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第13回林芙美子文学賞 下書き完成

忘れ物係


第一章 忘れ物係

 終着駅には、忘れ物が多い。
 傘が一番多い。ビニール傘、黒い傘、花柄の傘、子ども用の黄色い傘。名前を書いている人はほとんどいない。びしょ濡れのまま持ち込まれるものもあれば、すっかり乾いて埃をかぶってから気づかれるものもある。
 奈緒は事務室の長い机に座り、太いボールペンで、目の前に並んだ傘の特徴を一つずつ手書きの台帳に記録していく。
「ビニール傘、持ち手に青いビニールテープ」
「黒、折りたたみ、紳士用、留め具のボタン欠損」
 奈緒は四十五歳。この終着駅で駅員として働き始めて、もうすぐ十年になる。
 傘だけではない。片方だけの手袋、老眼鏡、弁当箱、学生証、買ったばかりらしいウールのマフラー、読みかけの文庫本、病院の薬袋。一つ一つに、かつてこの駅を利用した「その人の生活」が染みついている。
 けれど、奈緒はその生活に一歩も踏み込まない。
 落としたものは拾う。持ち主が来れば返す。来なければ、三ヶ月の保管期限を過ぎた後に淡々と処分する。それだけだ。
 他人の人生に深入りしても、良いことなど何一つない。そういうことは、しないことにしている。
 昼前、窓口のガラスを叩く音がした。現れたのは、近所に住む常連の山田老人だった。
「駅員さん、昨日の最終電車に、大事なものを忘れてしもてな」
 またか、と奈緒は内心で息をつく。先週は買い出しのネギを忘れたと言って大騒ぎしたばかりの老人だ。
「山田さん、今度は何ですか」
「いや、それがな。家に帰って口が寂しいと思ったら……入れ歯を忘れたんじゃ」
 奈緒は眉ひとつ動かさない。引き出しから、昨日回収されたプラスチック製の透明なタッパーを取り出す。中には、洗浄液も入れられないまま、生々しいピンク色のプラスチックの歯茎がついた総入れ歯が転がっていた。
「これですか」
「おお、それじゃ! ありがてえ、これがないと昼飯のせんべいが食えん」
 山田老人は嬉しそうに剥き出しの歯茎を見せて笑い、タッパーを受け取ると、そのまま自分の口へ入れ歯を放り込もうとした。
「山田さん、ここで嵌めないでください。ちゃんと洗ってからにしてください」
 奈緒が冷淡に遮ると、老人は「手厳しいなア」と頭を掻きながら、それでも嬉しそうに小刻みな歩調で帰っていった。奈緒は台帳の「入歯」の欄に、定規を使って淡々と受領の斜線を引いた。
 二時を過ぎた頃、会社員らしき女性が息を切らせて窓口に駆け込んできた。
「イヤリング、片方だけなんですけど、朝の電車で落として……見つかりませんか」
「色と形は」
「小さい真珠で、金の縁取りが」
 奈緒は引き出しの奥から、小さなビニール袋を取り出した。中には、朝の清掃で見つかった片方だけのイヤリングが入っている。
「これですか」
「あ、それです……よかった」
 女性は受け取ると、大事そうに手のひらで包み込んだ。
「亡くなった祖母の形見で。もう片方だけでも、なくしたら悔やんでも悔やみきれなくて」
 奈緒はそれに何と返せばいいか分からず、ただ頷いた。
 女性は何度も頭を下げながら、改札の向こうへ消えていった。
 形見という言葉が、しばらく耳の奥に残った。
 奈緒はその言葉を、頭の中で繰り返した。誰かが遺した品にも、こうして意味が残り続けることがある。そのことに、深く立ち入るつもりはなかった。台帳の「イヤリング」の欄に、受領済みの線を引く。ペン先が紙をこする音だけが、静かな事務室に響いた。
 午後を過ぎると、激しい夕立が駅舎のトタン屋根を激しく叩いた。
 雷鳴が、遠くで一度低く響いた。窓の外の景色が、一瞬だけ白く沈んだ。
 雨が上がって湿った空気がホームに満ちた頃、小学校低学年の男の子が、半べそをかきながら改札窓口に走ってきた。
「あの、さっきの電車に、カブトムシ忘れた……」
 手元を見ると、緑色のプラスチックの蓋がついた虫かごが空っぽのまま握られている。
「カブトムシ? 虫かごじゃなくて、中身だけ?」
「うん。かごの蓋がちゃんと閉まってなくて、座席の下に逃げちゃったの。オスで、角がすごくて、格好いいやつ……」
 奈緒は壁の時計を見る。折り返しの発車まであと三分。
「ここで待ってて」
 奈緒はトングと、念のために事務室のゴミ箱から拾った小さな空き箱を手に、ホームに停まっている車両へ向かった。
 誰もいない三両目、座席の下の暗がりに膝をつく。冷たいモップの匂いと、乗客の靴が残した泥の匂いが鼻を突いた。
 懐中電灯の光を、座席の脚の隙間に這わせる。埃の塊、丸まったレシート、潰れたガムの包み紙。目当てのものはどこにもない。
 発車まで、あと二分。
 奥の座席へ移動し、床に頬をつけるようにして光を差し込む。鉄パイプの裏側、車輪の軸がむき出しになった暗がりに黒くて硬い塊が見えた。
 動かない。死んでいるのかと思った瞬間、その塊がもぞりと震えた。
「いた」
 光の輪の中で、艶のある黒い甲羅がゆっくりと持ち上がる。長い角が、こちらに向けて構えられた。
 トングを使う隙間はない。奈緒は躊躇なく素手を差し込み、カブトムシの胸を掴んだ。容赦なく細い足の爪が奈緒の手のひらに食い込む。痛みを無視して箱に放り込み、蓋を閉じた。
「ほら」
 改札へ戻って箱を差し出すと、男の子の顔がぱっと輝いた。「ありがとう!」と大声を上げ、カブトムシを慎重に虫かごに移すと、宝物のように抱えて駅の外へと走っていった。
 遠ざかる小さな背中を見送りながら、奈緒は手のひらに残った小さな引っかき傷に息を吹きかけた。
 あの男の子は、カブトムシのことは覚えていても、自分の名前も、この駅員の顔もすぐに忘れるだろう。それでいい、と奈緒は思う。戻るべき場所へ戻ったのなら、それで十分だ。
 ――しかし、すべての忘れ物が、戻るべき場所を持っているわけではない。
 夜、十時。最終列車が静かにホームへと滑り込んできた。
 数人の乗客が疲れ切った顔で降り、静まり返った車内へ、奈緒はいつものように懐中電灯を手に踏み入る。
 一両目、なし。二両目、座席に置き去りにされた週刊誌。蛍光灯の半分は、点滅を繰り返している。奈緒の足音だけが、静まり返った車内に反響した。
 そして、最後尾の三両目。
 座席の下の隙間に、見覚えのある毛布の塊があった。昼間のカブトムシと同じ、薄暗い座席の下のデッドスペース。
「また、誰かの落とし物か」
 奈緒は深くため息をつき、床にしゃがみ込んで懐中電灯の白い光を当てた。
 見間違いかと思い、奈緒は懐中電灯を持つ手に力を込めた。
 光の輪の中で、毛布の表面がまた小さく波打った。風のせいではない。窓は、すべて閉め切られている。
 毛布が、もぞりと動いた。

