。その仮説は、先ほどの動画に映る「ビョーンと大蛇のように伸びる生地」の状態ともピッタリ一致します。

さらに歴史的に見ても、イベリア半島は牛の酪農よりも豚の飼育が盛んな地域です。お菓子を作るのに、融点が高くて暑い場所でも扱いやすく、かつ身近な食材であるラードに頼るのは、当時の職人たちにとって、極めて合理的で自然な選択だと思えます。

なぜラードを使ったパステル・デ・ナタの再現レシピが今まで見つからなかったのか?

「Pastéis de Belém」のナタは、世界で1番有名なナタです。これまで多くの料理研究家やYouTuber、フードライターたちが再現レシピに挑んでいます。ですが、色々な作り方があれど、みんなこぞって「バター100%の生地」を使い、最後に冷蔵庫に入れて冷やし固めています。ベレンの厨房のように、常温でぐいぐい生地を引っ張って伸ばす作り方をしているレシピは一つも見つかりませんでした。

なぜ、ベレンのお店の衝撃的な「生地が大蛇のように伸びる光景」を無視して、みんな揃って冷蔵庫へ入れてしまうのか。

それは、「美味しいパイ生地=冷たいバターで作るもの」という現代のフランス式の製菓の常識が、お菓子作りの世界を支配しているからなのかもしれません。プロであればあるほど、その常識に囚われて目の前にあるダイナミックな事実が見えなくなってしまう。

私が「ベレンの職人の手元の生地と全く同じになるように、あえて常温の生地で、ラードで作ってみよう」と思えたのは、西洋式のお菓子作りの常識をちょっと横に置いて、目の前の職人の動きを素直に見ることができた「ただの素人のお菓子・歴史オタク」だったからなのかもしれません。

それでも「バター」を否定できない理由

では、ベレンのナタの生地はラードだけで作られているのでしょうか?
結論から言うと、それはおそらく違います。理由は、やはり先ほどの製造動画にあります。

生地に職人さんが塗り広げている油脂は「濃い黄色」をしており、真っ白なラードの色ではありませんでした。

そしてもう一つ、歴史的に考えても、ジェロニモス修道院の厨房にはおそらくバターが存在していたと言える理由があります。それは、このお菓子の名前そのものです。

パステル・デ・ナタの「ナタ(Natas)」は、ポルトガル語で「生クリーム」という意味です。このお菓子の本質は、ポルトガル人にとって「乳製品のクリームが使われていること」なのです。

当時、修道院の厨房では、パステル・デ・ナタのフィリングであるカスタードを作るために牛乳やクリームが扱われていたはず。であれば、余ったクリームから、より保存性の高いバターが作られていたと考えるのは非常に自然です。

「扱いやすさ」のためにラードを使いつつも、修道院の特権である「バターの豊かな風味」も生かしたい。そんな修道院の台所事情から、ラードとバターのハイブリッド(混合)というレシピが生まれたのではないでしょうか?

大予想!Pastéis de Belémの生地の作り方

ここまで色々考えた上で、私の導き出した「Pastéis de Belém」の生地の作り方はこちらです。

①生地を薄く伸ばす
②柔らかくしたラードとバターの混合油脂を塗る
③巻いて直径15cm程度の太い棒状にする
あえて常温で寝かし、細長く伸ばして輪切りにする
⑤型に沿わせるように押し広げる

この仮説の通りに作ることができたら、日本のキッチンでも、あの「ザクッ、パリン!」の食感は再現できるのでしょうか…?期待が膨らみます。早速試してみるために、まずはラードを買いに行かなければ…!

