『炉岸に泣く砂』①〜美しい世界へ〜
あらすじ
近未来の日本。核融合とAI演算で覇権国家となったこの国は、沿岸を「炉岸」に変え、全土を統べるOS「砂時計」を稼働させていた。その中枢には、システムの調律者として生まれ、白い部屋に十八年間閉じ込められた少女ミナトがいる。母が命がけで彼女を外へ逃がした先は、日本で最後に残った鳴き砂の浜、琴弾浜。棄民の町「影町」で暮らす少年・透は、浜に流れ着いたミナトを拾う。味も、痛みも、自由も知らない少女は、透と出会い、飯の温かさや砂の鳴る音、笑うことを初めて知っていく。だが、国家保安機構の黒瀬や、冷徹な長官・真壁が二人に迫る。追われながら東京湾の中枢へ向かう二人は、やがてミナトの出自と、この歪んだ国の秘密に触れていく——。
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
白い部屋には、朝も夜もなかった。
天井は高く、壁はなめらかで、継ぎ目がない。病院のように見えるのに、病院にあるはずの匂いがない。消毒液の匂いも、食事の匂いも、人が行き来する布の匂いもなかった。空気はいつも同じ温度で、同じ湿度で、床だけが少し柔らかい。裸足で歩くと、足の裏から体重を読まれているような感触がした。実際、読まれていた。体温、脈拍、血圧、発汗、瞳孔、呼吸、声帯の震え、歩幅、眠りの深さ。白い部屋は、白砂ミナトが何歩歩いたかだけでなく、立ち止まった時に何を恐れたかまで推測した。
部屋の中央に、白い椅子がある。
椅子、というには大きすぎた。寝台でもあり、検査台でもあり、拘束具でもあった。背もたれには細い光の線が何本も走っていて、ミナトが腰を下ろすと、首筋から背中へ伸びる白い回路痕に、朝の挨拶のように接続した。その回路痕を、施設の人間は炉脊と呼んだ。ミナトにとっては、ただ背中にあるものだった。生まれつきそうだったのか、そうではなかったのか、はっきりした記憶はない。
ミナトは十八歳になろうとしていた。けれど身体は、十八歳という数字よりずっと細く、白かった。肩は薄く、腕は頼りなく、膝の皿だけが服の下で小さく尖っている。その華奢さと不釣り合いに、髪だけは栄養が行き届いて、黒く艶があった。長さは顎のあたりで切り揃えられている。伸ばすことは許されていない。首から背中へ続く炉脊が、常に露出していなければならないからだ。前髪も眉の上、目にかからない高さで、定規を当てたように真横に切られていた。眼球の状態を、いつでも観察できるように。すべてが管理の都合だった。そして、管理の都合だけで作られたその髪型が、結果として古い人形のように愛らしい輪郭を描いていることに、施設の誰ひとり気づいていなかった。白い服を着て、白い椅子に座って、白い壁の前で黙っていると、遠目には輪郭が消えた。そこに人間がいるというより、まだ消されずに残っている薄い跡のように見えた。
鏡はなかった。テレビもなかった。ゲームも、本も、ぬいぐるみも、好きに選べる服もなかった。部屋の隅に小さな洗面台と、壁に埋め込まれた食事口があるだけだ。食事口は時間になると音もなく開き、同じ白いトレイを差し出す。食べ終えると、白い部屋はまた何もなかったふりをする。
ミナトの遊びは、ひとつしかなかった。
幼いころ、母が教えてくれた歌だ。
古い歌だった。意味はよく分からない。海がどうとか、砂がどうとか、踏めば鳴るとか、帰ってこいとか、そういう言葉が少しずつ入っていた。けれど、旋律は体に残った。ミナトは退屈を数える代わりに、その歌を口の中で転がした。声に出すと監視が反応するので、ほとんどは息だけで歌った。唇をほんの少し動かし、喉を震わせず、舌の上だけで音を作る。そうすると、白い部屋の底に、ないはずの波の音がひっそり生まれる気がした。