第二章 それは忘れ物ではありません

 車内の蛍光灯が、奈緒の握る懐中電灯の光を白く吸い込んでいく。
 三両目の座席の下。昼間、カブトムシを捕まえるために這いつくばったのと同じ、冷たい床。
 そこにある毛布の塊を見下ろしたまま、奈緒は硬直していた。
 毛布が、もぞりと動いた。
 最初は、野良猫か何かが紛れ込んだのかと思った。
 奈緒はライトの光を細く絞り、シートの脚の隙間へ向けた。
 毛布の合わせ目から、何かがはみ出している。五本の、ひどく小さな突起。
 ――手だ。
 クリーム色の、爪の先までまだ柔らかそうな、人間の手。それが宙を掴むようにして、かすかに震えた。
 奈緒は息を止めた。懐中電灯を持つ右手が、自分の意志とは無関係に小刻みに揺れる。光の円が、毛布の裂け目をじりじりと照らし出していく。
 毛布の隙間から、小さな頬が見えた。
 まだ泣いていない。ただ深く、眠っている。そのことが、奈緒にはかえって不気味で、怖かった。
 生後数ヶ月ほどだろうか。乳児の小さな胸だけが、頼りなく一定の周期で上下していた。
 生きている。それだけは分かった。
 奈緒は床に膝をついたまま、声を失った。周囲を見渡すが、窓の向こうの暗闇にも、連結部のドアの向こうにも、人影はない。乗客は全員降りた。車掌も先ほどホームへ向かった。電車はあと数分で回送になり、車庫へ引き上げられる。
 このまま自分が気づかなければ、この命は誰もいない暗い車庫で、朝まで放置されていた。
 奈緒は震える両手を、毛布の下に差し込んだ。
 小さな体は、思っていたよりずっと重かった。抱き上げた瞬間、その重みが腕から胸の奥まで沈み込んでいく感覚があった。
 行方の分からない親、置き去りにされた命、これから始まる面倒な手続き。頭の隅では、そうした厄介事の輪郭がちらついていた。それなのに、胸の内側で今まで一度も鳴ったことのない音が鳴っている。
 その音が何なのか、奈緒には分からなかった。ただ、腕を放したくないと思った。
 毛布の端から覗く小さな耳が、奈緒の心臓の音を聞いているように見えた。呼吸のたびに上下する胸の薄さに、指先が触れるのをためらった。壊れものを持つときの緊張と、まったく違う緊張だった。
 自分の腕の中に、これほど熱を持つものが収まったことが、これまであっただろうか。台帳に記録してきたどの忘れ物も、こんなふうに重さで語りかけてはこなかった。
 我に返ったように、奈緒は制服のポケットから無線機を取り出した。凍りついた指先が、送信ボタンをうまく押せない。ようやくプラスチックの感触を押し込み、口を開いた。
「……駅務室、こちら敷島」
『はい、駅務室。敷島さん、車内点検終わりましたか』
 若い宮下の声が、ひどく遠くから響くように聞こえた。
「三両目に、」
 奈緒は言葉を詰まらせた。喉の奥がカラカラに乾いている。
「三両目に、忘れ物が……」
 言いかけて、奈緒は自分の言葉に強烈な吐き気を覚えた。
 これを、忘れ物と呼ぶのか。傘や、入れ歯や、カブトムシと同じように、台帳に「特徴:生後数ヶ月、毛布包み」と書き、期限が来たら処分するのか。
 人間を、物のように扱おうとしてしまった自分自身の職業病に、全身の血が引いていく。
『敷島さん? 三両目に何ですか?』
「……赤ちゃんが、います」
 奈緒は、自分の口から出たその言葉の現実味のなさに、めまいを覚えた。
「赤ちゃんが、一人だけで、座席の下に置かれています」
 十分後、静まり返っていた終着駅は、異様な喧騒に包まれていた。
 駅長が血相を変えて飛んでき、続いて通報を受けた警察のパトカーと救急車が、赤色灯を激しく回転させて駅前ロータリーに滑り込んできた。
 プラットホームを、複数の大人の足音がドタドタと駆け抜けていく。
 赤ちゃんは、駆けつけた救急隊員の手によって毛布ごと抱き上げられ、すぐに救急車へと運び込まれた。奈緒はその様子を、ホームの端からただ見つめることしかできなかった。
 隊員に抱えられたときも、赤ちゃんは泣かなかった。一瞬、薄く目を開けたようだったが、すぐにまた深い眠りへと落ちていった。その不自然なほどの静けさが、奈緒の胸に冷たい澱のように残った。
 この子は、誰にも助けを求めていないように見える。
 駅長が、奈緒の肩に手を置いた。
 駅長の声は、いつもの軽口とは違う響きを帯びていた。
「敷島くん、大丈夫か。顔、真っ青やぞ」
「……大丈夫です」
 声は思っていたより、しっかりしていた。自分でも意外だった。
 駅長はそれ以上何も言わず、事務室から毛布を一枚持ってきて奈緒の肩にかけた。
「敷島さん、こちらへ」
 制服を着た二人の警察官が、奈緒に近づいてきた。一人は手帳を広げ、もう一人は懐中電灯で三両目の車内を覗き込んでいる。
「第一発見者の敷島奈緒さんですね。発見時の状況を詳しく教えてください」
「……いつものように、最終列車の車内点検をしていました。一両目と二両目には何もなくて、三両目の、後ろから二番目の座席の下に、毛布が見えました」
「そのとき、周囲に不審な人物はいませんでしたか?」
「いませんでした。乗客の方は、全員改札を出られましたし、車掌も最後まで確認していましたから」
「毎日、この時間に車内点検を?」
「はい。十年近く、欠かしたことはありません」
 警察官はその答えに小さく頷き、手帳に何かを書き込んだ。
「この最終列車は、起点駅からここまで、七つの駅を通っていますね」
「はい」
「どの駅からこの子が乗せられたか、何か見当はつきますか? 例えば、途中の駅で大きな荷物を持った不審な人物が降りたとか、車掌からの報告は?」
「……分かりません」
 奈緒が静かに首を振ると、警察官は顔を上げ、夜の線路の先を見つめた。
「そうですよね。じゃあ、そこから調べましょう。七つの駅の防犯カメラと、今日の乗客の割り出しです。車内に置き去りにするなんて、とんでもない育児放棄だ」
 とんでもない育児放棄。
 警察官の放ったその言葉は、正論だった。しかし、奈緒の耳にはその言葉がどこか上滑りして聞こえた。
 あの薄暗い座席の下、カブトムシが隠れていたのと同じ狭い隙間に、丁寧に毛布に包まれて置かれていた命。
 あれは本当に、単なる「放棄」なのだろうか。
 毛布は、汚れていなかった。継ぎ目のほつれもない、真新しい生地だった。誰かがどこかの店で選び、レジで代金を払い、この子のために用意したものだ。
 放り出すつもりの人間が、そこまでするだろうか。
 救急車のサイレンが、遠ざかっていく。赤い光の名残だけが、しばらく夜空に滲んでいた。
「敷島さん、ひとまず駅務室で調書をとらせてください」
「はい」
 奈緒は歩き出しながら、もう一度、誰もいなくなった三両目の車両を振り返った。
 どの駅から、この子は一人だったんだろう。
 線路が途切れるこの終着駅まで、誰にも気づかれず、誰の手にも触れられず、ただ揺られてきたのだろうか。
 車両の連結部で、冷たい夜風が奈緒の頬をかすめた。遠くで、始発列車を準備する物音が微かに響き始めていた。

第三章 足止め

 救急車は来た。けれど、そこから動けなかった。
 赤色灯だけが、駅前のロータリーで虚しく回り続けていた。
 駅前を抜ける一本道で、斜面が崩れていた。土砂が車道を埋めている。迂回路も、川の増水で通行止めになっていた。無線から流れてくる声はどれも苛立ち、要領を得なかった。
「児童相談所の職員も、今夜中は無理です。土砂が片付くまで、早くて半日はかかると思ってください」
 電話口の声は、それだけ言って切れた。
 駅長室のソファに、赤ちゃんは寝かされていた。毛布はすでに乾いたものに替えられ、丸い頬にほんのり赤みが差している。奈緒はその隣に、膝を抱えて座っていた。
 救急隊員の一人が駅長室の隅で無線を使い、本部と連絡を取り合っていた。もう一人は赤ちゃんの様子を確認してから、小さくため息をついた。
「バイタルは安定してます。念のため、朝になったら病院で診てもらいましょう」
 救急車自体は結局、出動できないまま駅前に停まっていた。運転手も、無線でどこかと連絡を取り続けている。
 制服姿の若い警察官が、無線機を片手に何度も部屋を出入りする。土砂崩れの現場対応、避難所の開設、住民からの問い合わせ。彼が抱えているものは、この部屋の中にあるものよりずっと多く見えた。
 駅長も、電話とファックスの間を行き来していた。窓口業務の代替、始発の見通し、本社への状況報告。誰もが、それぞれの持ち場で手一杯だった。
 この部屋にだけ、時間の流れ方が違っている。奈緒はそんな錯覚を覚えた。
「敷島さん、すみません。ちょっとこっちを」
「行ってください。私が見ていますから」
 奈緒がそう言うと、警察官は一瞬迷う顔をした。それでも頭を下げ、部屋を出ていった。
 ドアが閉まる。
 部屋には、奈緒と赤ちゃんだけが残った。
 机の上の内線電話が鳴った。忘れ物センターからの、ただの問い合わせだった。
「五番線の座席に、灰色のマフラーが」
「回収済みです。三日間、預かります」
 いつもと同じ受け答えをしながら、奈緒の目はソファの上から離れなかった。小さな胸の上下だけを、追い続けていた。
 時計の針は、九時を回っていた。
 奈緒は台帳を取り出そうとして、やめた。この子の「特徴」を、どこに書けばいいのか分からなかった。
 誰かに聞くべきかもしれない、と一瞬思った。けれど部屋の外に出れば、この重みを誰かに預けることになる。
 それは、したくなかった。
 ミルクの作り方は、壁に貼られた紙に書いてあった。誰かが以前、同じような事態を想定して用意したものらしい。哺乳瓶を煮沸し、湯を測る。粉を溶かした。手順を一つずつこなすうちに、指先の震えは少しずつ収まっていった。
 哺乳瓶を差し出すと、赤ちゃんは顔を振った。乳首がうまく捉えられず、何度も外れる。そのたびに、奈緒は角度を変えた。四度目で、ようやく小さな口がそれをとらえた。
 こく、こく、と喉が動く音がする。
 腕の中の重みが、少しずつ変わっていく気がした。最初は、ただ「軽い」と思った。次第に、その軽さの中に熱が広がっていることに気づく。腕を伝って、肩まで。
 小さな手が、奈緒の指に触れた。握る、というほどの力はない。それでも五本の指が、奈緒の人差し指の関節に絡みついていた。
 奈緒はその手を見つめたまま、動けなくなった。
 これまで何百という忘れ物を、この手で扱ってきた。傘、手袋、弁当箱。どれも、持ち主の生活の匂いがした。けれど、それは匂いだけだった。温度はなかった。
 台帳に記録した数だけ、奈緒は他人の生活の断片に触れてきた。触れて、記録して、期限が来れば手放す。それだけの繰り返しだった。
 この手には、温度があった。
 窓の外では、雨が窓ガラスを叩き続けていた。時折、遠くで土砂の崩れる音が響く。駅全体が、小さく震えているようだった。
 赤ちゃんはミルクを飲み終え、うとうとと瞼を落とし始めていた。奈緒はその重みを、少しだけ抱え直した。
 腕が痺れてきていることに、今さら気づく。それでも、下ろす気にはならなかった。
 半日。あと何時間、この重みは自分の腕の中にあるのだろう。
 もっと長くてもいい。心のどこかで、そう思っている自分に気づいていた。
 その考えに、奈緒は少しだけ戸惑った。戸惑いながらも、腕を解く気にはなれなかった。