ーしかし。キッチンに向かう前に、一度1837年に飛んでしまった私の頭の中は、さらなる歴史の沼へとハマっていってしまうのでした。


【ちょっと寄り道】キッチンに立つ前に、ナタを取り巻く歴史の旅へ

生地の製法や材料についての仮説は、これでひとまず出来上がりました。ですが、実際にキッチンに立って材料を測り始める前に、また様々な疑問がポツポツと湧き上がり…私の思考はあちらこちらと飛び周り始めました。

「1837年の創業当時のベレンのお店、そしてそれ以前の時代ジェロニモス修道院は、バターや乳製品をどこからどうやって入手していたのだろう?」

「お菓子にラードと言えば、お隣のスペインが有名。ではポルトガルは?」

「生地を薄く伸ばしてからくるくる巻く、この特殊な製法はどこからきたのだろう?」

「そもそもパステイシュ・デ・ベレンが生まれるきっかけとなった「修道院の解体」と「自由主義革命」って、何が起きたんだっけ?」

その一つ一つの答えを見つけるために調べ始めた私は、気が付くと、とんでもない沼に深くはまり込んでしまっていました。

ポルトガルとバターについて考えていたら、気づけばポルトガルの乳業史や物価変動に関する論文を読み漁り、「19世紀末のリスボン市内にあった牛舎」や、ポルトガルの乳業の聖地「アゾレス諸島」にたどり着いたり。

次に我に返った時には、1841年リスボンで出版された料理書を開いて「Manteiga=バター」の文字を只管追いかけ数百ページ、数単語しか知らなかったポルトガル語が段々と推測できるようになり…人生で初めて杉田玄白に共感したり。(その結果、おそらく最古のパステル・デ・ナタのレシピと遭遇)

さらに、自由主義革命の裏にあった、あまりにも面白すぎるポルトガル王室の物語に興奮し、ペドロ4世一家のファンになって、一家それぞれの活躍と最期を調べて涙していた時には、パステル・デ・ナタは完全にどこかに行っていました。

「パステル・デ・ナタを作る話じゃなかったの?」と、ここまで読んでくださった方の呆れた声が聞こえてきそうですが…せっかくですので、もうしばらく私の歴史談義にお付き合いください。

※ここに調べたことを全て書くと長くなりすぎてしまうので、いくつかのエピソードはまた別の記事にまとめたいと思います。

リスボンで使うバターとクリームはどこから来たのか?

パステル・デ・ナタを作るのに欠かせない乳製品。今ではありふれた食材ですが、ベレンのお店が創業した1837年や、ジェロニモス修道院で作られていたそれ以前の時代はどうだったのでしょうか?

調べると、ポルトガルは本来酪農に向かない土地が多い国です。特に南部は夏場の高温と乾燥で、乳牛の飼料となる牧草が育ちにくいそうです。

そこで私は、自信満々に一つの仮説を立ち上げました。

「南部の都市であるリスボン周辺では酪農なんて無理だったはず。北部の一部の地域では酪農があったとしても、1830年代にはまだ冷蔵庫も鉄道も無い。生鮮食品である乳製品は、一握りの特権階級のみが手に入れることのできる食材だったのでは?」

その答えを探しているうち、気がつくと私は、ChatGPTを相棒に「ポルトガルの都市と郊外における乳牛の歴史」についての論文(もちろんポルトガル語)を何時間も読みふけっていました。あまりの内容の濃さと面白さで、すべてを語ることはできませんが、簡単に言うと、私の仮説は「半分くらい正解、半分大ハズレ」でした。

まず間違っていたのは、「リスボン周辺で酪農は無理!」という説。予想とは異なり、リスボンでは古くから牛乳を消費する文化があり、小規模ながらも牛を飼育する農家は数多くあったそうです。

また、自由主義革命後はさらに乳業が発展。19世紀の後半には、牛乳を都市の人々に供給するため、街中にも牛がひしめき合う牛舎が沢山できていたそう。牛が市内を歩き回り、客の目の前で乳を絞って販売する店もあったというのにはびっくりです。たしかに、冷蔵・輸送技術が未発達な時代、都市の人々が新鮮な乳を得るには最適な、最もモダンな方法だったのでしょう。ですが、歴史好きな私は、ここで余計な想像をしてしまい…

産業革命によって人口が爆増している都市、上下水道は未整備。既にその時点で衛生状態は察して余りあるのですが…馬車が行き交い、そこにさらに牛がひしめき合い街中を闊歩し…その糞などはどこに…?