白い部屋の外では、日本が世界を動かしているらしい。
始まりは、一人の科学者が海から莫大なエネルギーを取り出す方法を、社会で使える形にしたことだった。核融合。水素のような軽い原子核を結びつけ、太陽の内部で起きている反応を地上で制御する技術。燃やすのではなく、原子を結び変えて熱を取り出す。かつては、地上に太陽を作る夢と呼ばれていた。燃料の一部は海水から得られる。実用化できれば、発電の常識も、産業の形も、国の力関係も変わると言われていた。
その夢を、日本の海岸線に置ける形にした理論があった。
白砂モデル。
海から燃料を取り、海で冷やし、沿岸部に核融合発電施設とAIデータセンターを一体で建てる。遠くへ電気を送るのではなく、発電したその場で世界中のAI演算を処理する。電気そのものではなく、計算力を売る。企業、政府、金融、医療、気候予測、軍事シミュレーション。世界中が欲しがるAIの脳を、日本の海岸に置かせる。
漁港は白い発電塔になった。砂浜は冷却槽と演算棟に置き換わった。観光地だった海岸は、ガラスと複合材で覆われた国家インフラになった。誰かがそれを誇らしげに呼んだ。
炉岸列島。
そして、全国の炉岸施設をひとつの網として動かすためのOSがあった。
砂時計。
それが何であるかを、ミナトは説明できない。大人たちはいろいろな言葉を使った。発電施設同士の協調。AI演算力の再配分。負荷制御。安全保障。世界の調和。難しい言葉は、白い壁に吸い込まれて、ミナトの中には残らなかった。
ただ、ひとつだけ分かった。
その砂時計は、ミナトを必要としていた。
「ミナトは、音叉なんだよ」
母は昔、そう言った。
「音叉?」
「楽器を合わせる時に鳴らす、小さな基準の音。みんながその音を聞いて、自分の音を合わせるの」
「私、楽器なの?」
「違う」
母は即座に否定した。強すぎるくらいだった。
「あなたは人間。誰が何と言っても、人間」
その言葉だけは、白い部屋でも消えなかった。
その日、ドアが開く前から、ミナトには分かった。足音が違う。
医療スタッフの足音は軽い。警備員の足音は重い。研究員の足音は迷いがない。母の足音は、そのどれとも違う。いつも少し急いでいて、途中で一度だけ止まる。ドアの前で息を整えているのだと、ミナトは知っていた。
「ミナト」
白砂陽子は、両手で小さな箱を持って入ってきた。白衣ではなかった。白いブラウスに、濃い灰色のスカート。髪は後ろでひとつにまとめられている。結び目は低く、耳の下で少し崩れていた。きちんとしているのに、どこか寝不足で、急いで準備した人の乱れがある。化粧は薄い。唇の色だけが、いつもより少し赤かった。
「誕生日、おめでとう」
陽子は笑った。下手な笑い方だった。部屋の角にあるカメラを気にしすぎて、頬の筋肉の順番を間違えているみたいだった。
「今日、誕生日?」
「うん。十八歳」
「十八歳」
ミナトは、自分の口でその数字を確かめた。
十八。施設の外では、十八歳は大人になる年だと聞いたことがある。外へ出てもいい年。働いてもいい年。選んでもいい年。誰かと手を繋いでもいい年。自分のことを自分で決めてもいい年。白い部屋では、ただ接続規格が一段階変わる年だった。陽子は箱を開けた。中には、小さなケーキが入っていた。白いクリームの上に、苺が三つ。蝋燭は十八本も立てられないので、細いものが三本だけ添えられている。
「上へ行こう」
「上?」