 昼を過ぎても、雨はやまなかった。始発から、電車は全線運休になっている。
 窓ガラスを打つ雨粒は、朝よりも太くなっていた。天気予報は、警報の色をさらに濃くしていた。
 駅には、物音がなかった。ホームにも改札にも、人の姿はない。いつもなら何本もの電車が行き交う時間に、線路だけが黒く濡れて延びていた。
 自動販売機の明かりだけが、誰もいない改札の奥でぽつんと灯っている。奈緒は駅長室の窓越しに、その光をぼんやりと眺めた。
 これほど静まり返った駅を、奈緒は見たことがなかった。音のない駅は、どこか別の場所のように見えた。
 奈緒はソファの端に座り直し、赤ちゃんの背中をさすっていた。寝息は規則正しいというより、途切れがちだった。それが、手のひらに伝わってくる。
 昼過ぎ、赤ちゃんが泣き出した。理由は分からなかった。おむつを替えても、ミルクを与えても泣き止まない。
 おむつを替えるのは、初めてだった。壁に貼られた説明書きを何度も読み返しながら、不慣れな手つきでテープを留める。うまく留まらず、二度、三度とやり直した。
 ようやく形になったとき、奈緒は自分の額に汗が浮いていることに気づいた。
 窓の外の雨音に紛れて、赤ちゃんの泣き声だけが部屋いっぱいに響いていた。壁の薄い駅長室に、その声はどこまでも遠慮なく反響した。
 抱いたまま部屋を歩き回るうちに、ようやく泣き声が小さくなっていった。
 歩くたびに、腕の中の重みが少しずつ揺れる。その揺れに合わせて、奈緒も無意識に体を左右に傾けていた。誰に教わったわけでもない動きだった。
 汗が首筋を伝う。制服のシャツが、背中に張りついていた。
 三時を過ぎたころ、無線が短く鳴った。
「敷島さん、そちらはどうですか」
 さっきの警察官の声だった。
「大丈夫です。よく寝ています」
「すみません、まだこちらを離れられそうにありません。土砂の量が、思ったより多くて」
「気にしないでください」
 通話が切れる。奈緒はその静けさの中で、ふと自分の声を思い返した。今の自分の声は、いつもより少し柔らかかった。
 いつもなら苛立たしく感じるはずの中断が、今日はどこか他人事のように軽く感じられた。窓口の仕事も時刻表も、今のこの部屋からはひどく遠いところにあるようだった。
 机の上の電話が、また鳴った。忘れ物センターの受付だった。
「傘の忘れ物なんですが」
「今日は、少しお待たせすることになるかもしれません」
「はい、大丈夫です。この天気ですから、無理もないですよね。お待ちしてます」
 電話の相手は、拍子抜けするほどあっさりと引き下がった。
 いつもなら苛立つはずの用件が、今はひどく遠いことのように思えた。
 夕方近く、無線から声が届いた。
「敷島さん、一つ報告です。子どもの母親を名乗る女性が、こちらに向かっているそうです。土砂が片付き次第、そちらに合流させます」
 母親。
 その一言に、奈緒は自分の腕の中を見下ろした。
 小さな寝顔は、変わらず穏やかだった。
 奈緒の腕の中で、何かが静かに抵抗していた。
 母親という響きが、耳の奥にまだ残っている。会ったこともない誰かの輪郭を思い浮かべようとして、奈緒はうまくいかなかった。
 窓の外では、雨がまだ勢いを保ったまま降り続いている。土砂崩れの復旧には、まだ時間がかかるという。
 その時間が、奈緒にはむしろありがたかった。
 雨脚は、まだ弱まる気配を見せない。窓の外の暗さが、そのまま奈緒の胸の内を映しているようだった。

第四章 母親を名乗る女

 午後七時を過ぎて、雨はようやく霧のような細かさになっていた。
 駅前にタクシーが停まり、若い女が降りてきた。傘も差さず、濡れた前髪が額に張りついている。
 タクシーの運転手が、心配そうにその後ろ姿を見送っていた。料金を払う間も惜しんで、飛び出してきたのかもしれない。
 女は改札を抜け、まっすぐ駅長室へ向かってきた。息が上がっている。化粧は崩れ、目の下にマスカラが滲んでいる。歳の頃は、二十代後半だろうか。
 サンダルの片方の鼻緒が、途中で切れかけているらしい。歩くたびに、足を庇うような不自然な動きが見えた。
「すみません、遅くなって……子どもを、迎えに」
 女の視線が、部屋の中を素早く一巡した。ソファの赤ちゃんを見つけると、その視線がわずかに止まった。安堵というより、確認するような目つきだった。
 付き添いの警察官が、手帳を確認しながら女の前に立つ。
「お名前と、続柄を確認させてください」
「田村……悠花です。母親です」
 奈緒は、ソファの上でようやく寝ついた赤ちゃんを見下ろした。腕の中の重みを、まだ手放したくなかった。
 警察官が母子手帳の提出を求めると、女はバッグの中を何度も探った。ようやく、古びた手帳を差し出す。
 奈緒はその手帳を、台帳を扱うのと同じ目で見た。表紙の名前の欄、生年月日、予防接種の記録。ページをめくる警察官の指の動きを、奈緒はじっと追った。
 手帳のカバーは、ずいぶんと使い込まれていた。角が丸くなり、表紙の文字も擦れて薄くなっている。それなのに、中の記載は妙に整然としていた。
 接種の記録が、最後のページまで細かく埋まっている。
 字の筆跡が、途中から変わっていることに奈緒は気づいた。前半は丸みを帯びた字、後半は角ばった字。同じ人物が書いたようには見えなかった。
 生後数ヶ月の子にしては、記録が多すぎる。
「お子さんを、どうぞ」
 奈緒は立ち上がり、女に赤ちゃんを差し出した。
 その瞬間、赤ちゃんが火のついたように泣き出した。
 女は驚いたように身を引き、両手だけを伸ばして受け取った。抱くというより、持ち上げるような手つきだった。腕の中に収めても、赤ちゃんとの間には不自然な隙間が残っている。
「あら……よしよし」
 声も、どこか台詞のように硬かった。
 奈緒はその光景を、少し離れた場所から見ていた。
 半日、自分の腕の中で眠っていた重みを思い出す。あの重みと今の重みが、同じだとは思えなかった。
「……この手帳、二人分の記録が混ざっていませんか」
 奈緒が言うと、警察官が怪訝な顔でページをめくり直した。
 女の顔から、表情が消えた。
 しばらく沈黙が続いた。女は赤ちゃんを抱いたまま、その場に座り込んだ。
「……違うんです。私、この子の母親じゃない」
 警察官の声が、一段低くなった。
「どういうことですか」
「預かってただけなんです。友達に、二日だけって頼まれて……でも、迎えに来なくて」
「友達の名前は」
 警察官が尋ねると、女は俯いたまま消え入りそうな声で答えた。
「知念、って言ってました。下の名前は……知りません。半年前に、駅の近くのシェアハウスで知り合っただけで」
「どんな人でしたか」
 奈緒が尋ねると、女は驚いたように顔を上げた。警察官も、ペンを止めて奈緒を見た。
「……大人しい人でした。あまり自分のことを話さなくて。でも、子どものことになると、急に必死な顔になるんです」
 女はそこで言葉を切り、膝の上で両手を握りしめた。
「頼まれたとき、ちょっと変だとは思ったんです。荷物、ほとんど持ってなかったから」
「連絡先は」
 女はスマートフォンを取り出し、震える指で操作した。
「これです。でも、もう三日、繋がらなくて」
 画面に表示された番号に、警察官が手帳の番号を書き写す。
「二日だけ預かってほしいって、言われたんです。お金に困ってるみたいで、少しの間だけって……でも、約束の日になっても連絡がなくて」
 女は言葉を切り、腕の中の赤ちゃんを見た。赤ちゃんは、まだ泣き止まない。
「私、怖くなって……。ニュースになったら、誘拐だと思われるかもしれないって。だから、母親のふりをして迎えに来ました」
 女の声が、震えを帯びていく。
「バイト先を辞めたばかりで、貯金もほとんどなくて。それでも、放っておけなかったんです。知念さんの連絡が途絶えてから、毎晩この子と二人であの部屋にいて……このまま誰も来なかったらどうしようって、そればっかり考えてました」
 警察官はしばらく黙って、女の言葉を手帳に書き取っていた。
 奈緒は、女の膝の上に置かれたバッグを見た。
 端から、折り畳まれたレシートがはみ出している。
 コンビニのレシート。印字された住所は、この駅から七つ離れた隣県の町の名前だった。
 警察官が、奈緒の視線に気づいた。
「敷島さん、それ」
 奈緒は無言で、レシートを指差した。
 警察官はバッグに手を伸ばし、レシートを取り上げて住所を確認した。表情が、みるみる引き締まっていく。
「……ここ、知念という女性の実家がある町だ」
 警察官はその場で無線を取り、住所の照会を本部へ依頼した。応答を待つ間、部屋には誰の声もなかった。
 女は赤ちゃんを抱いたまま、床に視線を落としている。田村悠花という名前だけが、手帳の欄に書き足された。
 無線が短く鳴り、担当地域の駐在所への確認が取れたことが伝えられた。該当の住所に、知念という姓の家がかつて存在していたという。
 部屋の空気が、一段と張り詰めた。
 女は、まだ床に座り込んだままだった。腕の中の赤ちゃんはいつの間にか泣き止み、浅い眠りに落ちていた。