ここまで想像した所で一つ言えるのは、
当時のリスボンの街には絶対に行きたくない…!!ということです。笑

1890年、リスボンのメインストリート・アウグスタ通り。地獄絵図のような19世紀半ばを経て、大規模な衛生改革が起きた後なのでかなり綺麗に見えますが、右側の街灯の下に怪しげな小山が。/パブリックドメイン

話が逸れましたが、「だから乳製品は、リスボンの人々にとって昔から一般的だった」かというと、それは別の問題です。

1837年当時、牛の乳製品を手に入れることができたのは限られた人々だったのでは?という問いは、おおむね当たっていると思います。
19世紀前半までは郊外の超小規模な農家が主体で、市民に広く行きわたるほどの生産量はありませんでした。また、19世紀の後半になると街中の牛舎などもあり「牛乳」の流通は増えますが、「バター」の製造と供給は長い間、望まれていたにも関わらず、なかなか安定しなかったそうです。

リスボンの人々にとって、バターがどれだけ「憧れの高級食品」だったのか。それを知るための重要な手がかりを、リスボンの市内にある老舗食料品店「Manteiga Silva(マンテイガ・シルヴァ)」の公式サイトで見つけました。1890年に創業した歴史あるお店で、Manteigaはバター屋さんという意味です。

このお店によると、1922年の段階で、バターは「許可された専門店(Manteiga)」にしか販売することのできない高級品だったそうです。そのManteigaはリスボン全体で20軒ほどしか無かったとのこと。

驚いたのは、20世紀に入った1922年においてもバターは高価だったということです。

既に冷蔵庫が発明され、蒸気船が世界中の海を走り、ポルトガルにも鉄道が敷かれ、第一次世界大戦で戦闘機が飛んだ後の時代。世界がこれほど技術的に発展した時代でも、リスボンではバターは専門店でしか買えない高級品だった。

ベレンのお店が創業したのはこれよりも80年以上前、ジェロニモス修道院でナタが作られていたのはさらにもっと前…
その当時、リスボンの人々にとって、新鮮なクリームとバターをたっぷり使ったパステル・デ・ナタというお菓子は、もしかしなくても、とんでもなく贅沢なものだったのではないでしょうか?

「1837年のパステル・デ・ナタは、現代の私達が考えるよりも遠いものだったのかもしれない。」

そう思い至った時、私が再現しようとしているこのお菓子は、ただの人気のスイーツではなく、もっとずっと特別なものであると気がつきました。

現在は1個1ユーロ台、誰もが気軽に買えるお菓子です。(2019年当時は1.15ユーロ)/筆者撮影

スペインとポルトガルの「お菓子とラード」

今度は現代のポルトガルと、お隣のスペインの「お菓子と油」について話です。

私は、ベレンのパステル・デ・ナタにはラードが使われているのではないか?と予想しました。「お菓子にラード」というと、まず思い浮かぶのがお隣スペインの存在です。

スペインと言えば、有名なイベリコ豚をはじめ、豚肉大国であることは周知の事実です。そんなスペインには、日本でも知られる「ポルボロン」や「エンサイマダ」など、ラードを使ったお菓子が今でも日常に深く根付いています。

スペイン、サン・セバスチャンのカフェで食べたポルボロン。ほろっと口の中で溶けるような食感はラードによるもの。/筆者撮影

では、ポルトガルはどうなのでしょうか。
実は、ポルトガルの伝統的な修道院菓子を調べてみると、「パステル・デ・ナタ」以外は牛乳やバターといった乳製品はあまり使われず、砂糖と卵黄、そして油脂には「ラード」やオリーブオイルが広く使われていたことが分かります。地理的に見ても、イベリア半島全体は古くから地続きのラード文化圏だったのです。先ほどのバターの話からも分かるように、バターは20世紀に至るまでずっと高級品でした。

しかし、ここで大きな謎が浮かびます。
現代のポルトガルではお菓子に使うのはバターやマーガリンが主流。ラードは「大切に守られた古い修道院菓子」というジャンルの中に閉じ込められている印象です。
それは、国民的スイーツのパステル・デ・ナタについても同じ。前にも述べましたが、調べた限り、パステル・デ・ナタのレシピに使われているのはほぼ全てがバターやマーガリン。ラードを使うレシピは見つかりませんでした。