「展望レストラン。五分だけ、許可が出た」
「レストラン」
ミナトは、その言葉を映像でしか知らなかった。人が食べる場所。人が話す場所。食べる以上のことをする場所。白いトレイではなく、皿がある場所。陽子が手を差し出した。
ミナトは椅子から立った。背中の光の線が一本ずつ外れる。接続が切れるたびに、身体が少し軽くなった。最後の一本が消えた瞬間、ミナトは自分の背骨を思い出した。椅子に座っている時は、背骨まで部屋のものになっている気がする。立ち上がると、それが少しだけ戻ってくる。母の手は温かかった。
手を繋いで歩くのは、いつ以来だろう。検査室から検査室へ連れて行かれる時にも手は握られる。けれどそれは、転ばないように、暴れないように、逃げないようにする手だった。今、陽子の手は違った。どこかへ連れていく手ではなく、どこかから連れ出す手だった。
* * *
展望レストランは、誰もいなかった。白いテーブルクロスの上に、小さなケーキ。窓の向こうに東京湾が広がっている。かつての横浜、川崎、お台場、湾岸の埋立地、人工島、それらがひとつの白い都市として光っていた。炉岸施設の塔は、観光用のライトアップで青白く縁取られている。水面には無数の浮体式データセンターが並び、遠くでは海底建設用の無人機が、巨大な甲殻類のようにゆっくり沈んでいった。
壁際には警備員が二人いた。白い制服に黒いグローブ。こちらを見ていないふりをして、ずっと見ている。入口の近くには真壁高臣が立っていた。内閣直属の炉岸庁長官。日本の炉岸化を統括する、天照計画の総監。銀縁の眼鏡の奥で、目だけがほとんど動かない。祝うために来たのではない。許可された五分間を、五分間で終わらせるために来ている。
「白砂博士」
真壁は腕時計を見た。
「接続解除から一分三十秒です」
「分かっています」
陽子はテーブルにケーキを置いた。細い蝋燭を三本立てる。ライターの火を近づけると、小さな炎がひとつ、ふたつ、みっつと灯った。
「火って、不思議でしょう」
ミナトは炎を見た。揺れている。赤くて、小さくて、熱そうで、でもこの部屋のどんな照明より柔らかかった。
「きれい」
「昔の人は、こういう火を囲んで、ご飯を食べたり、歌を歌ったりしたんだって」
「危なくないの?」
「危ないよ。だから、誰かひとりが独り占めしちゃいけない」
「独り占め」
「うん。火は、分けるものだから」
ミナトは、母が何の話をしているのか分からなかった。けれど、陽子の声が少し震えているのは分かった。ケーキの甘い匂いと、蝋燭の焦げる匂いがした。白い部屋にはない匂いだった。
「この火は?」
「これは、あなたの火。誕生日の蝋燭はね、最後に吹き消すの」
「点けたのに、消していいの?」
「消すために点ける火も、あるの」
陽子はそう言って、ケーキを切り分けた。白い皿に、白いクリームと、苺がひとつ。ミナトはフォークを持った。使い方は知っている。栄養食にも、形だけフォークが添えられていたことがある。でも、ケーキは初めてだった。一口、食べた。甘い。甘い、という言葉は知っていた。糖分濃度として。味覚刺激として。脳内報酬系への影響として。でも、これはそういう甘さではなかった。口の中で溶けた瞬間、ミナトはなぜか泣きそうになった。
「おいしい?」
「……分からない」
「そっか」
「でも、なくなるのが嫌」
「それは、おいしいってことだよ」
陽子は笑った。今度は、上手に笑えていた。
真壁の腕時計が、小さく電子音を鳴らした。
「白砂博士。残り三分です」
「お母さん」
「うん」
「今日も、戻るの?」