第五章 置き去りの本

 昼下がり、二番線の座席に一冊の文庫本が残されていた。
 カバーもかかっていない、随分と読み込まれた一冊だった。ページの端が、あちこち折られている。奈緒はいつものように、持ち主の手がかりを探して表紙をめくった。
 背表紙は日に焼けて色褪せ、何度も読み返された形跡があった。持ち主がどれほどこの本を大切にしていたか、開く前から伝わってくるようだった。
 見返しに、万年筆の文字があった。
「誠へ いつか二人でこの海を見に行こう 由紀」
 窓口の外を、夕方の電車がゆっくりと通過していく。その音が収まるのを待つように、奈緒はその文字をしばらく見つめた。
 インクの色も字の癖も、まるで違う。それでも、似たようなことが確かにあった。
 誠と由紀。会ったこともない二人の名前が、なぜか胸の奥の古い引き出しを揺らした。
 窓の外では、蟬の声が絶え間なく響いていた。夏の匂いが、あの頃と同じ強さで鼻先をかすめた。
 何年前だったか。渡された本の見返しに、同じような文字が並んでいたことが。
 その本を渡されたのは、ちょうどこのホームだった。
 あれは、五月の終わりだった。梅雨入り前の、乾いた風が吹く夕方。
 仕事帰り、改札の外で待っていた直也が旅行雑誌の隣にあった文庫本を照れくさそうに差し出してきた。
「読んでみて。俺の好きな話」
 二人は、その週末に海を見に行く約束をしていた。直也は、本の中の海と実際に行く海を勝手に重ね合わせているようだった。
「主人公が、最後に何も言わずに海を見に行くんだ。俺、そこが好きで」
 直也はそう言って、少し照れくさそうに笑った。奈緒はその笑い方を、今でもはっきりと覚えている。何かを大事に思うとき、直也はいつも少し照れたような顔をした。
 表紙には、海辺の写真が使われていた。奈緒は表紙をちらりと見ただけで、鞄の底に押し込んだ。読む、とは言わなかった。
 それが彼からもらった最後の贈り物になるとは、そのときは知らなかった。
 あの週末の約束は結局、果たされなかった。奈緒の急な仕事が入り、旅行は延期になった。延期はもう一度延期になり、そのままうやむやになった。
 延期を告げたとき、直也は特に何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。その顔を見て、奈緒はなぜか安堵していた。約束が消えたことに、どこかでほっとしていた自分がいた。
 その頃から、奈緒は直也の連絡を後回しにすることが増えていった。仕事を理由にすることが、便利だった。
 あのときは、受け取った本を最後まで読まないまま本棚の奥に押し込んだ。彼と別れてからも、その本だけは捨てられなかった。
 いや、正確には違う。
 捨てられなかったのではない。持って出ることさえ、しなかっただけだ。
 引っ越しのとき、荷物をまとめる段ボールの隅にあの本を入れなかった。理由をつけて、置いていった。
 あの本は、今もあの部屋にあるのだろうか。それとも、次の住人の手で処分されてしまっただろうか。
 連絡を取れば、分かることかもしれない。それでも、奈緒は連絡先を消していた。消したことすら、今の今まで忘れていた。
 消したのは、いつだっただろう。はっきりとした記憶はない。ただ指がその番号の上を滑り、迷いなく削除を押したことだけは覚えている。
 あれも、忘れ物だったのだろうか。
 それとも、自分が意図的に忘れ物にしてしまったのだろうか。
 宮下が、書類を届けに事務室へ入ってきた。
「敷島さん、それ、まだ持ち主現れないんですか」
「うん。もう少しで期限切れ」
「珍しいですね、敷島さんがそんなに気にするの」
 奈緒は、答えの代わりに曖昧な笑みを返した。
 宮下はそれ以上追及せず、書類の束を机に置いて事務室を出ていった。ドアが閉まる音が、いつもより大きく響いた気がした。
 奈緒は本を開き、もう一度見返しの文字を目で追った。誠へ いつか二人でこの海を見に行こう 由紀。
 誠は、あの日の海を由紀と見たのだろうか。それとも約束だけを残して、この本と同じように手放してしまったのだろうか。
 答えの出ない問いを、奈緒はしばらく胸の中で転がし続けた。
 奈緒は手の中の文庫本を、そっと台帳の脇に置いた。持ち主の名前は、まだ分からない。
 台帳には、保管開始日と特徴だけを書き込む。名前の欄は、いつまでも空白のままだった。
 窓の外を、夕方の風が吹き抜けていく。ホームの端で、誰かの傘が音もなく倒れた。

第六章 呉

 休暇届を出すのに、三日かかった。
 理由の欄に、何度も書いては消した。「私用」という三文字に落ち着くまで。
 三日の間、奈緒は普段通りに窓口へ立ち、傘や手袋を受け渡していた。誰にも気づかれないところで、決意だけがゆっくりと固まっていった。
 駅長はその届けを受け取ると、老眼鏡越しに奈緒の顔をしばらく見た。
「敷島くんが休みを取るなんて、珍しいな」
「……はい」
 それ以上は、何も聞かれなかった。
 窓口を出るとき、駅長は一言だけ付け加えた。
「まあ、たまにはゆっくりしいや」
 その言葉にどう返せばいいか分からず、奈緒は小さく頭を下げただけだった。
 休みの初日、奈緒は自宅の押し入れから古い段ボール箱を引っ張り出した。
 押し入れの奥は、思っていたより深かった。腕を伸ばし、埃をかぶった箱の角をようやく捉えた。
 中身は、長い間開けていない。
 ガムテープの端が、経年で黄ばんでいた。爪を立てて剥がすと、乾いた音が畳の上に響いた。
 蓋を開けると、埃と古い紙の匂いが立ち上った。
 一番上に、卒業アルバムがあった。その下に、使われなかった観劇のチケットの束。さらに下に、写真の入った封筒。
 奈緒は畳の上に座り込み、一枚ずつ取り出していった。
 卒業アルバムを開くと、若い自分の顔が並んでいる。今よりずっと痩せていて、表情も硬い。誰の隣に立つときも、少し距離を取っている自分がそこにいた。
 その癖は、あの頃からずっと変わっていない。
 観劇のチケット。二枚綴りで、片方だけ使用済みの跡がある。あの日、直也は仕事で来られなかった。奈緒は一人で舞台を見て、パンフレットだけを持ち帰った。
 パンフレットの表紙には、演目の題字の下に小さく日付が印刷されている。あの日、直也は謝りの電話を三度もかけてきた。奈緒はそのたびに「気にしないで」と繰り返し、本当に気にしていないつもりだった。
 封筒の中の写真は、どれもピントが甘い。彼が撮るといつもそうだった。海辺で笑う奈緒、コンビニの袋を提げて歩く後ろ姿、居眠りしている横顔。どれも、奈緒が知らないうちに撮られたものばかりだった。
 一枚だけ、珍しくピントの合った写真があった。花火大会の夜、二人で並んで写っている。直也の手が、奈緒の肩に軽く添えられていた。あのとき、奈緒はその手をそっと払っていた気がする。理由は、もう思い出せない。
 写真の中の自分は、笑っているのに、どこか身構えている。花火の光が顔を照らしているのに、その表情はどこか遠くを見ているようだった。
 封筒の底には、もう何枚か写真が残っていた。二人で行った水族館、夜の観覧車、雪の日の駅のホーム。どれも、奈緒の記憶からはすでに輪郭が薄れていた場面だった。写真だけが、その時間が確かにあったことを証明していた。
 箱の底に、年賀状の束があった。奈緒はそれを輪ゴムから外し、一枚ずつめくっていく。
 年賀状の束をめくる指が、途中で止まった。何年も前に届いた一枚に、見慣れた名前があった。
 差出人は、直也と共通の友人だった夫婦。宛名の下に、小さな文字で近況が添えられている。
「直也くん、去年結婚したみたいですよ。今は呉で、造船関係の仕事をしてるとか」
 奈緒はその文字を、何度も読み返した。
 結婚した。
 その事実は、思っていたよりずっと深く胸に刺さった。写真の中の自分と、今の自分との間には十年以上の歳月が挟まっている。取り戻せるものなど、もうどこにもないのかもしれない。
 それでも、指はスマートフォンの地図アプリを開いていた。
 呉という文字を、検索窓に打ち込む。
 電車を乗り継げば、半日はかかる距離だった。
 画面を見つめたまま、奈緒はしばらく動けなかった。
 会って何を伝えたいのか、自分でも分からなかった。ただ、確かめたいことがある気がした。それが何なのか、言葉にはならなかった。
 窓の外で、蟬の声が一段と高くなった。畳に置いた写真の束に、西日が斜めに差し込んでいる。
 箱の中身を、一つずつ元通りに戻していく。写真も、チケットも、年賀状も。
 最後に、花火大会の写真だけを鞄の内ポケットに滑り込ませた。
 最後に、あの文庫本のことを思い出した。持ち主の分からないまま、忘れ物センターの棚に置かれている一冊。
 あの本の見返しの文字を、なぜ今になって思い出したのか自分でも分からなかった。
 奈緒は段ボール箱に蓋をした。
 三日後、始発の電車に乗った。
 ホームには、まだ人の姿がまばらだった。奈緒は切符を握りしめたまま、来る電車をじっと待った。