「なぜポルトガルでは、日常のお菓子の油脂がバターやマーガリンへと置き換わったのだろう?」

この謎の答えを追い求め、調査の海に乗り出した結果…私は大西洋に浮かぶ「ポルトガル領アゾレス諸島」で起きた【農業大転換】という歴史や、18世紀にオランダから連れてこられた乳牛たちとポルトガル人の長きにわたる試行錯誤の歴史に辿り着きました。ここにも熱く語れるドラマがあったのですが、長くなるので今回は割愛して…

ともかく、様々な要因が重なり、20世紀の後半にポルトガルの乳業は急速に発展。ラードとオリーブオイルの国だったポルトガルは、国内でバターを安定供給できる「隠れた乳業大国」へと変貌したのです。
高級品だったバターは、市民にとって当たり前のものになっていきました。

ポルトガル人の「バターへの憧れ」

このように「時代の変化でバターが当たり前に手に入るようになったから」というのが大きな理由の一つだとは思います。ですが、ここまで来るまでの間、様々な資料を読みポルトガルの200年に思いを馳せ続けた私には、もう一つの理由を想像しました。それは、

「ポルトガル人には、長年にわたるバターへの渇望があったからではないか?」ということです。

私が読みふけった乳業史の論文には、明確に「ポルトガルはずっとバターが欲しくて試行錯誤を重ねてきた国だった」という、バターへの執着のような記録が残されていました。

18世紀にある公爵が"バターを作りたい一心で"オランダから乳牛を連れてきたことを始め、ポルトガルでは、何代にもわたって「もっとバターを作れる国になりたい…!」という願望が続いていたのです。

この「バターへの憧れ」が垣間見えるのが、1841年にリスボンで出版された料理書の存在です。…そうです、ポルトガル語を読めない私が「Manteiga=バター」の文字を追い続けたあの料理書です。

この料理書には、驚くほど「Manteiga=バター」が沢山出てきます。それどころか、私が「当時のリスボンでは作れないのでは?」と考えた「バターの折り込みパイ生地」のレシピすら載っています。

この料理書の著者は子爵階級の貴族で、掲載しているレシピの多くはフランスの料理書から引用したとのこと。

バターがまだ限られた人のものだった1841年。貴族の書く料理書にバターを使ったフランス料理のレシピが大量に記載されているということからも、当時のポルトガルの上流階級にとって、バターやバターたっぷりのフランス料理が好ましく、理想で、憧れの食事であったことが見えてきます。

現代のポルトガルで、バターやマーガリンの菓子が主流になったのは、彼らが何百年も抱き続けていた「もっとバターを使いたい!」という願望に、ようやく時代の供給が追い付いた結果、なのかもしれません。

※この料理書で偶然見つけた「おそらく最古のパステル・デ・ナタ」のレシピについては、また別の記事で書きたいと思います!


秘密の部屋が守った「タイムカプセル」

パステル・デ・ナタそのものから随分離れてしまいましたが…ここで、今までの話とパステル・デ・ナタ、そして私の「ラード&バターハイブリッド説」につなげていきます!

「Pastéis de Belémのパステル・デ・ナタには、ラードが使われているのではないか」
これはあくまで私の妄想…仮説です。しかし、もしこの仮説が正しいのだとしたら。

ポルトガル中のお菓子のレシピがバター(やマーガリン)100%へとシフトしていく中で、ベレンのナタにだけは、1830年代の古い「ラードとのハイブリッド技術」が奇跡的に残されていることになります。

なぜ、ベレンのナタだけがこれほどまでに孤高の存在であり続けられたのか。その答えこそが、あの「鍵のかかった秘密の部屋」です。

Pastéis de Belémは、現代に残るお店の中で唯一、修道院から「直接」レシピが持ち込まれたお店です。彼らはその門外不出のレシピを、外部に漏らすことなく、創業から今日まで厳重に守り続けてきたと言います。

一方で、大ヒットしたベレンのナタを真似ようとした後発のライバル店たちには、当然その秘密のレシピはありません。彼らは手探りの中で、普及し始めた冷蔵技術や、安定して手に入るようになった美味しいバター・マーガリンという「近代化の波」を貪欲に取り入れ、独自のレシピを発展させていった。これが、現代のパステル・デ・ナタの主流がバター100%になった理由ではないでしょうか。