陽子の指が、蝋燭の火の前で止まった。答えの代わりに、彼女は真壁を見ずに言った。
「電気を消してくれる?」
警備員が一瞬だけ動きを止めた。
「誕生日なんです。蝋燭が見えないでしょう」
「規定では、照明の操作は──」
「規定が、ケーキを食べるの?」
警備員は詰まり、真壁を見た。真壁はミナトを見て、それから蝋燭を見た。考えたのは一秒にも満たなかった。
「構わない。照明だけだ」
天井の照明が落ちた。展望レストランは、三本の蝋燭だけになった。窓の外の東京湾が、急に遠くなった。炉岸施設の光も、出島湾の街も、ガラス一枚の向こうで静かに滲んでいる。陽子は身を乗り出し、ミナトの髪に頬を寄せた。警備員の目には、暗がりの中で母が娘を抱き寄せたようにしか見えなかったはずだ。
耳元で、声がした。声というより、息だった。喉を震わせず、舌の上だけで作る音。ミナトはその話し方を知っていた。カメラの下で歌う時の、母の声だった。
「これから、怖いことが起きる」
ミナトも、息だけで返した。
「検査?」
「違う」
「再調律?」
「違う」
「じゃあ、何?」
母の息が、一拍だけ止まった。
「自由」
ミナトには、分からなかった。自由という言葉は知っている。でも、それが怖いことの先にあるものだとは、教わったことがなかった。分からないまま、頬に触れる母の体温だけが、妙にはっきりと伝わった。陽子は身体を起こし、いつもの声で言った。
「消して」
「願いごと、しなくていいの?」
「したよ」
「何を?」
「あなたが、生きること」
ミナトが息を吸った。小さく吹くと、蝋燭の火は思ったより簡単に消えた。世界が一瞬、真っ暗になった。その一瞬で、陽子は動いた。ケーキの下に隠していた、硬貨ほどの薄い器具を剥がし、窓ガラスの下端に押し当てる。起振器。決まった周波数で細かく震え続けるだけの、単純な装置だった。人の耳にはほとんど聞こえない。ただ、ガラスだけが聞いている。物には、それぞれ固有の揺れやすい周波数がある。外から同じ周波数の力を与え続ければ、揺れは打ち消されずに足し算されていく。ブランコを漕ぐのと同じ理屈だ。一度押すだけなら子供の遊びでも、拍子さえ合っていれば、揺れはやがて素材の限界を超える。歌手の声がワイングラスを割るのも、兵隊の足並みが橋を落とすのも、同じ現象。共振という。国中の炉を同調させてきた科学者は、ガラス一枚の歌わせ方も知っていた。何年分の周到さが、この五分間に折り畳まれていた。陽子は左手の指輪を手のひら側へ回し、飾りに見せかけた合成ダイヤの角で、震えるガラスの一点に短い傷を引いた。応力の逃げ場をなくすための、目に見えない切り込み。
それから、椅子を掴んだ。十八歳の娘の誕生日に用意された椅子を、陽子は迷いなく振り上げ、窓へ叩きつけた。
一度目。鈍い音。ガラスの奥で、低い唸りが生まれた。
二度目。揺れの山に、寸分違わず重ねる。唸りが細い悲鳴に変わる。カウンターの上で、伏せられていたワイングラスがひとつ、澄んだ音を立てて砕けた。警備員が音の出所を探して振り向く。ガラスが、鳴いている。
三度目。窓は、割れたのではなかった。爆ぜた。
ダイヤの傷から亀裂が走ったかと思うと、同じ規格で連結されたフロアの窓が、端から端まで一斉に白く濁り、砕け、海から吹き上がる風と一緒に部屋の中へ雪崩れ込んだ。
「博士!」
ガラスの雨の中で、警備員たちが腕で顔を庇う。床を蹴る靴音。真壁の短い舌打ち。陽子はミナトの腕をつかんだ。
「怖いことが起きるって、言ったでしょう」
「お母さん?」
「目を閉じないで」