第七章 呉、その日

 呉の駅を降りると、潮の匂いがした。
 改札を出ると、山の斜面にへばりつくように家々が並んでいるのが見えた。坂の多い町だった。奈緒の暮らす終着駅の周辺とは、何もかもが違って見えた。
 造船所の方角から、重機の音が絶え間なく響いてくる。奈緒は地図アプリも見ずに、その音の方向へ歩き出した。
 途中、商店街を抜けた。魚屋の店先に、氷の上で光る魚が並んでいる。呼び込みの声が、聞き慣れない訛りで飛び交っていた。
 昼過ぎ、奈緒は造船所の正門近くのベンチに座った。行き交う作業服の群れを、眺め続ける。
 自動販売機で買った缶コーヒーは、いつの間にか温かさを失っていた。
 男たちの顔を、一人ずつ確かめる。似た背格好の男が通るたび、奈緒は身を乗り出しかけては座り直した。
 十年という歳月が記憶の中の顔をどれくらい変えてしまうものなのか、奈緒には見当もつかなかった。
 クレーンの軋む音と、遠くで響く溶接の火花の匂いが昼の空気に混じっている。奈緒はこの町に来るのは、初めてだった。
 途中、休憩に出てきた別の作業員たちが怪訝そうな視線を向けてくる。奈緒は、それに気づかないふりをした。
 スマートフォンの画面には、宮下からの短いメッセージが届いていた。「休み中すみません、明日の朝一で電話もらえますか」。奈緒はそれに「あとで」とだけ返信した。
 一時間が過ぎた頃、警備員らしき制服の男が近づいてきた。
「あの、どなたかお待ちですか」
「知り合いが、こちらで働いていて」
 奈緒がそう答えると、警備員はそれ以上何も聞かずに持ち場へ戻っていった。それでも、しばらくは遠くからこちらを窺う視線を感じた。
 二時間が過ぎた。
 正門の脇にある自動販売機で、奈緒はもう一本缶コーヒーを買った。ベンチに戻ると、さっきまで座っていた場所は太陽の位置のせいで日陰から外れていた。
 三時間が過ぎた。
 脚が痺れ始めていた。それでも、立ち上がる気にはならなかった。
 夕方の交代の時間になり、大勢の作業員たちが正門から吐き出されてくる。ヘルメットを外し、汗を拭いながら歩く男たちの列。
 その中に、直也がいた。
 昔より少し痩せて、日に焼けている。歩き方だけは、変わっていなかった。
「直也」
 声は、思っていたよりずっと小さく出た。それでも、確かに届いたようだった。
 奈緒が声をかけると、彼は足を止めた。ヘルメットの下から、驚いた顔がのぞく。
「……敷島? え、噓だろ」
「久しぶり」
 直也は周りの視線を気にするように、一度後ろを振り返った。それから、奈緒の全身を上から下まで確かめるように見た。
 旅慣れない普段着のままの自分が、急にどこか場違いに思えた。それでも、取り繕う余裕はなかった。
「何しに来たんだよ、こんなとこまで」
 声の固さは、驚きより警戒に近かった。
 奈緒は、用意していた言葉をどれも口にできなかった。ただ、彼の左手の薬指に嵌まった指輪を見てしまっていた。
 直也もその視線に気づいたのか、ポケットに手を突っ込んだ。
「……メシでも、行くか。この辺、詳しくないだろ」
 暖簾をくぐると、出汁の匂いが奈緒の鼻先をかすめた。
 二人は、駅前の小さな定食屋に入った。
 直也は迷わず、奥の席に奈緒を座らせた。昔から、そうだった。人の目に触れない場所を選ぶ癖が、変わっていない。
 メニューも見ずに、直也は店員に何かを注文した。奈緒には聞き覚えのない、この店の名物らしい定食だった。
 水を運んできた店員が奈緒の顔をちらりと見て、それから直也に何か言いたげな視線を送った。常連なのだろう。直也は、それに小さく首を振って応えた。
 店の壁には、常連客らしき人々の写真が何枚も貼られていた。直也の写真も、その中に交じっていた。奈緒の知らない顔ぶれと肩を並べて笑う直也は、もうこの町の一部になっているように見えた。
 注文を終えると、しばらく二人とも黙っていた。
 店内のテレビが、天気予報を伝えている。台風が、また一つ発生したというニュースだった。
 直也が、先に口を開いた。
「結婚したの、聞いたか」
「うん。年賀状で」
「そっか」
 それだけ言って、直也はまた黙った。
 運ばれてきた定食に、二人とも箸をつけない時間がしばらく続いた。
 湯気が、少しずつ細くなっていく。テーブルの上の水滴だけが、静かに光っていた。

第八章 もう遅い

 先に箸を取ったのは、直也だった。
 湯気の立つ味噌汁の椀を、直也はしばらく両手で包んでいた。何かを言い出す前の、いつもの癖だった。
 味噌汁を一口すすってから、独り言のように話し始めた。
 窓の外を、貨物船の汽笛がもう一度通り過ぎていった。
「俺さ、あの旅行のとき、指輪持ってたんだ」
 奈緒は、箸を止めた。
「知らなかっただろ。言うタイミング、逃しっぱなしでさ」
 直也は自嘲するように笑い、茶碗に目を落とした。
「でも、実を言うと、行く前から分かってた気もするんだ。多分、お前は来ないんだろうなって」
「……どういう意味」
 直也は、しばらく箸を置いたまま黙っていた。窓の外を、貨物船の汽笛が通り過ぎていく。
「お前は、失うのが怖いんじゃない。多分、始めることが怖いんだ」
 奈緒は、何も言い返せなかった。
「何かを大事にし始めたら、いつかそれを失う日が来る。お前はそれが分かってるから、最初から持たないことにしてる。俺と付き合ってるときも、ずっとそうだった。踏み込んでこない。踏み込ませない」
 直也の声は責めているというより、長年抱えてきた疑問をようやく口にしているという響きだった。
「花火大会のとき、覚えてるか。俺が肩に手を置いたら、お前、さりげなく避けただろ」
 奈緒は、あの写真の中の自分の表情を思い出した。あれを、直也は覚えていた。
「別に責めてるわけじゃない。ただ、ずっと不思議だったんだ。なんでこんなに近くにいるのに、いつも一枚膜があるんだろうって」
 店内のテレビが、天気予報から別のニュースへと切り替わった。誰の耳にも入っていなかった。
「今日、何しに来たかも、何となく分かるよ」
 直也の声に、責める色はなかった。ただ、静かだった。
 店の奥で、店員が皿を重ねる音がした。その乾いた音が、二人の間の沈黙を一層深くした。
「けど、もう遅い」
 奈緒は、テーブルの木目を見つめたまま動けなかった。
「実は、子供ができたんだ。来年の春に」
 その一言が、店内のざわめきの向こうから届いた。
 奈緒の手の中で、湯呑みの温もりだけがはっきりと感じられた。
 店の奥から、賑やかな笑い声が響いてきた。別の客たちの、屈託のない会話。その音が、奈緒には遠い国の言葉のように聞こえた。
 窓の外を、自転車に乗った子供たちが横切っていく。ベルの音が、やけに鮮明に耳に届いた。
 おめでとう、と言うべきだと分かっていた。けれど、声が出てこなかった。
 しばらくして、ようやく口から出たのは別の言葉だった。
「……よかった」
 自分でも、何がよかったのか分からなかった。
 直也は少しの間、奈緒の顔を見ていた。それから、初めて優しい声で言った。
「お前も、まだ間に合うと思うよ。俺で終わりじゃない」
 その言葉は、慰めにしてはあまりに正しすぎた。奈緒は、何も答えられなかった。
「膜、って言ったけど」
 しばらくしてから、奈緒はようやく声を絞り出した。
「破ったら、何か変わってた」
 直也は少し考えるように視線を上げた。
「分からない。でも、何も始まらないよりは、良かったんじゃないかな」
 その答えに、正解も不正解もない気がした。奈緒はただ、湯呑みの底に残った茶葉を見つめていた。
 直也は、財布を取り出しながら立ち上がった。奈緒も、遅れて腰を上げる。
 二人は、それ以上何も話さなかった。
 定食は半分以上残ったまま、店員が皿を下げていく。
 会計を済ませて店の外に出ると、潮風が強くなっていた。
 空はもう、藍色に近い色に変わり始めている。港の方角から、船の汽笛がもう一度聞こえた。
「駅まで送ろうか」
「大丈夫。一人で帰れる」
 直也は少しの間、何か言いたそうな顔をしていた。それでも何も言わず、小さく頭を下げた。
「じゃあ、元気で」
「うん。おめでとう、本当に」
 今度は、その言葉がちゃんと声になった。
 直也は一度だけ振り返り、小さく手を上げた。奈緒もそれに合わせて、片手を軽く持ち上げた。
 商店街の明かりが、一つ、また一つと灯り始めている。夕方の人波の中に、直也の後ろ姿は少しずつ紛れていった。
 直也の背中が夕暮れの人混みに紛れて見えなくなるまで、奈緒はその場に立ち尽くしていた。
 潮の匂いを含んだ風が、頬をかすめて通り過ぎていく。奈緒は、駅への道を一人で歩き出した。