ポルトガル中のナタが時代の波に合わせて「バターの生地」になる中、ベレンのパステル・デ・ナタだけが、1830年代のあの厨房だからこそ生まれた技術を、そのままタイムカプセルのように残している。

そう考えると、あの薄いガラスのように弾ける「ザクッ、パリン!」という唯一無二の食感は、激動の時代の中に失われず、現代まで残った"奇跡の味"とも思えてきます。

※何度も言いますが、ラードが入っているというのは私の仮説です!!笑

イスラムの技術と、キリスト教のラードが交わる場所

「まだキッチンに行かないのか!」という声が聞こえてきますが…
最後にもうひとつだけ、私がこの「ベレンのナタ=ラード×バターのハイブリッド説」に行き着いたとき、歴史のロマンを深く感じた話を付け加えさせてください。

パステル・デ・ナタの、生地を薄く伸ばして重ねて巻くという特殊な製法は、歴史を遡ると、かつて何世紀もの間イベリア半島を支配していたイスラム(アラブ)圏からもたらされた高度な製菓技術がルーツだと思われます。

アラブの代表的なスイーツ、バクラヴァ。薄い紙のような生地(フィロ)を幾重にも重ねてシロップに浸したお菓子です。バクラヴァに使う油脂はギー(バターから油分のみを抽出したもの)です。/筆者撮影

しかし、そのイスラム圏において「豚(ラード)」は絶対に口にしてはならない禁忌です。

一方で、イスラム教徒を退けた「レコンキスタ」後のイベリア半島(ポルトガル・スペイン)では、「自分たちは正真正銘のキリスト教徒だ」という証明として、あえて料理やお菓子に豚肉やラードを多用したという歴史的背景があったそうです。

つまり、パステル・デ・ナタというお菓子は、
「イスラムが残した究極の薄層技術」という器の中に、「キリスト教徒の証であるラード」を注ぎ込み、さらに「ポルトガルでは貴重だった、ジェロニモス修道院だからこそ手に入った乳製品(バター)」をブレンドして生まれた、ねじれにねじれた歴史の結晶なのかもしれません。

イスラム的な装飾が美しいシントラ近くのモンセラーテ宮殿。ポルトガルやスペインの建築にはイスラムの影響が色濃く残っています。/筆者撮影

キリスト教とイスラム教の文化が激突し、混ざり合ったイベリア半島という特別な土地。そして1837年という激動の時代。すべてが嚙み合って生まれた奇跡のような唯一無二のお菓子、それがベレンのパステル・デ・ナタなのではないか。

そんな壮大な歴史のロマンを胸に、私は日本の自宅のキッチンで、いよいよラードとバターを手に取ることにしました。

ということで、長い長い寄り道を経て、ようやくキッチンに戻り、パステル・デ・ナタを実際に作ってみます!


【実証編】日本の小さなキッチンで、あの"ベレンのナタの生地"は再現できるのか

バター生地とハイブリッド生地で比較してみた

多くのパステル・デ・ナタのレシピは、まず「一般的なバターの折り込みパイ生地」または「麺棒で伸ばした生地にバターを塗り広げ、畳んで更に伸ばした生地」を作り、それをくるくると巻いて棒状にし、輪切りにして型に伸ばします。
今回は比較のために、①「一般的なバターの折り込み生地」と、ベレンの職人のように小麦粉と水で作った生地を薄く伸ばしてから油脂を塗りつける②「ラード&バター生地」の2種類を作って比較してみることにしました。

まずは、お馴染みのパイ生地から。薄く伸ばした折り込みパイ生地をくるくると巻いて、冷蔵庫で寝かせ、層を潰さないように慎重に輪切りにします。

バターの折り込みパイ生地を巻いてから輪切りにしたもの。専用の型が無いのでプリンカップを使用しています。

輪切りの真ん中に指を入れ、型に沿わせるように伸ばしていきます。

中央から外側に向かって、押し広げるように伸ばしていきます。

カスタードを詰めて焼き上げ、完成。

折り込みパイ生地で作ったパステル・デ・ナタ。

お味は……サクサクしていて、これはこれでとても美味しい。ですが、やっぱりあの「Pasteis de Belem」の薄いガラスのような「ザク、パリン!」とは明らかに別物です。パイ生地特有の、モロモロと細かく崩れてくる食感でした。