陽子はミナトを抱きしめた。母親としての抱擁は、一秒にも満たなかった。ミナトは母の髪の匂いを吸った。ケーキの甘さと、蝋燭の煙と、母の汗が混じっていた。
「美しい世界へ」
陽子は、そう言った。次の瞬間、陽子はミナトを割れた窓の外へ突き落とした。ミナトは声を出せなかった。身体が宙に出た。東京湾の光が回る。風が服の中へ入り、背中を引き裂くように冷たい。白い塔、黒い海、ガラスの破片、母の顔、真壁の影。それらが全部、同じ速さで遠ざかる。
落ちる。
そう思った時、下から何かが飛び上がってきた。人を乗せるための救難ドローンだった。夜の闇と同じ色の機体が、翼を折り畳むようにしてミナトの身体を受け止める。衝撃で息が詰まった。金属の腕が腰と肩を固定し、機体が急上昇する。
薄闇の中で、銃声が響いた。
一発。
警備員が照明を戻した。割れた窓の向こう、白く明るくなったレストランの中で、陽子が胸を押さえていた。白いブラウスの上に、赤が咲いている。真壁が銃を構えていた。硝煙が、銃口の先で細くほどけている。ミナトは手を伸ばした。届くはずがない。ドローンの固定具が腕を押さえ、風が声を奪った。陽子は、割れた窓際までよろめいた。血のついた唇が、何かを形にする。
いきなさい。
ミナトには、声は聞こえなかった。けれど口の形で分かった。行きなさい、だった。生きなさい、でもあった。
真壁が、もう一度引き金を引いた。陽子の身体が後ろへ揺れ、それから前へ傾いた。割れた窓の縁を越え、白い花びらみたいに夜へ落ちていく。ミナトは目を閉じなかった。閉じてはいけないと、母が言ったから。
ドローンが加速した。東京湾中枢施設の塔が遠ざかる。白い人工島が小さくなり、湾岸の光が線になり、やがてどこへ向かっているのか分からない夜の海だけが、機体の下に広がった。
ミナトは、母の口の形を何度も思い出した。
行きなさい。
生きなさい。
その意味を、まだ知らなかった
* * *
琴弾浜の朝は、魚の匂いで始まる。正確には、魚そのものよりも、昨日の魚を入れていた箱の匂いと、乾ききらない網の匂いと、潮を含んだ錆の匂いだった。京都の北の端にあるその浜は、観光案内からはほとんど消えていた。昔は、白い砂と鳴き砂で少しは知られた場所だったらしい。歩くと砂がきゅっ、きゅっと鳴る。きれいな砂でなければ鳴らない。だから、浜が鳴るうちは海もまだ死んでいない。老人たちはそう言った。
鳴瀬透は、その話が嫌いだった。
砂が鳴くから何だ。鳴いたところで飯は出ない。鳴き砂を守ったところで、通信料は払えないし、AIの利用権も戻ってこない。美しい浜だと自慢する大人たちほど、薄い財布を眺める時は黙り込む。なら最初から、砂なんか自慢しなければいい。
透は十六歳だった。身長だけは伸びたが、身体は薄い。肌は浜の日差しに焼かれて、健康的な浅い褐色をしている。髪は栄養不足と海水に色素を抜かれ、染めてもいないのに茶色く褪せて、潮と寝癖で好き勝手に跳ねていた。金がなくて出来上がった色のはずなのに、遠目には、ただのやんちゃな悪ガキに見えた。制服は持っているが、今日は着ていない。いや、昨日も着ていない。学校へ行くには、交通費より先に、行く意味を用意しなければならなかった。AI利用権のない子どもは、課題の提出も、進路相談も、職業訓練の予約もまともにできない。先生は悪い人ではない。ただ、悪い人ではない大人たちが、透をどうにもできないまま、少しずつ見ないふりをするのが上手くなっていった。