第九章 着信

 帰りの電車は、行きよりも混んでいた。
 窓際の席に座り、奈緒は流れていく夕暮れの景色を眺めていた。
 座席の背もたれは、思っていたより硬かった。呉に向かうときと同じ座席のはずなのに、今は違う質感に感じられる。
 直也の言葉が、まだ耳の奥に残っている。始めることが怖い。膜。何度も反芻しても、その意味が完全に胸に収まる感じはしなかった。
 向かいの座席では、部活帰りらしい学生たちが賑やかに笑い合っている。その屈託のなさが、今の奈緒にはひどく遠いもののように映った。
 鞄の内ポケットに入れた花火大会の写真のことを、ふと思い出す。取り出して見る気にはならなかった。
 スマートフォンが震えたのは、乗り継ぎ駅に着く直前だった。画面に、宮下の名前が表示されている。
 着信音は、いつも通りの単調なメロディだった。それなのに、心臓の音だけが急に速くなった。
 車内アナウンスが、次の停車駅を告げる。奈緒は画面をタップして、電話に出た。
「敷島さん、今大丈夫ですか」
 その声には、いつもの事務的な響きとは違うわずかな緊張があった。
「大丈夫。どうかした」
「知念さん、見つかりました」
「隣県の、女性のためのシェルターにいました。三日前に保護されていたそうです。携帯が繋がらなかったのは、シェルターの規則で没収されてたからみたいで」
「無事なの」
「はい。ただ……」
 宮下の声が、一瞬止まった。
「知念さん、敷島さんに会いたいって言ってるそうです。子どもを見つけてくれた人に」
「知念さんは、元気にしてる」
「疲れてはいるみたいですけど、大丈夫だそうです。それより、あの子のこと聞かれても大丈夫ですか」
「大丈夫」
 自分の声が、思っていたより落ち着いていることに奈緒は驚いた。
 周りの乗客たちは何も知らずにスマートフォンを眺めたり、うとうとと舟を漕いだりしている。奈緒だけが、その日常から一人切り離されたように感じた。
 奈緒は、窓の外の暗くなっていく景色に目を戻した。
 直也との会話が、まだ胸の中に重く残っている。それなのに、その重さの隙間に別の重みが入り込んでくるのを感じた。
 ふたつの重みは、少しも似ていなかった。それでも、どちらも奈緒の胸から離れようとしない。
 あの毛布の中の重み。
 今も、覚えている。
「……今から、行けますか」
 自分でも驚くほど、迷いのない声が出た。
「え、今からですか。もう遅いですよ」
「行けるところまで行く。場所を教えて」
 自分の声のどこにも、迷いがなかった。それが、奈緒自身にとって一番の驚きだった。
 電話の向こうで、宮下が戸惑うような沈黙を挟んだ。それから、シェルターの最寄駅の名前を告げた。
「明日の勤務、大丈夫ですか」
「休暇、まだ残ってるから」
「分かりました。何か必要なことがあったら、いつでも連絡してください」
 宮下の声には、それ以上の詮索がなかった。奈緒はその配慮に、内心で小さく礼を言った。
 奈緒は路線図を確認し、次の乗り換え駅で降りる決意を固めた。乗り換えまでは、あと二駅あった。
 路線図の中の知らない駅名を、奈緒は指でなぞった。これから会う人のことを、まだ何一つ知らないに等しかった。それでも、迷いは不思議となかった。
 窓の外を流れる景色が、少しずつ知らない町並みに変わっていく。呉から遠ざかるほどに、直也の言葉は逆にはっきりと輪郭を持ち始めていた。
 車窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ疲れて見えた。それでも、目だけははっきりと前を向いていた。
 電車が速度を上げていく。窓の外の光の帯が、少しずつ長く尾を引き始めた。

第十章 知念

 シェルターの面会室は狭く、蛍光灯の明かりが一つだけ灯っていた。壁には、色褪せたカレンダーが一枚だけ貼られている。
 受付で身分証を提示し、面会の理由を簡単な用紙に書かされた。「発見者」という欄はなく、奈緒は「知人」の欄に丸をつけた。
 案内までの間、廊下のベンチで待たされた。壁の張り紙には、支援団体の連絡先や生活相談の案内が並んでいる。
 ベンチの座面は、冷たいビニール張りだった。奈緒は膝の上で両手を組み、扉が開くのを待ち続けた。
 案内されて入ってきたのは、思っていたよりずっと若い女だった。二十代前半だろうか。頬はこけ、目の下に濃い影がある。それでも、その腕の中にはあの重みがあった。
 奈緒は、思わず立ち上がった。パイプ椅子が、後ろに軽く音を立てた。
 赤ちゃんは、あの夜と変わらない寝顔をしていた。
「あなたが……敷島さん、ですか」
 知念の声は、かすれていた。長く声を出していなかったような、掠れ方だった。
「はい」
「この子を、見つけてくれて」
 知念は、深く頭を下げた。赤ちゃんの頭が、その拍子に少し揺れる。
 その姿勢の低さにどう応えていいか分からず、奈緒はただ手を軽く振った。
「よかったら、座って話しませんか」
 二人は、テーブルを挟んで向かい合った。
 自動販売機の唸る音が、部屋の隅から聞こえていた。知念はしばらく視線を彷徨わせてから、ようやく口を開いた。
「変な話に聞こえるかもしれないんですけど」
 知念は、テーブルの木目をなぞるように指を動かした。
「最初から、全部話してもいいですか」
「はい」
 同棲していた相手からの暴力。逃げ出したのは、赤ちゃんを守るためだった。着の身着のまま、駅の反対方向へ向かう電車に飛び乗った。財布には、数千円しか入っていなかった。
 行く当てもないまま揺られるうちに、途中で限界がきた。信頼できる唯一の相手だった田村に、子どもを預けた。
「すぐ戻るつもりだったんです。でも、逃げる途中で、追いかけてこられて……」
 声が、そこで途切れた。
「シェルターに保護されるまで、身動きが取れませんでした」
 その数日間のことを、知念はあまり多くを語らなかった。それでも、言葉の端々から伝わってくるものがあった。
 窓の外を、シェルターの職員らしき人影が横切っていく。知念は、その気配に一瞬体をこわばらせた。数秒たって、ようやく肩の力を抜いた。
 誰かの気配に反応するその癖が、まだ体に染みついているようだった。
「田村さんは、シェアハウスで唯一、優しくしてくれた人でした。でも頼れる立場じゃないことは、分かってました」
 知念は、膝の上で組んだ指に視線を落とした。
「怖くて、何度も、この子を誰かに預けたまま消えてしまおうかと思いました」
 知念は、腕の中の赤ちゃんを少しだけ強く抱き直した。
「でも、無理でした。どうしても、迎えに行かなきゃって、それだけで頭がいっぱいで」
 知念の目に、初めて強い光が宿った。それまでの弱々しさとは違う、確かな芯のようなものだった。
 奈緒は、その言葉を体の内側で繰り返した。
 迎えに行かなきゃ。
 自分は、何に対してそう思ったことがあっただろうか。
 直也との十年前を思い出す。始めることが怖くて、踏み込むことを避け続けた自分。目の前の知念とは何もかもが違うようでいて、どこか同じ場所につながっている気がした。
 知念は、テーブルの上のティッシュを一枚取った。目元を軽く拭う仕草は、泣いているというより涙腺が勝手に緩んだだけのように見えた。
「敷島さんは、この子を見つけてくれたとき、どんな様子でしたか」
 知念に尋ねられ、奈緒は少し考えてから答えた。
「よく眠ってました。あんまり静かで、逆に怖くなったくらい」
 知念は、その言葉に小さく頷いた。
 二人の間に、しばらく穏やかな沈黙が流れた。窓の外を、シェルターの中庭の木の枝が風に揺れていた。

