狼王の嫁①
【あらすじ】
厳しい寒さと謎の地下迷宮に囲まれた土の国。そこで暮らす少女ホリーは、家事が得意なごく普通の女の子。
ある日、国の英雄「狼王」の屋敷で働くことになり、その息子・クラウスと出会う。英雄の息子にふさわしい責任感と才能を持ちながら、人知れず努力を重ねる彼のひたむきな姿に、ホリーは少しずつ惹かれていく。
しかし、主人の息子との恋は許されない。それでも、悩み、迷い、ときには命の危機に直面するクラウスを支えたい――その一心で行動するホリー。そんな彼女の真っすぐな想いは、やがて狼王一家や仲間たちの心を動かしていく。
これは、一人の少女が大切な人を想い、仲間との絆を育みながら成長していく、雪国を舞台にした青春ファンタジーラブストーリー。
第一章 独り立ちは、突然
まだ薄闇に包まれる時間に目覚め、ホリーは直ぐに温かい上着を羽織って暖炉に火を熾す。朝一番に水汲みをするのは、ホリーの大切な仕事だ。暖炉で温めても、直ぐに手が冷たくなってしまう。
すりすりと両手を摺り合わせながら台所に向かうと、母が深刻な顔で立っていた。
「おはよう、母さん。水汲みしちゃうね」
「ホリー、水汲みはしなくて良いわ。重要な話があります」
「うん、なに? 深刻な顔して……」
そう言えばそろそろ起きてくるはずの父の姿が見えないな、と思っていると母は深刻な話を始めた。
それはホリーの人生をひっくり返すほどの重要な話だった。
「父さん……あの腐れ外道は、他所に女と、ウチに借金を残して昨夜遅くに逃げたわ。この家も借金の抵当に入っているの。仕事が決まり次第、出て行かないといけないわ」
「え?」
「幸い、私たちは頑丈だし、色々と器用だわ。なんとか住み込みの働き口を探して、お互いに逞しく生きましょう」
「もう、一緒にはいられないの?」
ホリーは来年で十五歳になる。土の国では十五歳からは大人として認められるが、突然の事で心細くなってしまう。まだまだ、母から教わりたい事も沢山あったのに。
ホリーの問いかけに、気丈で父より頼りになる母が初めて涙を見せた。
「ごめんなさい、ホリー。本当なら、貴女に最適なお婿さんを探してあげるのが一番の幸せだと思ったけど……」
「知らない人のお嫁さんなんて、嫌だよ……」
「そう言うだろうと思って、ホリーが気に入りそうな働き口を探したわ。父さんの件が無くても、いつかは、と思っていたし……。急な事で心の準備も出来ないだろうけど、もうこうなったら仕方ないわ。腹をくくりましょう」
話している内に何時もの気丈な母に立ち直り、涙は消え失せた。でも、それは全部ホリーの為に我慢してくれているのだ。ホリーは幼い頃のように思い切り母に抱きついた。
「二人一緒は難しいみたいだわ……」
優しい母の手が背中を撫でてくれる。ホッとして涙が出そうなのを、ホリーは必死で堪えた。
「うん、大丈夫よ、母さん。父さんが私達を売り飛ばすようなド腐れ外道じゃなかっただけマシよ。ね?」
そんな悲しい話を何度も耳にした事がある。子供が産まれなかったからと、迎えたお嫁さんを実家に帰す事もせずに、娼館に売り飛ばして金に換える。
子供が出来ないのは女性の行いが悪いせいだと言われ、夫が他所で子供を作ってきても文句を言えない。
ホリーは自分が女であると言うだけで、どれだけ生き辛いのか、既によく知っていた。
「でも、母さんの見る目が無かったのは事実よ……ごめんなさい、ホリー」
「そんなの、仕方ないわよ。私は平気よ! 自慢の母さんがいるし、父さんは元々、いないと思えば良いだけ」
それに、まともに家で顔を合わせる事の方が少なかったのだ。大きなヤマを当てるのだと儲け話に釣られてあちこち駆け回っており、その「どでかく儲かる」話が当たった試しは無かった。