浜の裏手には影町と呼ばれる一角がある。地図には載っていない。戸籍とIDを失った老人、端末を買えなかった者、家賃を払えず海沿いに流れた家族、基礎配当の申請からこぼれた人間たちが、廃材とブルーシートと壊れた小屋で暮らしている。国の発表では、日本国民の全員が国民基礎演算配当、通称基礎配当を受けていることになっていた。住居、医療、食料、通信、最低限のAI利用権。二〇二〇年代にベーシックインカムと呼ばれて議論されていたものは、三十年後の日本で、演算権込みの生活保障として整えられた。ただし、国民として数えられていれば、の話だ。
「透、網、そっち持て」
浜で老人が怒鳴った。
「持ってるよ。見りゃ分かんだろ」
「見て分かるほど持ててねえんだよ。若いんだから腰入れろ、腰」
「腰入れたら金くれんの?」
「減らず口なら百点やる」
「百点で飯食えるようになったら呼んで」
透は濡れた網を引いた。重い。昨日の雨を吸って、藻と砂と小さな貝殻を絡めている。手のひらに縄の跡が食い込む。朝の海は薄い青で、冷たい。美しいと言えば美しいのだろう。けれど、透にはその美しさが腹立たしかった。こんなにきれいなものが目の前にあるのに、誰もそれで生きていけない。
「その顔、また朝から世界を恨んでる顔だな」
声をかけてきたのは、ヤマトだった。年齢はよく分からない。五十代にも見えるし、もっと老けて見える日もある。髪は伸び放題で、顎には白い髭が混じる。背中は少し曲がっているが、腕はまだ太い。影町の連中はみんな、彼を「ヤマトさん」と呼ぶ。名字を聞いた者はいない。聞かないのが、あの辺りの礼儀でもあった。人は名前を失って流れてくる。昔の名前を掘り返すのは、墓を素手で掘るのに似ている。
「恨んでねえよ」
「じゃあ何だ」
「眠い」
「若いのに夢がねえな」
「夢を見るにも端末いる時代なんだよ」
ヤマトは笑った。笑うと、顔の皺が深くなる。
「なら、浜でも見とけ。無料だ」
「一番いらねえサブスクだわ」
その時、空の遠くで低い音がした。
飛行機ではない。漁協の古いドローンでもない。もっと重くて、速い。けれど、空を見上げても何も見えなかった。雲の薄い場所に、一瞬だけ黒い点が滲んだ気がした。すぐに消えた。
「今の、何?」
透が言うと、老人たちも海の方を見た。
「雷か?」
「晴れてんぞ」
「炉岸の工事音じゃないか。ほれ、竹野の方から響く時あるだろ」
誰もはっきり分からないまま、すぐに網の話へ戻った。
昼近く、透は浜の端を歩いていた。朝に手伝った分の小銭と、売れ残りの小魚を受け取って、影町へ戻る途中だった。砂は乾いたところだけ、かすかに鳴った。きゅっ、というより、何かが喉の奥で我慢しているような音だった。波打ち際に、白いものがあった。最初は、発泡スチロールかと思った。次に、大きな鳥かと思った。近づくと、それは人だった。
「おい」
透は立ち止まった。
白い服の少女が、横向きに倒れていた。髪は海水を吸って頬に貼りつき、唇は青い。片足は波に洗われ、もう片足は砂に埋もれている。裸足だった。足の指は細く、爪の色が悪い。
「おい、生きてんのか」
透は周囲を見た。誰もいない。遠くで老人たちが網を洗っているだけだ。
「マジかよ……」
近づいて、しゃがむ。伸ばした手が、少女の肩に触れる直前で止まった。服が濡れていた。白い、飾り気のない布。病院着にも見えるし、何かの制服にも見える。海水を吸ったその布は肌に貼りつき、胸や腹の薄さをそのまま浮かび上がらせていた。エロい、と思ったわけではない。思ったわけではない、はずだった。けれど、透の目は一瞬だけ動かなくなった。見てはいけないものを見ている気がした。見てはいけないと思うほど、どこを見ればいいのか分からなくなる。
「ば、バカか、俺は」