ここからが大本命。ラード×バターのハイブリッド生地

いよいよ、脳内ミステリーの答え合わせです。油脂は仮説の通り「ラードとバターを50%ずつ混ぜたもの」を用意しました。
まず小麦粉と水だけでドウ(生地)を作り、しっかり寝かせます。ここからの「薄く伸ばす工程」は、麺棒は使わず、イスラム的な職人技をイメージしながら、手で引っ張るようにしてぐいぐい伸ばしていきます。

多少破けても気にせず。長方形になるように伸ばします。

向こうが透けるくらいにまで伸びた生地に、柔らかくしたバターとラードを、塗り残しがないようにたっぷり塗っていきます。

生地を巻いていきます。家庭で作る分量では、動画の職人さんのような「巨大な丸太」にはできません。できる限り太い棒状になるように、畳んで横幅を短くしてから巻いてみました。この時点で長さ12〜14cm、直径5〜6cmほど。

巻き終わりました。紙、というより薄い布のようにできあがっています。

そして、ここからが一番のポイント。ベレンの職人さんのあの動きをイメージして、この太い棒を細長く伸ばしていきます。
手に油脂を塗りつけてコロコロ転がしたり、空中で振ったり……。もちろん、生地は冷やさず常温のままです。これまで持っていたパイ(層状)生地作りの常識に反して、生地をかなり強く何度も触っているため、「本当に層が潰れないのか…?」と、不安が押し寄せます。

細長く伸ばし終わったもの。

なんとか直径2〜3cmまで細く伸ばし、3cm幅で輪切りに。生地がかなり柔らかくて形は少し潰れてしまいましたが、よく見るとちゃんと渦巻きの層ができています。

渦巻の層が見えます!

型に敷くため、真ん中に親指を入れて伸ばしていきます。冷やして作る折り込みパイ生地よりも圧倒的に生地が柔らかいため、油断すると底を突き破りそうで本当に怖かったです。
底を破らないように、でも、できるだけ薄くなるように、慎重に、慎重に……。

指をぐぐっと入れて伸ばしていきます。
何とか破らずにできました。

カスタードを詰め、我が家のオーブンの最高温度である250℃で一気に焼き上げます。

完成!

オーブンの扉を開けると、そこにはきちんと浮き上がった美しい層が! カスタードの出来はさておき、生地の見た目はかなり良い感じではないでしょうか。期待で胸が高鳴ります。

底の渦巻き模様もバッチリ。

ひっくり返してみると、底にもパステル・デ・ナタ特有の、あの綺麗な渦巻き模様がクッキリと現れていました。

完璧ではないけれど、確かな「再会」

まだ温かいうちに、焼き上がったナタを一口、食べてみました。

ザクっ! バリン!!
……!!! これです、この食感!!

これまで、どのお店のパステル・デ・ナタを食べても、「美味しいけれど、やっぱりあのベレンのナタとは何かが違う」と思い続けていました。

あの味に出会ってからもう何年も経っています。実はもう本当の味なんて忘れてしまっているのではないか、思い返しすぎて私の記憶の中で美化されているだけなのではないか、とすら思い始めていました。

ですが、自分で焼いたこのナタを口にした瞬間。
あのポルトガル旅行の記憶、ベレンで一口齧ったときの感動が、鮮やかに蘇ってきたのです。

ベレンの港。/筆者撮影

この時私は、子供たちを寝かしつけた後、夜の狭いキッチンに一人で立ちながら、いつのまにか、目が痛いほどの太陽の下で色鮮やかに輝くリスボンの街にいました。

深い青色の看板とドアをくぐって、ワクワクしながらお店の奥へと進んでいったこと。「せっかくだし3個いけるか……?」なんて迷いながら注文したこと。アズレージョ(タイル)の素敵な店内をキョロキョロ見回しながら、ソワソワと運ばれてくるのを待っていたこと。目の前に現れた、まだ湯気が立ちそうなナタに目を輝かせたこと。