その度にちょこちょこ借財をし、母が全て完済するという、駄目な男の見本市のような人だったのだ。
そんなだらしない人なのに、何故だか女性には人気があって、帰ってくると時折、きつい香水の匂いを漂わせていた。
おかげでホリーはすっかり男性不信に陥り、結婚してもしなくても、一人で生きていく力がなくては駄目だと、色々な家から頼りにされている腕利きメイドの母から様々なことを教わっていたのだ。
今では母ほどでは無くとも、小さな家ならば切り回せる自信がある。
(出来れば優しいご主人様が良いなぁ……)
母が厳選しているのだから、間違いのない家ばかりだろう。
流石にいきなり身分の高い家庭に入る度胸は無いので、ある程度庶民に近い所が良いな、と思いつつ手渡されたリストを見た途端、ホリーは齧り付く勢いで紙に顔を近付けた。
「あ、ここ、え、ほ、本当にこの方が下働きなんて探しているの?」
仕事先一覧の一番先頭の勤め先に、ホリーは顔を真っ赤にして食いついてしまう。
「ええ、ホラ……貴女の好きな隊長様が……」
「ロルフ様!」
「そうそう、あのロルフ様が大怪我を負って引退なさったでしょう? かなり不自由されているのに、なかなか働き手が居着かないのですって。どう、貴女憧れてたでしょ?」
「うん!」
興奮のあまり、紙をくちゃくちゃにしてしまう。
「わ、わたし、ここ、行ってくる!」
「ええ、ロルフ様の所だったら安心だわ。気に入って頂けるように、頑張って自分の出来る事をしっかりアピールするのよ」
「うん! 母さんも、頑張ってね!」
ホリーは「行ってきます!」と弾けた豆のように勇ましく家から飛び出した。
家から飛び出すと、迎えるのは真っ白な雪に包まれた山々。土の国は天高く聳える山に囲まれている。
死の山と呼ばれるほどに険しい山脈に守られて、外敵の心配はほとんどない。反面、外との繋がりが持ちにくい分、自国の田畑で全国民の口を賄わねばならない。
本来なら一年のほとんどを雪に閉ざされてしまうこの国に実りなど無いのだが、ホリーの住む最北端のこの町の、更に北の町外れには不思議な地下迷宮が存在しており、そこが国家のライフラインと言っても過言では無い。
地下に潜る程危険で獰猛な獣が出たり、時には突然落とし穴があったりと、危険ばかりの場所だが、浅い階層は比較的安全が確保されており、何故か年中一定の気温で心地よく温かい。そこを地道に広げた畑で穀物や野菜を育てる事が出来る。
更に、地下迷宮にはそこでしか採取出来ない貴重な薬草や高値で取引される鉱脈が眠っている。危険と背中合わせだが一攫千金のチャンスもある。
その大博打をする為に、各国から腕に覚えのある冒険者がやってきては迷宮に挑む為、この町は彼らを賄う為に発展してきた。
反面、各国から血気盛んな者が集まるので治安は悪い。特に、女性は例え昼間でも一人で出歩く際、身を守る術が必要だ。
国を守る兵士が存在していても、それは遠く離れた首都を守る集団で、ホリーは兵士と言うものをこの目で見た事が無い。
兵士に代わる、人々を守る存在は救助隊員だ。
本来の仕事は、その名の通り迷宮の遭難者や雪山の遭難者を救助する事。徐々に役割を増やしていき、今も町を巡回して警備にあたる猟犬使いの隊員が異常は無いか確認してくれている。
救助隊員の特徴は簡単に見分けられる。必ず、相棒の猟犬か鳥を連れて歩いているからだ。
ホリーにはそんな特別な才能など無いので全く分からないのだが、救助隊員達は相棒の動物と心を通わせ、会話をする事も可能なのだとか。
その中でも、狼使いは特別だ。気高く、山の神のように崇められている彼等と心を通わせる事が出来る一族は限られており、今やこの国でもたった二人きり。