透は自分に小さく悪態をついて、顔を背けた。その拍子に、少女のうなじが見えた。濡れた髪の隙間から、首筋が白くのぞいている。細い。手で包んだら折れそうなくらい細い。その白さに、また視線が吸い寄せられた。今度は、ただの肌ではなかった。首の後ろから背中へかけて、薄い回路のような白い痕が走っている。傷跡にも、刺青にも、医療器具の跡にも見えた。光ってはいない。ただ、皮膚の下に別のものが眠っているような異様さがあった。
「何だよ、これ……」
透はすぐに目を逸らした。逸らしたのに、残像だけが頭に残った。少女が小さく咳き込んだ。
「っ……」
「生きてる!」
思わず大きな声が出た。少女の身体がびくっと震える。透は慌てて声を落とした。
「悪い。大丈夫か。いや、大丈夫じゃねえよな。立てるか?」
少女は薄く目を開けた。黒い目だった。焦点が合っていない。海でも空でもなく、もっと遠いものを見ている目だった。
「ここ……」
「浜」
「浜?」
「そう。海。分かる? お前、海に落ちてた」
少女は唇を動かした。
「呼ばれてる、気がした」
「は?」
「呼ばれてる気が、した」
透は眉をひそめた。変な奴だと思った。だが、変だと切り捨てるには、少女はあまりにも軽そうで、寒そうで、死にかけていた。
「名前」
「……ミナト」
「ミナト」
名字は?と言いかけて、透はやめた。名字を聞いて何になる。ここでは、名字が役に立つ人間の方が少ない。
「俺は鳴瀬透」
言ってから、自分から名乗るなんて柄でもないと思った。けれど、名前も知らない相手を背負うのは、なんだか据わりが悪かった。
「ナルセ……さん」
「透でいい。ここでは人を上にも下にも見ない」
ミナトは、その言葉の意味を確かめるように、もう一度言った。
「トオル」
「あぁ、ミナト。歩けるか?」
ミナトは身体を起こそうとした。腕に力が入らない。肩が震え、すぐに崩れた。透は舌打ちをした。焦りの舌打ちだった。
「分かった。無理すんな」
彼は自分の上着を脱いで、ミナトの肩にかけた。濡れた布の上からでは大して温かくもない。けれど、少なくとも透の目のやり場は少しだけできた。
「立てるか。肩、貸すから」
透は上着をミナトの肩にかけ直すと、手を差し出した。ミナトは差し出された手を見た。それから、恐る恐る自分の手を重ねた。透が引くと、細い身体は驚くほど軽く立ち上がって、そのまま前へつんのめりかけた。透が肩で受け止める。
「うおっと。ゆっくりでいい」
「立てる」
「立ててねえよ、今」
ミナトは透の腕につかまって、一歩を踏み出した。裸足だった。波打ち際の砂に、白い足が沈む。その瞬間、ミナトの足の下で、砂が鳴いた。
きゅっ、きゅっ、と。
ミナトは動きを止めた。
「音」
「鳴き砂。歩くと鳴るんだよ、ここの砂」
「砂が?」
「きれいな砂だと鳴るんだってさ。知らんけど」
ミナトは、もう一歩、踏んだ。また鳴った。踏むたびに、砂が小さく応える。足の裏に、乾いた砂の温みと、湿った砂の冷たさが、順番に返ってくる。白い部屋のシャワールームの、いつも同じ温度の、同じ肌触りの床とは、何もかもが違った。あそこの床は、ミナトが何歩歩いても、何も言わなかった。波が寄せて、ミナトの足首を洗った。ひやりとした。それから、引いていく波が、足の下の砂をさらって、足首をくすぐった。ミナトは小さく息を呑んだ。
「冷たい?」
「……分からない。でも、」
ミナトは自分の足元を見下ろした。
「砂が、鳴いてる」
「泣いてんじゃねえよ。鳴ってんの。音の方」
「泣いてるの?」
「だから、鳴ってるって……あー、もういい」