第十一章 結

 面会室の空気は、外の暑さが噓のように冷えていた。
 知念は奈緒の顔を見つめたまま、続きの言葉を待っているようだった。
 白い壁に、簡素なパイプ椅子が二脚。窓には、外から中が見えないよう曇りガラスが嵌まっている。施設らしい、生活の匂いのしない部屋だった。
 奈緒は何と答えればいいのか分からないまま、口を開いていた。
「……昔、大事にしたいと思った人がいました」
 自分でも驚くほど、するりと言葉が出てきた。
「でも、迎えに行きませんでした。行くのが怖かった」
 知念は、何も言わなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
 その沈黙は、責めるでも慰めるでもなかった。ただそこにあることに、奈緒は少しだけ救われた気がした。
「今は、後悔してますか」
 知念の問いに、奈緒は少し考えてから答えた。
「分からない。でも、今日ここに来て、少しだけ分かった気がすることがある」
「何ですか」
「迎えに行かなかったことより、迎えに行けたかもしれない自分に、気づかないふりをしてたことの方が、多分重かった」
 自分の口から出た言葉に、奈緒は少し驚いていた。
「この子、名前が決まったんです」
 知念が、ふと思い出したように言った。
「結、って書きます。誰かと誰かを繋ぐ、結ぶの結」
 奈緒はその一文字を、頭の中で繰り返した。
 結。
 これまで、ずっと「赤ちゃん」としか呼んでいなかった。名前を知った途端、腕の中の記憶が輪郭を持つものに変わっていく気がした。
「抱いても、いいですか」
 奈緒が尋ねると、知念は少し驚いた顔をしてから小さく笑った。
「もちろんです。この子を見つけてくれた人ですから」
 差し出された小さな体を、奈緒はそっと受け取った。
 半日、自分の腕の中にあった重み。あの重みは、記憶の中で少しずつ薄れていたはずだった。それなのに腕に収めた瞬間、輪郭がくっきりと戻ってくる。
 結は、ぐずることなく奈緒の胸に頬を寄せた。
 この子は、覚えていない。覚えているはずがない。それでも、奈緒はしばらくその重みから目を離せなかった。
 小さな指が、また奈緒の指に絡みついた。あの半日と同じ、確かな力だった。
 結の目が、ふっと開いた。焦点の合わない瞳が宙をしばらくさまよってから、奈緒の顔の辺りで止まった気がした。
 部屋の蛍光灯が、その瞳にひとつ小さく映り込んでいた。
 気のせいかもしれない。それでも、奈緒はその一瞬を長く覚えていたいと思った。
 ノックの音がして、支援員らしき女性が顔を出した。
「知念さん、そろそろお時間です」
 知念は頷き、奈緒に向き直った。
「これから、どうするの」
 奈緒が尋ねると、知念は少し考えるように視線を落とした。
「しばらくは、ここで生活を立て直します。仕事を探して、住むところも決めて。それから、正式にこの子を引き取る手続きをします」
「一人で、大丈夫」
「分かりません。でも、やるしかないので」
 その言葉には、迷いがなかった。奈緒には、その迷いのなさが少し眩しく映った。
 知念は、支援団体が紹介してくれた仕事のことを簡単に説明した。清掃の仕事で、シフトも融通が利くという。
「体調は、もう大丈夫なんですか」
 奈緒が尋ねると、知念は小さく頷いた。
「シェルターの人が、いろいろ手続きを手伝ってくれてます。一人じゃ、多分ここまでたどり着けなかった」
「もし、困ったことがあったら」
 奈緒はそう言いかけて、手帳の切れ端に自分の連絡先を書きつけた。
「駅に電話をくれれば、繋いでもらえます。忘れ物センターの敷島、と言えば伝わりますから」
 知念は、その紙を大切そうに両手で受け取った。
「ありがとうございます」
 奈緒は、結を知念の腕に返した。手を離した瞬間、腕の中に残った軽さがいつもより重く感じられた。
「敷島さん」
 知念が、奈緒の名前を呼んだ。
「この子に、いつか駅で拾われた話をしてもいいですか。忘れ物じゃなかった、って」
 奈緒は少しの間、言葉を探した。
「……はい。忘れ物じゃなかった、と伝えてください」
 面会室を出ると、廊下の窓から夕焼けが差し込んでいた。
 奈緒はしばらくその場に立ち、ガラス越しに知念が結をあやしながら部屋を出ていく後ろ姿を見送った。
 施設の玄関を出ると、外の空気は思っていたより涼しかった。夏の終わりが、もうそこまで来ている。
 スマートフォンを取り出すと、駅からの着信が三件入っていた。
 画面の光が、夕焼けの色に溶けて見えにくい。奈緒はそれに応答する前に、しばらく夕焼けを見つめていた。

第十二章 帰路

 最終に近い電車に、奈緒は一人で座っていた。
 車内はまばらで、向かいの座席にも隣にも誰もいなかった。
 車窓には、自分の顔だけが映っている。窓の外の景色は、とうに闇に沈んでいた。
 三件の着信に、奈緒は駅のホームで折り返していた。宮下からだった。
「敷島さん、大丈夫ですか。急にいなくなるから、心配しましたよ」
「ごめん。知念さんに、会ってきた」
「……そうですか」
 宮下は、それ以上何も聞かなかった。ただ、明日の勤務表の確認事項を事務的に伝えてくるだけだった。
 電話を切ると、奈緒は座席の背もたれに深く体を預けた。
 今日一日で、あまりに多くのものを受け取りすぎた気がした。直也の指輪の話。知念の腕の中の重み。結という、まだ耳に馴染まない名前。
 始発に乗った朝の自分と今この座席に座っている自分とでは、同じ人間とは思えないほど何かが変わっている気がした。それでいて、外見はきっと何も変わっていない。
 どれも、持ち帰るには重すぎるもののはずだった。それなのに、不思議と足取りは軽い。
 窓の外を、明かりの少ない町並みが流れていく。ときどき、民家の窓に灯る橙色の光が目の端をかすめては消えた。
 あの家の中にも、それぞれの生活がある。忘れ物とは無縁の、ただ淡々と続いていく暮らしが。
 窓の中には、夕食の支度をしているらしい人影が見えることもあった。テーブルを囲む家族の輪郭が、カーテン越しにぼんやりと動いている。
 奈緒は、これまでその一つ一つに目を向けようとしなかった。傘の忘れ物と同じように、他人の暮らしを遠くから眺めるだけにしてきた。
 けれど今夜は、窓の外の灯りの一つ一つがやけに近く感じられた。
 ポケットの中で、あの写真の栞が入っていた文庫本のことを思い出す。まだ、忘れ物センターの棚に置かれたままだ。
 持ち主は結局、現れなかった。
 三ヶ月の保管期限が過ぎれば、あの本も処分される。奈緒は、それを惜しいと思っている自分に気づいた。
 鞄の内ポケットには、花火大会の写真が入ったままだった。これも、いつかどこかに置いていくことになるのだろうか。それとも、今度こそ手放さずに持ち続けるのだろうか。
 答えは、今はまだ出そうになかった。ただ、以前のように迷わず捨てることはもうできない気がした。
 向かいの座席に座った老人が、缶ビールを片手に舟を漕いでいる。奈緒はその横顔を、しばらく眺めた。この人にも、忘れてきた何かがあるのだろうか。
 考えても、答えは出ない。それでも、そんなことを考える自分に少しだけ驚いていた。
 これまでの奈緒なら、見知らぬ誰かの人生に思いを馳せることなどまずしなかった。
 電車が、大きく揺れた。
 カーブに差しかかったのだと分かるまで、少しの間体が固まった。あの夜、車内で毛布を見つけたときの緊張がまだ体のどこかに残っているのかもしれない。
 揺れが収まると、奈緒は目を閉じた。
 瞼の裏に浮かぶのは、結の重みだった。直也の顔でも、知念の涙ぐんだ横顔でもない。ただ、あの半日分の重みだけがはっきりと残っている。
 自分の腕は、あの重みを覚えている。
 けれど、二度とあの重みを抱くことはないのかもしれない。
 それでも構わない、と奈緒は思った。
 覚えているということが、もう十分な気がした。
 これまでの十年、奈緒は何も失わないように生きてきたつもりだった。何も持たなければ、失うこともない。そう信じて、駅の忘れ物センターという場所に自分でも気づかないうちに逃げ込んでいたのかもしれない。
 他人の忘れ物だけを扱っていれば、自分自身の何かを差し出さずに済む。
 その考えに行き着いたとき、奈緒は少しだけ息苦しさを覚えた。目を開けると、車窓にはまだ自分の顔が映っていた。
 電車が減速を始める。次は、自分の勤める終着駅だった。
 窓の外に、見慣れたホームの明かりが見え始めた。
 到着のアナウンスが流れる。聞き慣れたその声も、今夜は少しだけ違って聞こえた。
 ホームに降り立つと、雨上がりの匂いが鼻先を包んだ。改札へ向かう足取りは、朝出たときよりも少し重かった。