現役を引退してしまったロルフと、彼の一人息子だけだ。
そして、憧れの狼使いロルフと言えばこの町……いや、この土の国の民ならば誰もが知る英雄だ。
時には小部族の小競り合いが続く隣国の火の国から流れてきた無頼者相手に戦場に立ち、『狼王』と異名を取る程の凄腕の剣士として名を馳せた。
そんな近寄りがたい程の英雄であるのに、国にいる時は町の警備隊長として民の一人一人に優しく声をかけてくれる、そんな温かい人柄だ。
(きっともう覚えていらっしゃらないだろうけど……)
英雄の凱旋を一目見ようと沸き立つ人々に押されて転んでしまった幼かった頃のホリーを優しく抱き上げて、泣いているホリーの頭を撫でてくれた。その手は大きくて、温かくて、優しくて……。
既に家に寄り付かなくなっていた実の父よりも、ロルフの手を父と思うようになっていた。
賑やかな商店街を抜けて北に続く道をひたすら真っ直ぐ。小高い丘の上にポツンと佇む家は、英雄の住処にしては簡素な作りだった。大通りに並ぶ商店の方が立派なくらいだ。
だが、ホリーにとっては輝く憧れの家。広い庭を抜けて扉の前にたどり着くと、ホリーは何度も深呼吸してから緊張で震える手で扉をノックした。
キィ、と古ぼけた音を立てて扉が中から開かれる。蝶番に油をさして、少しお手入れした方が良いな、とホリーは緊張しつつも、頭の片隅で思っていた。
「あ、ロルフ様の……」
扉を開いたのは人では無かった。闇に溶け込むような漆黒の毛並みに鋭い金の瞳。ロルフの相棒狼、オールだ。ロルフと共に誇らしげに町を歩く姿を遠巻きに見ていたので、見知っている。
(なんて綺麗な金色の瞳……。それに、真っ黒な毛並みがツヤツヤしているわ……)
思わず見惚れていると、オールはホリーを見上げて軽く匂いを嗅いだ後、くるりと背中を向けてクイクイと鼻先で廊下の奥を指した。
「お、お邪魔いたします……」
どうやらオールは案内をしてくれるらしい。スタスタ先に歩いて行って、時折振り返って様子を見てくれる。怖そうな外見なのに、きっとロルフに似て優しいのだ。
「ありがとうございます、オール様」
何時も心で呼んでいた名前を初めて呼ぶ。オールは名前を呼ばれた時だけ、ピッと耳を後ろに倒したが、そのまま真っ直ぐ歩いていく。
やがて一つの部屋の前で立ち止まり小さく吠えると中から人の声が答えた。
「オール、出迎えご苦労。入りなさい」
「は、はい! し、失礼します!」
緊張のあまり、声がひっくり返ってしまった。慌てて、走ってきたせいでぐしゃぐしゃの髪を整えて手早く深呼吸してから、そっと扉を開いて直ぐに頭を下げてしまう。
「あ、あの、わ、私、こ、ここで、は、はたなか、はた、働かしぇてくらさい!」
力一杯、盛大に、選りに選って憧れの人の前で恥ずかしい程盛大に噛んでしまったホリーは、もう顔を上げられなかった。
(恥ずかしい……。どうしよう、物凄い粗忽な子だと思われたわ、きっと……)
自分が出来る事をアピールする為にも早く身上書を渡さなければならないのだが、緊張と恥ずかしさでもう、少しも動けない。
「あ……」
モタモタしているうちに、ホリーの手から身上書をひったくったオールが、さっさとロルフに渡してしまった。
「ほう、ホリーと言うのか。良い名だ。私は柊が好きでね。あの花の香りは寒さの中で甘く際立つものだ」
「は、はい、母が……」
母が付けてくれた名前だ。母も柊が好きで、優しくて甘い香りの花のように慎ましく優しい子になって欲しいと願って付けたと聞いた事がある。
ようやく、そろりと顔を上げたホリーは思わず息を詰めた。ロルフが大怪我を負って九死に一生を得たと噂を聞いていたが、まさか片腕を失っていたとは。
(きっととても不自由なさっているのね……)