透は説明を諦めた。どっちでもよかった。この少女が、生まれて初めて自分の足で立って、自分の足で世界を鳴らしていること。それだけが、なぜか、少しだけ誇らしかった。透は浜の向こうを見た。影町の青いシートと、錆びたトタン屋根が見える。人を隠すには、ちょうどいい場所だ。
「あそこまで、歩けるか」
「どこ?」
「いないことにされた人たちのところ」
「いない……?」
「世界から見えないことになってる人たちの場所だよ。だから、お前を隠すにも、ちょうどいい」
ミナトは、透の腕につかまったまま、もう一歩を踏んだ。砂が鳴いた。
「大丈夫」
透は、何の根拠もないまま言った。
「とりあえず、死なせねえから」
ミナトは答えなかった。ただ、透の腕をつかむ指に、少しだけ力がこもった。それは、助けを求める力というより、落ちないように世界の端をつかむ力だった。二人は、ゆっくりと浜を歩いた。透の足も、ミナトの足も、一歩ごとに砂を鳴らす。速さの違う二種類の足音が、不揃いに重なって、浜に散らばった。
遠くの海の上で、白い炉岸施設が光っていた。その光に背を向けるように、日本で最後に残った砂浜は、二人の足の下で、小さく鳴き続けていた。
* * *
同じ夜、東京湾中枢施設、深い深い地下の、ある一室。そこは病室と呼ぶには豪華すぎ、居室と呼ぶには清潔すぎた。壁は継ぎ目のない乳白色。天井には、季節も時刻も無視した柔らかな光が満ちている。調度は一級のホテルのようで、生体モニターや点滴の管や、名前も分からない医療機器だけが、そこが病室であることを静かに主張していた。金は、いくらでも費やされている。ただ、心だけが、一円分も費やされていなかった。
ベッドに、痩せた老人がいた。肌は薄く、血管が透けている。それでも、目だけは奇妙に若かった。最新の延命医療が、この老人の命を、本人の意思とは無関係に、何年も引き延ばし続けていた。死ぬことを、許されていない老人だった。
扉が音もなく開き、真壁高臣が入ってきた。
「サトシさん」
老人は天井を見たまま答えない。
「ミナトが逃げました。行き先に、心当たりは?」
「GPSがあるじゃろ」
老人は、しわがれた声で言った。
「とぼけるな。天才、サトシ・ナカモト」
「天才なんかじゃない。怒りは発明の母、と言ってな」
「鳥籠に閉じ込めている限り不要なので、気づきませんでしたよ。あなたが、あの子の炉脊からGPSを取り出していたとは」
「若い頃から、国家の寝首をかくだけが取り柄なもんでな」
「教える気は、なさそうですね」
「死は、脅しにならんぞ」
老人は、初めて真壁を見た。
「随分と、延滞させられた」
「では、罰として。まだまだ延滞していただく」
真壁は静かに言った。老人は、ふ、と息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「背負うよ」
「何をです」
「陽子の分まで、な」
真壁の指が、一瞬だけ止まった。誰も、陽子が死んだとは言っていない。ミナトが逃げたとしか、告げていない。それでもこの老人は、娘の死を、もう知っていた。祖父の勘か、天才の演算か。あるいは、その両方だった。真壁は何も言わず、部屋を出た。
乳白色の扉が閉まる。老人はまた、天井を見上げた。命だけを引き延ばされた部屋の中で、サトシ・ナカモトは、誰にも聞こえない声で、古い歌を口ずさんだ。
海がどうとか、砂がどうとか、踏めば鳴るとか、帰ってこいとか。
孫が、白い部屋で息だけで歌っていたのと、同じ歌だった。
(続く)
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