今まで忘れていたはずの現地の光景までが一気に頭の中に流れ込んできて、じわじわと心が温かく、高揚していくのを感じました。

「もう二度と味わえないのかもしれない」と諦めていたあのナタの味に。
完璧な再現ではないかもしれないけれど、私は確かに、この日本のキッチンで「再会」することができたのでした。

専用のエッグタルト型も手に入れ後日再チャレンジ。
さらにもう一回。手慣れてきて、美しい層ができるようになりました。…が!手慣れたのが仇になり、生地を薄くし過ぎて本物よりも繊細な仕上がりに。。丁度良い加減が難しいのです。

【おまけ】生地に全力を注ぎすぎた結果

お気づきの方もいるかもしれません。私が異常なまでに「生地」だけに執着していたことに……。
パステル・デ・ナタのもう一つの主役、カスタードはどうしたのか。

正直に言います。
今回は生地の仮説を実証することに全エネルギーを注ぎすぎて、カスタードを検討する気力が全く残っていませんでした。
とりあえず初めに見つけたレシピ通りに作ってみたのですが、焼き上げる前の見た目の時点で、ベレンのものとは全く異なることに気がつきました。味はもちろん美味しかったのですが、本物のカスタードはもっともったりしていて、白っぽくて、口の中で「トゥルントゥルン」と解けるような食感だった記憶があります。

家庭用オーブンの温度(250℃)の限界もあり、本物のような深い焦げ目をハッキリとつけることもできませんでした。(ベレンの店のオーブンの最高温度は400℃だそう)
今回の私の挑戦はここまでですが、いつか気力が回復したときには、今度はカスタードの再現にもこだわってリベンジしたいと思っています。


あとがき

数年前まで5年間ベルギーに暮らし、夫と各地の美味しいものを食べ歩く日々を送っていました。ポルトガルでこのベレンのナタに出会ったのも、その時のことです。
現在は日本に帰国し、2歳と5歳の子どもたちに振り回される毎日を過ごしています。「いつかまたあの場所にいきたいけれど、現実的にはもう難しいな」と、小さな絶望と寂しさを感じていた時期もありました。

「行けないなら、もう自分で作るしかない」

半ば冗談で作り方を調べ始めたベレンのナタ。しかし、動画を見て作り方の違和感に気づき、1837年のリスボンの厨房を想像し、19世紀の歴史を調べに調べて、スペインそしてイスラムへも思いを馳せ…。試作を重ねて「ザクッ、パリン!」というあの食感に出会えたとき。気がつけば私は、日本のキッチンにいながら、時間も国境も飛び越える壮大な旅をしていました

「なんだ、ここに居ても、どこにでも行けるんだ。」

このパステル・デ・ナタに挑戦したことで、そんな風に思えるようになりました。どこにも行けないと諦めていた私の心は、「次はどんなものを作ろう、そこにはどんな面白い謎や歴史があるだろうか」と、小さくて沢山のワクワクに満たされ、静かに弾み始めています。

現実は相変わらず、ちいさな怪獣たちとの毎日でバタバタです。でも、今の私の頭と心は、自由に、足取り軽く、どこへでも行ける。

ベルギーの砂糖のタルトを求めてワーテルローへ向かったと思えば、モネの料理ノートを開いて120年前のジヴェルニーに飛び、スコーンの変化を追うべく19世紀のスコットランドとロンドンを往復し、本物のリコッタを求めてシチリアの農場へ…。

毎晩、子どもたちが眠った後の静かなキッチンから、興味の赴くままに世界を旅し続けています。


これまでの私の脳内&キッチンでの旅行にもお付き合いいただける方はこちらもぜひ。

クロード・モネの料理ノートを開いて、120年前のジヴェルニーの食卓へ。

スコーンがどう変化したのか知りたくて、19世紀のスコットランドとロンドンのスコーンレシピを追いかけた話

ベルギーの「砂糖のタルト」は、ナポレオンから始まった?


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