それこそ、下働きは今直ぐにでも必要なはずだ。
でも、優しくて穏やかなロルフに、紳士的で礼儀正しいオール、それに確か救助隊訓練所の卒業を間近に控えた息子さんがいるはず。
決して厳しそうではないのにどうして誰も居着かないのだろうか、とホリーは思わず首を傾げた。
「下働きが居着かないと聞いて不安かね?」
「はい。……あ、い、いえ! 不思議だなと思っただけです!」
「フフ、君は正直者だな。居着かないと言うより、私の相棒のお眼鏡に適う者が居なかっただけなのだよ」
「え? でも、私……」
あっさりと通して貰ったし、何も試された覚えが無い。当のオールはロルフのベッドサイドで澄ました顔をしており、ロルフに頭を撫でられて気持ち良さそうに目を閉じている。
「何しろ働き手は年頃の娘さんだ。大半が息子目当てでね。ほとんど私と過ごすに相応しく無いとオールが怒って追い返してしまうのだよ」
不純な動機という点ではホリーもドキリとして胸を押さえたが、動機がロルフであった事が幸いだったらしい。
だが、もちろんホリーはオールと話しもできない。憧れのロルフの元、一つ屋根の下で働ける、と言う不純な動機が分かるはずが無いのだが……。
「ん? どうした?」
ロルフはオールに優しく問いかけ、オールも頼れる兄のようにロルフに甘えている。オールの伝える気持ちが分かるのだろう。ロルフは細かく頷いて最後に一つ、得心がいったように大きく頷いた。
「なるほど。お前、オール様なんて呼ばれて照れてるのか?」
「ガウ!」
「分かった分かった、そうか、そうだったか」
訳を聞き出したらしいロルフが、オールの言葉を代弁してくれた。
「まず、ホリーがおしゃれをして来なかったから、息子目当てではないと判断したようだな。それに、オールの名前を知っている女の子は珍しい。フフ、それが嬉しかったようだ」
「おしゃれ……」
言われて気が付いたが、最低限失礼の無い格好で家を飛び出したので、当然洒落っ気の欠片もない。
「それに狼が近付いたら普通の女の子は怖がって泣き出すか、直ぐに逃げてしまうものだよ。ホリーは平気だったようだが」
「そうなのですか?」
怖がる事などなかった。オールは凛々しく格好良くて、町を歩いていた時も見惚れていたくらいだ。間近で見る事が出来て怖いどころかとても嬉しい。
「私は、元々オール様がロルフ様と一緒に歩いているところ、良く見てましたし……。それに、狼が格好良くて……」
「フフ、君が私の娘で無いのが不思議なくらいだ。君には、猟犬使いの素質があるようだ」
「え? む、むむむ、娘!」
「ああ、済まない。よそ様の娘さんに失礼な事を……」
「い、いえ、いいえ、嬉しいです! ろ、ロルフ様にそう言って頂けるなんて、ゆ、夢みたいです……」
本当に夢じゃないだろうか、とホリーはほっぺたをつねってみた。とても痛いので夢では無い。
「それでは、早速今日から働いて貰えるだろうか。先ずは家の中をオールに案内させるので覚えて貰うのと、そろそろ昼食を支度して貰えるだろうか」
心得たようにオールが咥えて差し出す紙を受け取る。
「私の医師から食事の制限があるので、それを見て作って欲しい」
「分かりました! お任せ下さい!」
顔を真っ赤にして張り切って答えたホリーは丁寧なオールの案内で資材の置き場なども覚えてから、医師からの細かい指示をしっかり読み込んで、食事作りに取りかかる。
怪我の療養だけでは無く、ロルフはなにか病も患っているようだ。食べてはいけない食材や、控えるべき調味料など、実に細かい。
この全てを受けて食べられるものは相当工夫しなければ、味気ない食生活となるだろう。
(きっと、怪我で弱った体に病が取り付いてしまったのだわ。早く元気になるように、私も全力で努力しないと!)