第十三章 日常への帰還

 三週間が過ぎた。
 台風の爪痕はすっかり片付き、始発から終電まで電車はいつも通りに走るようになっていた。忘れ物センターの台帳にも、また傘や手袋の記録が並ぶ日々が戻ってきていた。
 あの夜からこの三週間、奈緒は自分でも気づかないうちに窓口に立つ姿勢が変わっていた。忘れ物を差し出す手つきは同じでも、その後にかける一言が以前より少しだけ増えている。
「駅員さん、また忘れもんしてもうた」
 昼前、山田老人がガラス戸を叩いた。
「山田さん、今度は何ですか」
「補聴器や。片っぽだけ、外れて座席に落としたみたいでな」
 奈緒は引き出しから、小さなビニール袋に入った補聴器を取り出した。
「これですか」
「おお、それじゃ。すまんな、何べんもかけて」
 いつもなら、事務的に受け渡しを終えるだけの場面だった。けれど今日は、少しだけ言葉を足していた。
 言葉にする前に、奈緒はほんの一瞬だけ迷った。それでも、口が先に動いていた。
「山田さん、最近よく忘れ物されますね。お体、大丈夫ですか」
 山田老人は、意外そうな顔で奈緒を見た。
「駅員さんが、そんなこと聞いてくるの珍しいな」
 奈緒はそれに何と答えていいか分からず、曖昧に笑ってごまかした。
 自分でも、少し驚いていた。
 山田老人が帰ったあと、事務室には静けさが戻った。窓の外を、蟬の声が途切れなく埋め尽くしている。
 台帳を整理しながら、奈緒はふと自分の口調を思い返した。以前の自分なら、決して尋ねなかったであろう一言だった。
 電話が鳴った。忘れ物問い合わせの、いつもの内容だった。
「傘、青い柄の折りたたみなんですけど」
 奈緒は引き出しを確認し、該当するものを見つけて答えた。
「お預かりしています。窓口までお越しください」
 電話の相手は安堵したような声で礼を言い、通話を切った。ありふれたやり取りが、今日はどこか違って感じられた。
 昼過ぎ、制服姿の女子高生が三人賑やかに窓口へやってきた。
「すみません、友達のがここに落ちてたはずなんですけど」
「特徴を教えてください」
「スマホケースです。うさぎのキャラクターがついてて、水色の」
 奈緒は引き出しを確認し、該当するケースを取り出した。
「これ! ありがとうございます」
 女子高生たちはお礼を言い合いながら、笑い声とともに改札の向こうへ消えていった。
 午後忘れ物センターの棚を整理していると、あの文庫本が目に入った。
 保管期限まで、残り一週間。
 奈緒はその本を手に取り、事務室の椅子に座った。
 カバーのない、随分と読み込まれた一冊。見返しの文字を、もう一度読む。
「誠へ いつか二人でこの海を見に行こう 由紀」
 この本の誠と由紀が、今どうしているのかは分からない。持ち主は現れなかった。読まれることも返されることもないまま、この本は処分される運命にある。
 これまでの奈緒なら、期限が来ればためらいなく処分の箱に入れていたはずだった。今は、それができずにいる自分がいる。
 奈緒は、表紙を開いた。
 一ページ目から、活字を追い始める。海辺の町を舞台にした、静かな恋愛小説だった。文体は簡素で、装飾の少ない文章がなぜか懐かしく感じられた。
 昼休みの時間を、丸々使った。それでも、読み終わらなかった。続きはまた明日読めばいい、と奈緒は思った。
 夕方、事務室の電話が鳴った。
「はい、忘れ物センターです」
「敷島さん、ですか。知念です」
 受話器の向こうから、あの日より少しだけ明るい声が聞こえた。
「仕事が決まりました。それと来月から、新しいアパートに引っ越します」
「よかった」
 奈緒は、今度は迷わずにその言葉を口にできた。
「結も、元気にしてます。この間、初めて笑ったんです」
 電話越しに、赤ん坊の声がかすかに聞こえた気がした。
「今度落ち着いたら、駅に遊びに行ってもいいですか」
 その問いに、奈緒は自然と頬が緩むのを感じた。
「もちろん」
 電話を切ったあとも、奈緒はしばらく受話器を見つめていた。
 通話を終えたあとの静けさの中で、奈緒はふとあの日ホームで見送った知念の後ろ姿を思い出した。
 窓の外では、夏の終わりを告げる蜩の声が響いている。
 事務室の電気を消す前に、奈緒はもう一度台帳のページを見返した。今日一日の記録が、静かに並んでいる。

第十四章 春の改札口

 春になった。
 終着駅のホームに、桜の花びらが数枚風に運ばれて舞い込んでくる。誰かの忘れ物のように、線路の脇にひっそりと積もっていった。
 奈緒は事務室の窓を開け、その景色を眺めていた。
 あの夏の日から、季節はもう二つ分過ぎている。台風の爪痕も土砂の跡も、今ではどこにも見当たらない。それでも奈緒の腕はまだ、あの半日の重みをどこかに覚えていた。
 台帳は、また新しい一冊に替わっていた。最初のページには、もう傘の記録が三件並んでいる。
 新しい台帳の表紙を開くたび、奈緒は少しだけ手を止めるようになっていた。ここに書き込まれる一つ一つの記録の向こうに誰かの生活があることを、今はもう忘れずにいられる。
 あれから半年が過ぎた。
 直也からは、あの日以来連絡はない。それでいい、と奈緒は思っている。あの店で交わした言葉だけで、十分だった。花火大会の写真は、今も鞄の内ポケットに入ったままだ。
 知念とは月に一度ほど、電話で話す仲が続いていた。結は、もう寝返りを打つようになったらしい。写真も、何枚か送られてきていた。丸い頬に、笑うと目が細くなるところが誰かに似ている気がした。
 先週の電話では、結が保育園の見学に行った話を聞いた。知念の声には、以前にはなかった張りがあった。生活の土台が、少しずつ固まりつつあるのが伝わってきた。
「今度、結の一歳の誕生日に、そっちに遊びに行っていいですか」
 知念にそう尋ねられたとき、奈緒は少し考えてから頷いた。
「もちろん。待ってる」
 電話を切ったあと、奈緒はしばらくその余韻を事務室の椅子に座ったまま味わっていた。
 あの文庫本は結局、奈緒の手元にある。
 保管期限を過ぎても持ち主が現れなかったものは、通常であれば処分される。けれど奈緒は、駅長に頼み込んでそれだけを例外にしてもらった。
 あの本を最後まで読み終えたのは、冬の初めだった。海辺の町の恋人たちの話は、静かな別れで終わっていた。答えらしい答えのない結末が、なぜか心に残った。
 今では、事務室の引き出しの奥にそっとしまってある。
 昼前、窓口のガラスを叩く音がした。
 いつもの合図なのに、今日はその音がどこか懐かしく響いた。
 現れたのは、若い女性だった。手には、大きな旅行鞄を提げている。
「すみません、朝の電車に日傘を忘れてしまって」
 奈緒は、いつものように台帳を開いた。
「特徴を教えてください」
「白地に、レースの縁取りがあって……祖母の形見なんです」
 女性の声が、少しだけ震えていた。
「大切なものなんですね」
 奈緒がそう言うと、女性は少し驚いた顔をした。
「はい。私が子どもの頃、よく一緒に出かけるときに差してくれた傘で」
 奈緒は、引き出しの中を確認する。該当する傘は、すぐに見つかった。
「これですか」
「はい、それです」
 女性は傘を受け取ると、目に涙を浮かべた。
「よかった。もう、二度と会えないかと思いました」
 その言葉に、奈緒の胸の奥で何かが静かに反応した。かつて自分が同じように何かを手放したまま忘れてしまった記憶が、一瞬だけ重なって見えた。
 奈緒はその言葉に、小さく頷いた。
「戻るべきものは、ちゃんと戻ってきます」
 自分でも、驚くほど自然にその言葉が出た。
 昔の自分なら、決して口にしなかった台詞だった。
 女性が頭を下げて去っていくと、奈緒は台帳に受領の斜線を引いた。
 窓口の外を、桜の花びらがまた一枚風に運ばれて過ぎていった。
 窓の外では、始発を待つ乗客たちがホームに列をなし始めている。制服姿の高校生、スーツ姿の会社員、赤ん坊を抱いた若い母親。誰もが、それぞれの行き先を胸に抱えてこの駅を通り過ぎていく。
 これから先も、この駅にはたくさんの忘れ物が届くだろう。傘、手袋、弁当箱。名前も知らない誰かの生活の断片が、次々と机の上に並んでいく。
 その一つ一つに、これからも奈緒は目を向け続けるつもりだった。
 奈緒は、それを拾い続ける。
 けれど、もう昔のようには扱わない。
 どの忘れ物にも、誰かの生活が染みついている。その事実から、目を逸らさずにいようと思う。
 鞄の内ポケットには、今も花火大会の写真が入っている。手放す気は、まだ起きない。それでいい、と奈緒は思う。
 太いボールペンを握り、奈緒は次のページを開いた。
 窓の外を、始発列車が滑り込んでくる。
 いつもと同じ朝が、また始まろうとしていた。
 けれど、その「いつもと同じ」の中に立つ自分はもう半年前とは違う人間だった。













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