小笠原諸島返還50年「数奇な歴史知って」
小笠原諸島が米国から日本に返還され、26日で50年を迎えた。独自の生態系から「東洋のガラパゴス」と呼ばれる島々は、1830年に欧米人らが定住後、明治政府による開拓、太平洋戦争後の米国の統治と近現代史の荒波に翻弄された。返還前の島で生まれ、史実を掘り起こしてきた欧米系の子孫は「美しい島に刻まれた数奇な運命を知ってほしい」と話す。

「向こうに校舎があったはず。懐かしい」。6月中旬、父島(東京都小笠原村)の海岸沿いの公園。米国の統治時代に通ったラドフォード提督学校の跡地を示すレリーフを見つめ、村総務課長のセーボレー孝さん(60)がつぶやいた。
1830年、無人島だった父島に移り住んだ欧米人の一人で米国出身のナサニェル・セーボレーの子孫。祖先は野菜やサトウキビを栽培し、米国の捕鯨船などと交易して暮らした。
移住者の存在は、53年に父島に来航したペリー提督を通じて江戸幕府に伝わったとみられ、幕府は60年代前半に開拓に乗り出す。幕末の混乱から開拓は一度中断されたが、明治政府は75年に再開を決定。翌76年に日本領土と国際的に認められた。移住していた欧米人らは帰化し、新たな移民と共存した。
太平洋戦争時、父島は軍事拠点とされ島全体が要塞に。小笠原諸島の島民の多くに当たる約6800人は本土に強制疎開を余儀なくされ、終戦後の1946年、米軍の統治下の島に欧米系島民と家族129人が戻った。
セーボレーさんは57年、父ジョーイさんと新潟出身の母との間に父島で生まれた。出生名はジョナサン。米軍の子弟と同じ学校に通い、英語で授業を受けた。家庭では「ミーは」など両国の言葉を織り交ぜた。
68年6月26日。校庭から米海軍司令部で開かれた返還記念式典を見つめた。星条旗が降ろされ、日の丸が風に揺れる様子に「これが返還か……」と幼心に衝撃を受けた。新設の小学校でひらがなの書き方を学び、規律を尊ぶ日本式の教育方針に戸惑いを覚えた。
高校生の時、「太平洋を渡った米国の祖先を持ち、日米の間で揺れた小笠原で生まれ育った自分は何者なのか」と自問するようになった。
神奈川県の大学に進学後、米国の図書館に赴くなどし祖先の足跡を探した。「セーボレーの子孫として島の発展に貢献したい」と村役場に就職後も探究心は消えず、仕事の傍ら国内外で島の歴史を示す資料を集める。
「小笠原諸島の歴史は、まさに激動の連続であり、そこで暮らしていた人々は、時代の移り変わりの中で翻弄され、特異な経験を余儀なくされてきた」。旧島民を支援する「小笠原協会」(東京・港)と共に編集し、今年4月に刊行された島の歴史を伝える冊子の冒頭では地元への思いをつづった。
返還後は豊かな自然や穏やかな暮らしを求めて多くの若者が移住。70年に約700人だった父島と母島の人口は、75年時点で約1400人、90年には約2000人まで増えた。一方、返還前を知る人は減少し続ける。
「数奇な運命を知ってこそ、島民としての誇りや島への愛着が生まれる。ぜひ歴史を語り継いでほしい」。返還から半世紀を迎え、セーボレーさんはこう願っている。
一般住民が暮らす父島と母島の人口は2629人(1日時点)。都心と原則週1往復(繁忙期は2往復)の定期船「おがさわら丸」が唯一の交通手段で、父島まで片道24時間を要する。