弱った体にも優しい、野菜スープを作って運ぶとロルフは胸一杯に香りを楽しんだ。
「なんと……豊かな香りがするな。具材は野菜だけだろう?」
「はい! 時間が無かったのでハーブを足しましたが野菜だけでも美味しい下味が付けられるのです。次はもっと美味しいものをお出しします!」
料理は母からの厳しい手ほどきを受けていたから自信がある。あるけれど……ロルフがスープを飲むのを、見守るだけで心臓が飛び出そうなくらい緊張する。
「うまい。こんなに美味いスープは初めてだ」
「まあ……よ、宜しければ、おかわりを……」
「おかわり」
「はい!」
温かいスープを口にしたロルフの顔色は、見る間に健康そうに変わり、ホリーは喜び勇んで差し出された皿を両手で受け取った。扉を閉じる間際、
「ん? フフ、そうかお前は野菜を食べないからな。残念だなぁ、こんなに美味いのに。ああ、鹿肉より美味いぞ? んん? また狩ってくる? お前、ホリーと張り合ってどうするのかねぇ。心配しなくても、お前は最高の相棒だよ」
どうやらホリーばかり褒めるロルフに、オールが駄々をこねたらしい。
(素敵……私も狼とお話し出来たら良いのに)
そうしたら、オールに言ってやるのだ。
「鹿を狩って来て下さったら、一番美味しい所をオール様に差し上げます」と。
楽しい夢物語に微笑みながら、ホリーは急いでロルフにお代わりを運んだ。
知らないうちにオールのお眼鏡に適い、何とかロルフの家で下働きする事が認められたホリーは、お昼の支度と食事の介助の後、住み込みの荷物を運ぶために一度家に戻る事になった。
「もう直ぐクラウス……息子が帰って来るから、アレと一緒に行きなさい。女の子に重たい荷物を持たせるのは忍びない」
「あ、だ、大丈夫です! 私、結構力持ちですから!」
むん、と張り切って力こぶを見せた所、ロルフは吹き出しオールは首を振ってため息をついた。
「良いから、アレが戻るまで待ちなさい。オールも賛成だろう?」
「ガウ」
こくん、とオールは頷き、ホリー渾身の力こぶは鼻先で笑い飛ばされた。
(何よ、オール様ったら意外と意地悪だわ!)
言われた通りにするしか無くて、ホリーは午後のお茶の支度をしつつ、医師のメモを見ながらロルフの体に優しいおやつも手早く支度した。
「おや、カボチャのマフィンか」
「クゥン!」
「ハハハ、そうだ、私の好物だ」
「そ、そうだったのですか? 良かった、バターを使って無いので味は軽いですけど、その分たっぷりカボチャを入れました」
「嬉しいな。……うん、美味い! もう一つ食べて良いかな?」
まるで小さな子供のように無邪気に笑うロルフに、ホリーは焼き上がったマフィンを全て差し出した。
「ど、どーぞ、どーぞ、何でしたら全部召し上がって下さい!」
「良いのか? では、遠慮なく……うん、美味い!」
はしゃいだ声を上げて、ロルフはカボチャのマフィンを三つも平らげた。
(ロルフ様はカボチャがお好きなのね! いっぱいカボチャのレシピを増やそう!)
ホリーが心に書き留めていると、玄関の扉が開かれた。
「ただいま戻りました」
「キューン!」
噂のクラウスと思しき声と共に子犬のような鳴き声も聞こえて、賑やかに駆け込んでくる。
「あ、いかん。オール、アーニャを止めなさい」
「グルル……」
オールは素早くホリーの前に立ちふさがる。まるで物語の騎士様に守られているようで、ホリーはほんのりお姫様気分だった。
直ぐにコロコロと駆けてきたのはオールそっくりの真っ黒な子狼。目をキラキラ輝かせていたが、直ぐに不審な者を警戒して唸り声をあげた。
(か、かわいい!)
顔付きはもうしっかり整い始めているものの、まだ子狼なので毛並みはフワフワ、目が大きくてとても愛らしい。でも、手足は太くがっしりしているのでこれから大きくなっていくのだろう。
一人前に「グルル……」と唸っていても、愛らしい姿にホリーはすっかり心を奪われてしまった。
だが残念な事にいきなり嫌われてしまったようだ。例えロルフのように狼の言葉が聞き取れなくてもありありと分かる。
アーニャと呼ばれた可愛い子狼は、たぶんロルフの事が大好きなのだ。大好きなロルフの側に、見慣れない不審な、しかも女……まだ十四の小娘でも、大好きな人の側にいる女性は敵だ。
威嚇するアーニャに、オールが何か諭してくれているらしい。しばらくすると、渋々とアーニャは威嚇するのをやめた。だが、油断無くホリーを睨む事は忘れない。
「クラウス。しっかりと相棒を抑えなければならんだろう。そんな事でどうする」
今までの優しさが嘘のような厳しさで、ロルフは息子であるクラウスを叱った。ホリーも思わずピシリと姿勢を正してしまう。
「申し訳ありません、父上」
「アーニャをお前が叱っておくように」
「はい」
ホリーだったら、こんなに厳しい声で怒られたら泣いてしまいそうだ。クラウスは同じ年の筈なのに、きちんと頭を下げて毅然とロルフの言葉を受け止めている。
(すごい……怖くないのかしら……)
穏やかな眼差しは、ホリーよりずっと大人びて見える。ふいにこちらを見る目とかち合って、ホリーは慌てて頭を下げた。
「は、初めまして……」
「クラウス、こちらはホリーだ。今日から家に住み込みで働いてくれる。まだ荷物を運び込んでいないから、手伝ってあげなさい」
「はい、父上」
クラウスが頭を下げて部屋から出るのを、ホリーも慌ててロルフに頭を下げ、後ろに続いた。
後で怒られるのが分かっているのか、アーニャがしょんぼりしてクラウスの後ろに続くホリーの隣を歩いている。
クラウスはロルフにそっくりなので、怒り方も似ているかも知れない。こんなに小さな子がホリーでさえ泣きたくなるような迫力で怒られてはかわいそうだ。
「あ、あの、クラウス様……」
「何だろうか」
ロルフの部屋を出て少し離れてから、ホリーは思い切ってクラウスに声をかけた。隣を歩いていたアーニャは歩みが鈍く、ホリーの後ろをトボトボ付いてくる。
耳はぺったんこになってしょげかえっており、その姿にホリーは益々胸が締め付けられた。
「お、お願いします、あまり……アーニャ様を叱らないで下さい……」
「……」
「申し訳ありません、私のような者が口出しする事では無いと分かっていますが、でも、好きな人の前で素直なアーニャ様は素敵です! わ、私だって好きな人の側にいきなり知らない女の人がいたら怒りますもの!」
「……威嚇されたのは君だろう。腹が立たないのか?」
「たちませんとも! だって、だって、アーニャ様はこんなに、可愛いんですもの!」
グッと力拳でもって熱弁を振るうと、クラウスは大きく目を見開いていた。
「可愛い? 狼が?」
「はい! とっても可愛いです!」
するとクラウスは盛大に吹き出して声を立てて笑い始めた。
「え、え? わ、わたし、おかしなこと言いましたか?」
「い、いや、確かにアーニャは可愛いな。俺も妹みたいに思っているし、そんなにひどくは叱らないよ。父上のアレは、まぁ、俺への課題のようなものだ。本気で厳しくしろと言った訳ではないよ」
「そ、そうなのですか? 良かった、アーニャ様……」
安心してアーニャに視線を落とすと、アーニャは素直に顔が明るくなり、ホリーが見ていると気付くとツンと顔をそらされてしまった。
(あ、さすがに直ぐには好きになって貰えないよね)
それでも、少しだけ興味を持って貰えたようだ。ホリーに気づかれないようにチラチラ様子を伺っている視線を感じる。
「だが、今日の肉は半分だな」
「クゥン……」
かわいそうに、アーニャは夕飯のお肉を減らされてしまうらしい。後でこっそりあげたら、怒られるだろうか。
「……アーニャは父上の手からしか食べない。こっそりあげるのは無理だ」
「え! なんでわかったんでひゅか!」
核心を突かれてドッキリしてしまい、またまた盛大に噛んでしまう。
「ホリーは隠し事が出来ないんだな。顔に全部出る」
「えええ?」
恥ずかしくて慌てて両手で顔を隠しても、もう無駄だ。クラウスは楽しそうに笑っている。
(同じ年なのに、ずっと大人の人みたい……)
この国で狼使いはただの一職業ではない。象徴的、崇拝対象、色々な言い方が出来ると思うが、とにかく目に見えない重圧が彼にはのしかかっている。
まして、クラウスは『狼王』の息子なのだ。
良い期待も、悪い嫉妬も、どちらも重たいであろうに真っ直ぐに父の教えを受けながら……こんな風に笑っていられるなんて、なんて強い人なのだろう。
(私、結構しっかりしてると思っていたけど……)
クラウスに比べたら、恥ずかしいくらい世間知らずの慌てん坊だ。そう思うと、何だか恥ずかしくて、ホリーは黙々と歩を進めた。
「こっちの道で、合ってるか?」
「は、はい、こっちの細い道に入った方が近道で……」
「いや、こちらは治安が良くない。大通りを歩こう」
「は、はい」
クラウスとアーニャと共に辿り着いた家は……飛び出した時にはまだ人の温もりが残っていたのに、急に冷たく空っぽに見えた。
(カーテン、なくなっちゃった)
幼い頃のホリーがいたずらして汚れてしまったカーテンを、母は綺麗に染め直して仕立て直してくれた。もちろん、うんとホリーを叱った後で。
「直ぐに戻って参りますので……」
「ああ。暗いから、気をつけて」
「はい……」
薄暗がりに包まれた家の中は、身震いする程寒い。暖炉の灰も綺麗に片付けられて、家の中は空っぽ。ホリーが飛び出した後に母が片付けたのだろう。
貧しい暮らしだったのでたいした家財も無かったが、人が暮らしていないだけで空っぽの家はこんなにも冷たい。
表で待って貰っているのでホリーは手早く荷物をまとめた。と言っても慎ましい暮らしの中でホリーの物は少ない。小さなトランク一つに詰め込める程度だ。
トランクを引きずりながら、ホリーはテーブルに残された母の手紙を見つけた。新しい勤め先の住所とホリーへのメッセージ。丁寧に折りたたんでポケットにしまい、家を出る間際にもう一度だけ、しっかり覚えておこうと振り返ると……。
空っぽの家に母が忙しく立ち働く幻が見える気がした。
この時間なら、母は夕飯の仕込みを終えて明日の支度をしつつテーブルを整えて、貧しくともたっぷり食べられるように工夫した料理を並べて、ホリーもそれを手伝って……。
(私にはもう、帰る家が無いんだ……)
急に心細くなり、涙が溢れて止まらない。表でクラウスが待っていてくれるのだから、早く戻らないといけないのに。
幻の母は振り返り、小さなホリーを抱き上げて笑っている。
『お帰り、ホリー! あらあら、どうしたの? まあまた近所の男の子と喧嘩したのね? お転婆ねぇ、アンタって子は……』
優しい声が、胸に突き刺さった。
大丈夫だよ、と母の手前強がったけれど、ちっとも大丈夫では無かった。帰る家は無くなり、自分は父に捨てられてしまった。
(わたしは、いらない子なの? お父さん……)
少しも家に寄り付かない父に、こちらが愛想を尽かしたつもりでも、心は何時も暗く沈んだ。
もう立っている事も出来なくて、座り込んで泣いていると頬っぺたを何か柔らかい物で軽く叩かれた。
「……アーニャ様……」
隣に座り込んで、アーニャがホリーの頬っぺたを叩いている。いつまで待たせるのかと苛立っているのだろうか。今度は少し強く叩かれた。ペチリと音がする。
やはり、怒っているのだろう。
「ご、ごめんなさい……」
のろのろと涙を拭うが、全然止まらない。クラウスも側に居て、黙って荷物を持ってくれた。
「帰ろう」
差し出された手に、ホリーは素直に従い、クラウスは泣いたままのホリーの手を引いて、家から遠ざかっていく。
泣きながらホリーが戻ると、ロルフは黙ってホリーを片腕で抱きしめて、涙が枯れるまで頭を撫でてくれた。
背中からオールの温もりを感じ、ホリーはまるで実の娘のようにロルフに甘えて泣き続けた。
やがて涙も枯れ果ててホリーが眠りにつくまで。ロルフは優しく、ホリーの傷ついた心ごと抱きしめてくれていた。
